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黒い傘は、花嫁の手をひく。  作者: 乾為天女


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14/18

第14話 重なる手、重なる傘

 灯町消防署の会議室は、外から見るよりずっと静かだった。

 壁には町内の地図が貼られ、川沿いの低い道、駅前地下道、古いアーケード、団地へ続く坂道が色鉛筆で塗り分けられている。赤い線は消防車両の進入経路、青い線は雨水が集まりやすい場所、黄色い丸は人が立ち止まりやすい角だった。賢人はその地図を見た瞬間、黒い傘だけで何かを変えられると思っていた自分の粗さを、もう一度見せられた気がした。

 花は会議室の長机の奥に座った。机の上には、筆記具、訓練記録用紙、濡れた床を再現するための注意書き、そして賢人が前に失敗した第二試作の黒い傘が置かれている。傘はきちんと畳まれていたが、連結紐の先だけが少し外へ出ていた。その先端が、賢人には責める指先のように見えた。

 海太は壁際に立ち、腕時計を見た。

 「十時。始めて」

 賢人は鞄から紙束を出した。出した直後、一枚が床へ落ちた。慌てて拾おうとした手が椅子の脚に当たり、椅子が小さく鳴る。

 以前なら、ここで笑ってごまかしていた。

 「すみません」

 賢人は紙をそろえ、立ったまま頭を下げた。

 「先日の雨天確認では、連結紐が荷物カートの突起に絡みかけました。設計時に、杖、ベビーカー、カート、手提げ袋、ランドセルの横幅と突起を想定していませんでした。試験を止めた判断は正しかったです。今日は、その不備と、第三試作で変える点を説明します」

 花は、頷いただけだった。

 その頷きが、胸に刺さるほどありがたかった。

 賢人は紙をめくった。そこには、祖父の伝票と、叶一の図面と、海太が昨日くれた棒の傷の位置を写した手描きの表があった。きれいな資料ではない。端はそろっているが、賢人の字は途中で大きくなったり、細くなったりしている。

 それでも、逃げるための紙ではなかった。

 「まず、連結紐を常時つなぐ方式はやめます。列を保つ必要がある場面だけ、係員が声をかけて、短い距離で使う形にします。紐は、この留め具に変えます」

 賢人は小さな金具を机に置いた。

 豆粒ほどの部品だった。黒い樹脂に、銀色の薄い板が挟まっている。叶一が朝、工場で磨き直したものだ。指で押すと軽く噛み、横から一定以上の力が加わると外れる。

 海太がすぐに手を伸ばした。

 「外れる力は」

 「今朝の段階では、子どもが普通に引いたくらいでは外れません。転びかけたときや、カートに引っ張られたときは外れます。ただ、まだ幅があります。叶一さんは、あと三段階で調整できると言っています」

 「普通とは」

 「ええと……」

 賢人は言葉に詰まりかけて、紙へ視線を落とした。

 「五歳児が片手で引いた場合、大人が急に方向を変えた場合、高齢者が杖をつきながら腕を取られた場合。この三つで分けます。今日の説明のあと、消防署の確認ではなく、町内会の協力を得た持ち方確認を別の日に申請します。もちろん、一般の通行は止めた状態で」

 海太は、留め具を親指で弾いた。

 「言葉は増えたな」

 褒められたのか、ただの確認なのか分からない。賢人は一瞬だけ眉を動かし、次の紙を出した。

 「次に、反射材です。第二試作は、懐中電灯を正面から当てると、見えすぎました。眩しいと前が見えなくなるし、子どもが内側を見上げ続ける可能性があります。第三試作では、線を細くして、傘を少し前へ傾けたときだけ、進行方向へ流れるように見える角度へ変えます」

 「誰が傘を傾けるの」

 花の声だった。

 久しぶりに、賢人の説明へ正面から入ってきた声だった。

 賢人は、花を見た。花は筆記具を持ったまま、賢人ではなく図面を見ている。

 「係員です。全員が自分で判断して傾ける前提にはしません。子どもや高齢者が持つ傘は、ただ開けば内側の点が見えるだけにします。誘導の線がはっきり出る傘は、先頭か、列の途中にいる担当者用に分けます」

 花の筆記具が、紙の上を小さく動いた。

 「担当者用と一般配布用を混ぜない表示は」

 「持ち手の端に、触って分かる凹みを入れます。色だけだと夜や雨で見落とすので、触って分かるようにします。衣代さんが腕章の案も出してくれています」

 「傘を閉じたあとの保管は」

 「濡れたまま床へ置くと滑るので、商店街の柱に仮置き袋をつけます。袋の底から水が流れる場所は、叶一さんと晃煕さんに見てもらいます。駅前地下道では、いったん使わないほうがいいと思っています」

