ep3.先生
モニカは老人の呼吸を聞き続けていた。
速い。
浅い。
吸えているようで、吸えていない。
胸だけが必死に上下している。
その姿を見ているうちに、昔、先輩に言われた言葉が不意によみがえる。
——「数字より先に、患者さんを見なさい」
誰の声だったかは思い出せない。
けれど、その言葉だけが、煤けたランプみたいに頭の奥で残っていた。
老人はまた咳き込んだ。
濡れた音。
喉の奥で絡む痰。
モニカは布を濡らし、口元をそっと拭った。
その手つきがあまりに自然で、自分自身が少し怖くなる。
忘れたかったはずなのに。
もう二度と、あの場所へ戻らないと決めたはずなのに。
身体だけが覚えている。
女主人は戸口にもたれながら、黙ってその様子を見ていた。
「……あんた、看病慣れしてるね」
モニカの手が止まる。
暖炉の火が小さく弾けた。
「昔、少し」
それだけ答える。
女主人はそれ以上聞かなかった。
代わりに、棚から古びた陶器の器を持ってくる。
湯気の立つ薬草湯だった。
苦い匂いが部屋へ広がる。
「飲ませられるなら飲ませな」
モニカは頷いた。
老人の身体を少し起こし、ゆっくり器を口元へ運ぶ。
何度かむせながら、老人は少しだけそれを飲んだ。
その時だった。
老人の手が、不意にモニカの袖を掴む。
驚くほど強い力だった。
濁った目が、真っ直ぐモニカを見る。
「——いた」
掠れた声。
「……やっと、いた」
モニカは息を止めた。
老人は震える指で、まるで何かを確かめるみたいに、モニカの袖を握っている。
「先生……」
その言葉に、部屋の空気が静かに止まった。
暖炉の火だけが揺れている。
モニカは何も言えなかった。
違う、と否定することも。
問い返すことも。
ただ、老人の熱い手だけが、やけに現実だった。




