ep5.夜明け
鐘の音は、雪に吸い込まれるように遠く響いていた。
モニカは老人の手を握ったまま、しばらく動かなかった。
老人の指は冷たい。
けれど、その冷たさの奥に、まだかすかな生の温度が残っている。
暖炉の火はほとんど熾になり、部屋には薄い赤だけが漂っていた。
老人の呼吸はさらに静かになっていく。
吸うたびに胸が遅れて持ち上がり、吐くたびに小さく途切れる。
モニカは、その間隔を数えていた。
数えたくなどないのに。
身体が勝手に測ってしまう。
呼吸回数。
深さ。
呼吸の苦しさ。
皮膚の色。
昔の癖は、簡単には消えない。
老人は目を閉じたまま、ふいに言った。
「お前さんは……」
言葉が途切れる。
モニカは顔を近づけた。
「……誰かに、似てる」
「娘さんですか」
老人は小さく首を振る。
「いや……」
浅い呼吸。
長い沈黙。
「……昔、死なせた人かもしれん」
暖炉の火が、小さく崩れた。
モニカは返す言葉を見つけられなかった。
老人は続ける。
「若い頃はな……怒鳴ってばかりいた」
息が切れる。
喉の奥で湿った音が鳴る。
「弱い奴を見ると……腹が立った」
その言葉は、懺悔のようでもあり、ただ古い記憶を眺めているだけのようでもあった。
「でも……最後は皆、同じ顔になる」
老人は薄く目を開けた。
「怖ぇんだ」
その声は、とても小さかった。
モニカは静かに答える。
「……そうですね」
それしか言えなかった。
本当は。
大丈夫ですと言うこともできた。
怖くないですよと慰めることも。
けれどモニカには、言えなかった。
死の前で、人は怖い。
それを知っていたから。
老人は少しだけ笑った。
「正直だな」
窓の外が、ほんのわずかに白み始めていた。
夜と朝の境目。
世界がまだ名前を持たない時間。
老人の呼吸が、また一段浅くなる。
間隔が長い。
静かな沈黙のあとに、思い出したように息を吸う。
モニカはその背中へそっと手を入れた。
まるで壊れやすい器に触れるみたいに。
老人は薄く目を開ける。
その視線は、もう部屋を見ていなかった。
もっと遠く。
雪の向こうか。
記憶の向こうか。
「……ああ」
老人が小さく呟く。
「迎えに来た」
モニカは振り返らなかった。
そこに誰もいないことを、知っていたから。
ただ。
老人の表情だけが、少し穏やかになっていた。
鐘の音が、もう一度遠くで鳴る。
夜が終わろうとしていた。