 自分で言って、賢人は喉の奥が少しつまった。

 駅前地下道は、黒い傘の始まりの場所だった。人が止まり、花と再会し、祖父の未完成品へ手を伸ばすきっかけになった場所だった。そこを、今は「使わないほうがいい」と言わなければならない。

 花が顔を上げた。

 「どうして」

 「階段が狭いです。傘を開いたまま上下すると、目印より邪魔になる可能性が高い。地下道では、先に手すりを空ける声かけと、足元灯の確認を優先したほうがいい。黒い傘は、出口へ出てから、雨の中で人の向きをそろえる場面に限ったほうがいいと思います」

 言い終えたあと、会議室の時計の音が急に大きく聞こえた。

 花は、何も言わなかった。

 海太も、すぐには突っ込まなかった。

 沈黙が怖くて、賢人は紙の角を押さえた。けれど、その沈黙は、前のような呆れではなかった。言葉の中身を測っている沈黙だった。

 やがて、花が息を吐いた。

 「そこを分けられるなら、話は進められる」

 その一言で、賢人の肩から何かが落ちた。

 落ちたものは、安心だけではなかった。悔しさも、恥ずかしさも、今さらながらの怖さも混じっていた。けれど、床へ落ちたそれを拾い集めて、次の形にする場所がある。

 会議は一時間を超えた。

 晃煕も途中から入ってきた。白いシャツの袖をきちんとまくり、賢人の資料を見て、「提出書式としてはたいへん素朴ですが、確認したい項目は入っています」と言った。褒めているのかどうか分からない表現だったが、以前の「慎重な確認が必要です」だけで返された日より、ずっと近い場所にいる言葉だった。

 晃煕は町内備蓄、修理責任、使用範囲、説明文の文字の大きさ、雨天時の配布場所を順に書き出した。叶一は呼ばれていないのに、なぜか会議室の外で待っており、晃煕が部品寸法の話をした瞬間に入ってきた。

 「呼ばれてないでしょう」

 花が言うと、叶一は帽子を脱いだ。

 「部品が呼んだ」

 「部品は電話しません」

 「晃煕さんの眉間が、寸法の顔をしていました」

 晃煕は自分の眉間へ手を当て、「そのような顔があるかどうかは別として、助かります」と言った。

 賢人は笑いそうになったが、すぐに資料へ目を戻した。ここで笑って終わらせてはいけない。笑える人たちがいるからこそ、ちゃんと決めなければならない。

 叶一は持ってきた工具箱から、新しい持ち手を出した。

 太めで、表面に浅い溝があり、濡れた軍手で握っても回りにくい。見た目は少し不格好だ。賢人が最初に考えていた、すっと細い黒い持ち手とは違う。

 「これ、重く見えるな」

 賢人がつぶやくと、叶一は持ち手を机に置いた。

 「見た目より、落とさないことを先にする」

 「分かってる」

 「分かってるなら、顔に出すな」

 海太が持ち手を握った。続いて花も握る。花は一度、軍手を借りてから握り直した。水で濡らした布を巻き、傘を開く動きと閉じる動きを試す。髪の横にかかった短い毛が、首筋に張りついた。

 賢人は、昔の浴衣姿でも、宵市の花火でもなく、その手元を見ていた。

 花の手は、迷わない。握る、回す、止める、離す。その一つひとつに、誰かを支えるための順番がある。

 「これなら、前より落としにくい」

 花が言った。

 叶一は頷いた。

 「次は、重さを落とす」

 「できますか」

 晃煕が聞く。

 叶一は、机の端を指で叩いた。

 「できます、とは言わない。やります」

 賢人は、その言い方を心の中で真似した。できます、と軽く言って、あとで逃げるのではない。やる、と言ってから、やるために削る場所を探す。

 会議が終わるころ、黒い傘の第三試作は、まだ完成品ではなかった。

 けれど、止まったままの道具ではなくなっていた。

 使う場所。使わない場所。配る人。持つ人。外れる力。閉じたあとの水。壊れたときの戻し先。説明する言葉。責任の線引き。

 傘の内側に光る線よりも先に、見えない線がいくつも引かれていった。

 昼過ぎ、賢人たちは町工場へ移動した。消防署から真鍋製作所までは歩いて十五分ほどだ。途中、川沿いの道に出る。雨は降っていないが、前日の水が植え込みの土に残り、日差しに少しだけ匂いを立てていた。

