終章 雪解け
翌朝。
窓の外には、久しぶりの陽の光が差していた。
屋根に積もった雪が、雫になって静かに落ちていく。
街はまだ白かった。
けれど、冬がほんの少しだけ緩み始めている。
暖炉の火は小さく燃えていた。
ルカは寝台の上で、毛布にくるまったまま眠っている。
呼吸は穏やかだった。
浅くもない。
苦しそうでもない。
規則的な、小さな寝息。
モニカは椅子へ座り、その呼吸を静かに聞いていた。
その時だった。
頭の奥へ、また記憶が流れ込んでくる。
朝の病室。
カーテンの隙間から入る春の光。
『熱、下がってますね』
誰かの笑った声。
白い廊下を歩く足音。
そして。
安堵したみたいに眠る、小さな子どもの顔。
モニカは小さく息を呑む。
今度の記憶は、はっきりしていた。
苦しいだけの記憶じゃない。
助かった朝の記憶だった。
暖炉の熱が頬へ触れる。
モニカはゆっくり目を閉じた。
その時。
『……モニカ』
寝ぼけた声がする。
ルカが薄く目を開けていた。
『起こしましたか』
ルカは小さく首を振る。
まだ眠そうな顔のまま、窓を見る。
『晴れてんじゃん』
『はい』
ルカはぼんやり外を見つめたあと、小さく笑った。
『春、来るかもな』
その言葉を聞いた瞬間。
モニカの胸の奥で、何かが静かにほどけた気がした。
それから数日後。
雪はほとんど消えていた。
石畳の隙間からは、冷たい水が細く流れている。
ルカは外套を羽織り、家の前へ立っていた。
咳はまだ少し残っている。
けれど、あの苦しそうな呼吸はもうない。
女主人は腕を組んだまま言う。
『今度倒れる時は、もう少し金持って倒れな』
ルカは鼻を鳴らした。
『婆さんこそ、もうちょい愛想覚えろよ』
『言うようになったじゃないか』
暖炉の匂いが、まだ家の奥に残っている。
ルカはしばらく黙ったあと、モニカを見る。
『……ありがとな』
短い言葉だった。
けれど、路地裏で睨みつけていた時より、ずっと素直な声だった。
モニカは小さく頷く。
『暖かくしてください』
ルカは照れ臭そうに目を逸らす。
『毛布あるし』
その言い方に、モニカは少しだけ笑った。
ルカは階段を下り、雪解けの街へ歩き出す。
小さな背中だった。
けれど最初に見た時より、少しだけしっかり前を向いているように見えた。
モニカはその背中を、しばらく見送っていた。
遠くで、教会の鐘が鳴る。
春の近い音だった。
暖かな風が、ほんの少しだけ街を通り抜けていく。
モニカは静かに息を吐いた。
白くならない吐息が、ゆっくり空へ溶けていった。




