第10話 新妻、初夜を迎える
食事を終え、自室へ戻る頃には、足元がほんの少し頼りなかった。
梅に支えられるほどではないが、廊下の灯りがいつもよりやわらかくにじんで見えるし、床を踏む感覚もどこかふわふわとしている。
葡萄酒というものは、確かに怖い酒らしい。
「奈江さま。大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ちゃんと歩いとうやろ」
「まあ、今は立っとりますから、たぶん、大丈夫ですね」
「たぶんて、何よ」
そう返すと、梅は「はいはい」と笑いながら、私の部屋の戸を開けた。
湯を使い、髪をほどき、夜着に着替える。
鏡の中の自分は、頬がいつもより少し赤い。目元も、どこか潤んで見えた。
葡萄酒のせいだ。
綺麗な顔で笑う夫のせいなどではなく、絶対に葡萄酒のせいである。
「奈江さま。今日はもう、すぐお休みになった方がよかですね」
「そうする」
寝台の端に腰かけると、急に一日の出来事が押し寄せてきた。
運転手見習いだと思っていた“さくや”が、夫の朔之介さんだったこと。
ひどく腹を立てたこと。
朔之介さんが謝りに来たこと。
そして、母上さまと三人で夕飯を食べて、葡萄酒を飲んで、笑ったこと。
朝には顔も知らなかった夫と、夜には同じ食卓で笑っていた。
なんとも落ち着かない、ひどく忙しい一日だった。
「それでは、おやすみなさいませ」
梅が灯りを少し落とし、部屋を出て行く。
私は枕を抱え、寝台にころりと横になった。
体は疲れているのに、頭の中だけが妙に冴えている。
――夫婦、か。
朔之介さんは、私の夫だ。
今朝まで顔も知らなかった夫。
そんな相手を夫と思うには、まだ胸の中が追いつかない。
それでも、あの人が笑うと、こちらまでつられてしまう。
人を食ったようなところがあって、つかみどころがなくて、腹立たしいほど軽い。
けれど、頭を下げる時は驚くほどまっすぐで、嘘つきなのに嘘がなかった。
ああいうのをなんていうのだったか。
そうだ、ペテン師。
口八丁のペテン師よ、あれは。
自分の思い付きがおかしくて、酔いも合わさり思わず笑いが出る。
その時、戸が控えめに叩かれた。
「梅? まだ何か――」
笑いながら顔を上げた私は、そこで固まった。
戸口に立っていたのは、梅ではない。
夜着の上に羽織をかけた朔之介さんだった。
「……朔之介さま?」
思わず寝台から飛び起きる。
葡萄酒でふわふわしていた頭が、一気に醒めた。
「驚かせたかな」
「驚きました。なぜ、ここに」
「夫婦になったからね」
あまりに当然のように言われ、私は返す言葉を失った。
夫婦。
確かに、夫婦ではある。
祝言も済ませ、私は岸田家に嫁いだ。
けれど、そんな当たり前の理屈を、今この瞬間に差し出されると、胸の奥がどんと鳴る。
「その……今日は、もう遅いですし」
「うん」
「私、葡萄酒をいただきましたし」
「知っている」
「それに、今日は初めてお会いしたばかりで」
「そうだね」
朔之介さんは、こちらを急かすでもなく、戸口に立ったまま静かに頷いた。
いつもの軽い笑みはある。けれど、その目はふざけていなかった。
「無理をさせるつもりはないよ。ただ、せっかく夫婦になったのだから、仲良くしたいと思ってね」
仲良くしたい。
その言い方が、あまりにも素直で、拍子抜けするほどだった。
私は枕を抱えたまま、朔之介さんを見る。
「……朔之介さまは、そういうことも、そんなふうにおっしゃるのですね」
「うーん……難しく言った方がよかったかな」
「いえ。余計に困ると思うので、結構です」
この会話の行き先がどうなるのかわからず、ただ成り行き任せに話が進む。
「なら、これでいいね」
朔之介さんが少し笑う。
その優しい笑みに、私は視線を落とした。
逃げたいほど怖いわけではない。けれど、落ち着かない。
どうしていいかわからない。
母や姉たちが教えてくれた嫁入りの心得の中に、こういう時、夫とどんな顔で向き合えばいいかまでは入っていなかった。
「奈江」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
「嫌なら、今夜は戻る。けれど、嫌でないなら、隣に座ってもいいかな」
その一言で、胸の強張りが少しほどけた。
私は枕を抱いたまま、小さく頷く。
「……どうぞ」
朔之介さんは静かに歩み寄り、寝台の端に腰を下ろした。
近くに来ると、葡萄酒とは違う、石鹸と煙草の残り香のような匂いがした。
「今日は、大変な思いをさせたね」
「本当にそうです」
「そこは少しくらい否定してくれてもいいのに」
「嘘はよくないとおっしゃったのは、朔之介さまですから」
言い返すと、彼は愉快そうに笑った。
「確かに。私は今日一日で、ずいぶん妻に言い負かされているな」
「言い負かしてなどおりません」
「では、教えられている」
「それも、なんだか偉そうではないですか」
「ははは、そうか。なかなか難しいね」
そう言いながら、朔之介さんは私の手を取った。
逃げようと思えば逃げられるほど、そっとした触れ方だった。
大きな手だ。
私の指を包むその手は、少し冷えていた。
「奈江」
「はい」
「これから、あなたのことを少しずつ知りたい。何が好きで、何を楽しんで、何に目を輝かせるのか」
低い声が、夜の部屋に静かに落ちる。
「あなたにも、私のことを知ってもらいたい。どうにも落ち着きのない、面倒な夫だと思うけれど」
「それはもう、十分わかりました」
「理解が早いね」
くくっと楽しげに笑うと、彼は私の手をやわらかく握った。
その温かさに、胸の奥がじんわりとする。
「奈江。私と仲良くしてくれる?」
また、そんな子どもみたいな言い方をする。
三十五にもなる、日本屈指の財閥の当主とは思えない。
けれど、その言葉がかえって、私の中の彼への気持ちをふわりと柔らかくした。
「……努力いたします」
頬が熱いのを感じながら、精一杯真面目な顔で答える。
その言葉に、朔之介さんはひどく嬉しそうに笑った。
「それは心強い」
灯りが、もう少し落とされた。
夜の帳が部屋の隅から静かに満ちてくる。
初めて触れる夫の手は、思ったよりも優しかった。
初めて聞く夫の声は、思ったよりも柔らかかった。
そして、その夜、私の胸の中にあった心細さは、葡萄酒の甘さよりもゆっくりとほどけて、彼の手の中で溶けていった。
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