 花は勤務の都合で一度署へ戻るはずだったが、海太に何かを確認してから、短い時間だけ同行することになった。賢人はそのやり取りを聞かないふりで歩いた。聞けば、また余計な言葉が口から出そうだった。

 真鍋製作所では、機械の音が朝よりも低く響いていた。金属を削る匂い、油の匂い、磨いた樹脂の粉っぽさ。叶一は作業台に第三試作の部品を並べ、賢人に工具を渡した。

 「持ち手の溝、最後はお前が削れ」

 「俺がやっていいの」

 「お前の傘だろ」

 その言葉に、賢人はすぐ返事ができなかった。

 お前の傘。そう言われると、嬉しさより先に重さが来た。祖父の未完成品を見つけたときの高揚とは違う。町の人たちの手が入っている。花の指摘が入っている。海太の厳しい確認が入っている。晃煕の書類の線が入っている。衣代の見せ方、杏侑子の巻き込み、尚の泣き顔まで、どこかに染み込んでいる。

 それでも、賢人が手を離したら、この傘は進まない。

 賢人は工具を握った。

 持ち手の樹脂を少しずつ削る。強く削りすぎると溝が深くなり、指が痛くなる。浅すぎると滑る。叶一は隣で何も言わず、削り屑の量だけ見ている。花は壁際で、腕を組まずに立っていた。いつものように、出口の位置と床の状態を自然に見ている。

 賢人が一つ目の溝を終えたとき、花が近づいた。

 「貸して」

 賢人は持ち手を渡した。

 花は濡れた布で手を拭き、握った。親指の位置を変え、手袋をはめた場合の角度を確かめる。

 「ここ、もう少し丸いほうがいい。焦って握ると、力が一点に入る」

 賢人は頷き、工具を持ち直した。

 「ここ?」

 「そこより、少し上」

 花の指が、賢人の手元のすぐ近くへ来た。

 触れたわけではない。ただ、同じ持ち手の同じ傷を見ている。指先の距離が近いだけで、胸の奥がうるさくなる。けれど、賢人は今度こそ、そこへ逃げなかった。

 「ここを丸くすると、紐の留め具に当たりませんか」

 花が叶一を見る。

 叶一は小さな定規を当てた。

 「二ミリなら大丈夫。三ミリ削ると留め具の向きが変わる」

 「じゃあ二ミリ」

 花が言い、賢人が削った。

 海太がいつの間にか来ていて、入口から見ていた。

 「二人で勝手に決めるな。確認表に書け」

 「はい」

 賢人と花の返事が重なった。

 一拍遅れて、工場の中に小さな笑いが落ちた。

 花が顔をそむける。賢人も削り屑へ視線を落とした。叶一だけが真面目な顔で、「返事の同時性は記録しなくていい」と言った。海太は無言で確認表を置いた。

 午後の時間は、持ち手、留め具、反射材の角度確認に費やされた。

 傘を開き、畳み、濡らし、拭き、引っ張り、外し、またつなぐ。何度も繰り返すうちに、賢人の指先は赤くなった。花の袖にも、黒い樹脂の細かな粉がついた。海太はそのたびに項目へ印を入れ、叶一は気になる数値を三行だけ紙に残した。

 晃煕は夕方に再び現れ、商店街側の説明文案を持ってきた。

 「たいへん簡素に書き直しました。『この傘は人を急がせるものではありません。進む向きを見失わないための補助具です』。いかがでしょう」

 賢人は、その一文を読んだ。

 胸の中で、何かが静かに収まった。

 「それ、貼りたいです。店にも」

 「黒瀬傘店にですか」

 「はい。俺が忘れないように」

 晃煕は少しだけ目を細めた。

 「では、店頭用はもう少し大きい字にします」

 その日の作業が終わるころ、空の端が薄い桃色になっていた。雨雲は遠ざかり、川沿いの手すりに残った水滴が、街灯の準備をする夕方の光を小さく返している。

 花は消防署へ戻る時間を確認し、ヘルメットを抱え直した。

 賢人は、言うべきことがあると分かっていた。

 会議室で言うことではなかった。工場で、皆の前で言うことでもなかった。仕事の説明が終わって、道具の改善が少しだけ前へ進んだあと、ようやく言ってもいい言葉だった。

 「花」

 呼ぶと、花は工場の出入口で立ち止まった。

 叶一は何も聞こえなかったように工具を片づけ始めた。海太は確認表を鞄に入れながら、わざとらしく外へ出た。晃煕は「役場へ戻ります」と言い、なぜか真鍋製作所の奥へ歩きかけ、叶一に「出口は逆です」と言われて戻った。

