ep7.春を待つ息
その夜、雪は少しだけ弱くなっていた。
窓の外では、雲の切れ間から淡い月明かりが滲んでいる。
暖炉の火は静かだった。
ぱちり、と時折小さく鳴る音だけが、眠った家の中へ響いている。
ルカは寝台へ横になりながら、ぼんやり天井を見ていた。
熱はまだ少しある。
けれど、呼吸はかなり落ち着いていた。
胸の奥で鳴っていた濡れた音も、もうほとんど聞こえない。
モニカは椅子へ座り、その呼吸を静かに聞いていた。
その時、ルカが小さく呟く。
『雪、止みそうだな』
モニカは窓を見る。
『そうですね』
ルカはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
『俺さ』
『はい』
『春って嫌いだった』
暖炉の火が小さく揺れる。
『冬はさ、寒ぃけど、皆わりと同じ顔してんじゃん』
ルカは天井を見たまま続ける。
『でも春になると、ちゃんと帰る家ある奴らが普通に笑ってんの見えるから』
その言葉に、モニカは何も返せなかった。
ルカは少しだけ目を細める。
『でも今年は、ちょっとだけマシかも』
モニカは静かにルカを見る。
『毛布あるし』
その言い方があまりに子どもらしくて、モニカは少しだけ笑った。
ルカもつられて笑う。
短い。
まだ少し咳の混じる笑いだった。
その時だった。
頭の奥で、また何かが揺れる。
春の窓。
病室へ入る風。
退院する患者。
『また来ますね』
笑いながらそう言った誰か。
モニカは思わず目を閉じた。
今度の記憶は、不思議と苦しくなかった。
暖炉の熱が、静かに頬へ触れている。
ルカは眠そうに目を細めながら、小さく呟いた。
『なぁ、モニカ』
『はい』
『春になっても、生きてていいかな』
その声は、とても小さかった。
けれど。
助けてほしい、と言うより。
許してほしい、みたいな声だった。
モニカはしばらく黙っていた。
暖炉の火が揺れる。
雪解け前の静かな夜。
やがてモニカは、ゆっくり頷いた。
『いいと思います』
ルカは少しだけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
その笑顔は、最初に路地裏で見た顔より、ほんの少しだけ子どもらしく見えた。
ルカは小さく笑ったあと、毛布へ顔を半分埋めた。
照れ隠しみたいだった。
暖炉の火が静かに揺れている。
外では、雪混じりの風が弱く窓を鳴らしていた。
ルカはしばらく黙っていたが、やがて眠たそうな声で呟く。
『……変だよな』
『何がですか』
『前はさ』
ルカは天井をぼんやり見つめる。
『明日なんか来なくてもいいって思ってた』
その声には、妙に実感があった。
寒さ。
空腹。
追い払われる視線。
眠れない夜。
ルカの短い人生には、多分そういうものばかり積もっていたのだろう。
『でも今は』
小さく息を吸う。
『ちょっとだけ、春見てみたい』
暖炉の火が、小さく弾けた。
モニカは静かにその横顔を見ていた。
生きたい。
その言葉は時々、とても弱い。
大声で叫ぶみたいにではなく。
消えそうな火を守るみたいに、小さい。
昔も、そんな呼吸を聞いたことがある気がした。
苦しい夜を越えたあと。
患者が小さく言う。
『退院したら、桜見たいな』
モニカは目を閉じる。
白い病室。
朝の光。
穏やかな呼吸。
そして。
誰かと一緒に笑った記憶。
今度は、その顔が少しだけ見えた気がした。
ルカは眠気に落ちていく声で呟く。
『……モニカ』
『はい』
『春になったらさ』
モニカは静かに続きを待つ。
ルカは目を閉じたまま、小さく笑った。
『パン、腹いっぱい食いてぇ』
その瞬間、モニカも少しだけ笑ってしまう。
『そうですね』
暖炉の火が静かに揺れていた。
窓の外では、雪がゆっくりと止み始めていた。