 残ったのは、夕方の工場の音と、削り屑の匂いだった。

 「少し、歩ける?」

 賢人が聞くと、花は時計を見た。

 「十分」

 「十分でいい」

 二人は川沿いへ出た。

 水面はまだ少し濁っていた。雨のあと、草の匂いが強くなる。遠くで、商店街のスピーカーが夕方の曲を流し始めていた。子どもたちの帰る声、自転車のブレーキ、尚の店の換気扇の音。灯町は、今日も特別な顔をしないまま、夕方になっていく。

 賢人は、黒い傘の第三試作を持っていた。まだ布は仮張りで、持ち手も片側だけ削った途中だ。それでも、開くと内側の細い線が、夕方の光を受けて少しだけ浮いた。

 「十年前」

 賢人は言った。

 花は歩きながら、前を見ている。

 「花火の日、返事しなかった。戻ってくるか聞かれて、答えなかった。あれ、ずっと……なかったことにしてた」

 川の上を、風が渡った。傘の布が少し鳴る。

 「東京で失敗したことも、祖父の店に戻ったことも、最初は全部、誰かに説明できる言葉にしてた。店を継ぐためとか、町に呼ばれたとか。でも、本当は逃げてきた。戻ってきたのに、戻った理由まで人のせいにしてた」

 花は何も言わない。

 賢人は、それを待ってもらっているのだと受け取った。

 「黒い傘を作り始めたときも、最初は、これで何か取り返せる気がしてた。祖父の続きを形にして、町の人に認められて、花にも……見直してもらえるんじゃないかって」

 最後の言葉は、ひどく格好悪かった。

 けれど、飲み込まなかった。

 「でも、あの日、紐が絡みかけて、分かった。花に残ってほしいから作るものじゃない。俺が成功したって言いたいためのものでもない。ここで誰かが進めるように作るものなんだって」

 花が、そこで初めて賢人を見た。

 その目は、宵市の夜のように柔らかくはない。会議室のときのように硬くもない。雨上がりの川みたいに、濁りを残したまま流れている。

 「残ってほしいって、思ってないの」

 賢人は息を止めた。

 嘘をつけば、すぐ分かる。

 「思ってる」

 答えた瞬間、胸が痛くなった。

 「すごく思ってる。でも、それを理由にしてほしくない。俺が言ったから残るとか、俺が困るから行かないとか、そういうのは違う。花は、消防士として決めてほしい。俺は、ここで、俺がやることをやる」

 花は歩道の縁に立ち、川を見た。

 「ずるいね」

 「うん」

 「昔は何も言わなかったのに、今は正しいことみたいに言う」

 「うん」

 「謝って済むと思ってる?」

 「思ってない」

 「じゃあ、何で言ったの」

 賢人は、黒い傘の持ち手を握り直した。

 「今度は、置いていきたくないから」

 風が止んだ。

 花の手が、黒い傘の縁に触れた。内側の線に、夕方の薄い光が重なる。二人の指先が同じ骨の近くへ来た。昼間の工場では触れなかった距離が、今度はほんの少しだけ近づいた。

 花は、低い声で言った。

 「尚ちゃんの言葉、ずっと残ってる」

 「まだ好きでごめん?」

 「うん。あれ、嫌だった。言う側になるのも、言われる側になるのも。ずっと持ってたのに、笑い話みたいに出てくるの、嫌だった」

 賢人は頷いた。

 「俺も、聞いて痛かった」

 「私は、十年前のことを、もう好きじゃないってことにしたかった。消防士になって、毎日やることがあって、訓練して、報告書を書いて、出動して、帰って、寝て。また朝になって。そうやっていれば、昔の花火の日なんて、ただの記憶になると思ってた」

 花の声は、途中で細くならなかった。

 けれど、黒い傘の布をつまむ指には、少し力が入っていた。

 「でも、賢人が傘の骨を触ってるところを見ると、思い出した。地下道で、その場しのぎみたいに人を動かしてるのに、なぜか目の前の一本だけはちゃんと見てるところも、腹が立つくらい昔のままだった」

 「腹、立ってたんだ」

 「立ってるよ。今も」

 花は少しだけ笑った。

 その笑いを見て、賢人の喉が熱くなった。

 「まだ好きでごめん、って言うのは嫌だった」

 花が言った。

 「言ったら、十年前に戻るみたいで。戻ったところで、あの日のホームに賢人はいないし、私ももう高校生じゃない。だから、言いたくなかった」

 賢人は、傘を持つ手に力を入れた。

 「じゃあ、俺が言う」

 花がこちらを見る。

 夕方の光が、黒い傘の内側で薄く揺れた。

 「まだ好きで、今も好きで、ごめん」

 言ったあと、賢人はすぐに続けた。

 「ごめんって言葉に逃げたくない。でも、十年前に言わなかったことも、今までごまかしてたことも、謝らないまま好きだって言うのは違うと思う。だから、ごめん。それから、好きだ」

 花は、目を伏せた。

 泣くのかと思った。けれど、花は泣かなかった。代わりに、黒い傘の骨へ指をかけ、角度を直した。

 「光、こっちのほうが見える」

 「今、それ?」

 「今、それ。だって曲がってる」

 賢人は思わず笑った。

 笑いながら、胸の奥がほどけていく。花も、つられるように口元を緩めた。二人の間にあった十年は、消えない。消えないけれど、傘の骨みたいに、一本ずつ向きを直せるのかもしれない。

 花は傘の内側を見上げた。

 「返事は、全部終わってからじゃだめ?」

 賢人はすぐに頷いた。

 「いい」

 「夏祭りの試験導入が終わって、黒い傘が本当に人の邪魔をしないって分かって、私も研修の返事をちゃんと考えてから」

 「うん」

 「そのとき、置いていかなかったら、聞く」

 賢人は、息を吸った。

 「置いていかない」

 花は、賢人のほうへ傘を少し傾けた。

 雨は降っていない。傘を差す必要はなかった。それなのに、内側の線は夕方の光を受け、二人の間に薄く浮かんでいる。

 「じゃあ、今は仕事に戻る」

 「はい」

 「第三試作、明日も確認するよ」

 「はい」

 「あと、持ち手の削り、二ミリより深くしないで」

 「はい」

 「返事が全部『はい』になってる」

 「今、変なこと言ったら台無しにしそうで」

 花は声を立てずに笑った。

 「それは少し分かる」

 消防署へ戻る花を、賢人は川沿いで見送った。花は途中で一度だけ振り返り、作業服の袖についた黒い粉を見せるように上げた。

 「これ、落ちる?」

 賢人は黒い傘を肩にかけた。

 「落ちます。たぶん」

 「たぶんは駄目」

 「落とします」

 「それならよし」

 花は歩いていった。

 賢人は、その背中が消防署の角を曲がるまで見ていた。追いかけたい気持ちはあった。今すぐ何かの答えをもらいたい気持ちもあった。けれど、足は動かなかった。動けなかったのではない。ここで待つことも、進むことの一つだと思えた。

 工場へ戻ると、叶一が作業台の上に新しい確認表を置いていた。

 「長かったな」

 「十分って言われた」

 「二十分いた」

 「時計、壊れてない?」

 「壊れてない」

 海太が入口に立っていた。いつからいたのか分からない。賢人が固まると、海太は確認表を指で叩いた。

 「持ち手。二ミリまで」

 「聞こえてました?」

 「確認事項だけだ」

 「本当に?」

 「確認事項だけだ」

 叶一が、同じ言葉をまねて小さく言った。海太は聞こえないふりをした。

 賢人は作業台へ戻った。

 第三試作の黒い傘は、まだ仮の姿だった。布の張りは甘い。持ち手は片側だけ削られている。連結紐の留め具は三段階のうち一つ目しか決まっていない。反射材の線も、明日の夜間確認でまた変わるかもしれない。

 それでも、賢人には、その傘が前より確かに息をしているように見えた。

 作業台の上で、賢人の手、叶一の手、海太の確認表、花が残した黒い粉、晃煕の説明文案が重なっている。

 傘は、一人で開くものだと思っていた。

 けれど、この黒い傘は違う。

 誰かが布を張り、誰かが骨を削り、誰かが危ないと言い、誰かが止め、誰かがもう一度始める。そうして初めて、雨の日に開いてもいい形へ近づく。

 賢人は持ち手の溝へ工具を当てた。

 今度は削りすぎない。浅すぎもしない。花が指した場所を、二ミリだけ丸くする。

 外では、商店街の灯りが一つずつつき始めていた。黒瀬傘店のシャッターも、今日はまだ開いている。店頭の紙には、晃煕が直した大きな字が貼られるだろう。

 この傘は、人を急がせるものではありません。

 進む向きを見失わないための補助具です。

 賢人はその文を心の中で読み、工具を動かした。

 もう自己暗示は要らなかった。

 代わりに、削った樹脂の粉が、作業台の上へ静かに落ちる。

 落ちた粉の横で、黒い傘の内側の線が、工場の灯りを受けて細く光った。

 進む向きは、まだ遠い。

 それでも、賢人の手は止まらなかった。



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