第9話 新妻、葡萄酒に酔う
食堂へ入ると、すでに母上さまと朔之介さんが席についていた。
淡い藤色の着物に白い帯を締めた母上さまは、ふわりと微笑むだけで場の空気を柔らかくする。
その隣の朔之介さんは、仕立ての良いシャツにベスト。撫でつけられた髪に、母上さまに似た切れ長の目。
――やっぱり、どう見ても運転手見習いなどではなかったわ
「今日は、ようやく三人でお夕飯ですえ。長いことお待たせでしたなぁ」
「お待たせしてしまい、申し訳ございません」
私が頭を下げると、母上さまは、ほほほ、と鈴を転がすように笑った。
「謝るのは奈江さんやありませんやろ。朔之介さんですえ」
「はい。先ほどから、よく存じております」
朔之介さんが真面目な顔でそう言う。その素直さに、思わず笑いそうになってしまった。
「まあ。奈江さん、笑うてやってよろしいんどすえ。ええ年して、呆れたもんです」
「旦那さまを笑うなど、滅相もございません」
「ほな、今のは”つい”笑いそうになってはっただけやね」
母上さまは、おっとりした口調のまま何でも見透かしておられる。
朔之介さんが、こちらを見て楽しそうに目を細めた。
「奈江さんは、怒っている時より、笑いをこらえている時の方が怖いね」
「では、なるべく笑わないようにいたします」
「それは困るな」
困ったように言うくせに、朔之介さんは少しも困っていない顔をしている。その軽さが少し癪に障る。けれど、もう腹は立たなかった。
食卓には、吸い物、鯛の焼き物、筍の煮物、白身魚の昆布締め、それから洋風の皿がいくつか並んでいた。
岸田家の夕飯は、和の膳に、時折、見慣れない洋食が紛れ込む。
「今日は、横浜の商会に届いた珍しい葡萄酒があるんだ」
朔之介さんがそう言うと、給仕が濃い緑色の瓶を持ってきた。
「葡萄酒……葡萄で、お酒を?」
「そう。西洋の酒だよ。口当たりは柔らかいが、案外足元をさらうから、少しずつ飲んだ方がいい」
「足元をさらう、なんて。怖いお酒ですね」
「そう。案外、見た目よりも怖いお酒だよ」
給仕が細い脚のついた硝子の杯に、赤い液体を注ぐ。
私は思わず、その色に見入った。
濃い赤。けれど、血のような赤ではない。夕暮れの空を煮詰めたような、深い、艶のある赤だった。
「綺麗……」
「気に入った?」
「まだ飲んでもおらんのに、気に入るかどうかはわかりません」
「それもそうだ」
母上さまが、くすくすと笑う。
「奈江さんは、ほんに商家のお嬢さんやね。品定めが丁寧ですな」
「す、すみません」
「ええことやと、褒めとるんどす」
母上さまが優雅に杯を持ち上げたので、私も恐る恐る硝子の杯を手に取る。
そっと口をつけると、まず香りが来た。
米の酒とはまるで違う。甘い。けれど、砂糖の甘さではない。熟した果物と、どこか樽のような木の匂い。
口に含むと、舌の上に酸味が広がり、そのあとから果実の甘さが追いかけてくる。
「……おいしい」
思わず呟いた。
「そう。よかった」
朔之介さんは、まるで自分が褒められたかのように満足げな顔をした。
「日本酒とは全然違いますね。甘いのに、甘いだけじゃなくて……商いで言うなら、最初に安く見せて、あとから奥の品を出してくる感じです」
「葡萄酒をそう例えた人は初めて見たな」
「……すみません、例えに可愛げがございませんでした」
「いいんだよ。実に奈江さんらしいね」
その言葉に、私は杯を持ったまま固まった。
奈江さんらしい。
可愛げがないのが?
今日一日で、私はこの人にどれだけ見られていたのだろう。相手が運転手見習いだと思っていたからこそ、気楽に商いの話ができたのだ。
「奈江さん? また何か、難しいことを考えてる?」
「考えておりません」
「そう?」
「考えておりません」
二度言うと、母上さまが「あらあら」と笑った。
「朔之介さん。奈江さんを困らせてはいけませんえ。あなたは、もう十分困らせてはるんですから」
「はい。反省しています」
「それは、本当に反省しているお顔でしょうか」
彼があまりにニコニコとして、簡単に答えるものだから、つい口がすべった。
小さな呟きだったのに、向かいの朔之介さんが楽しそうに笑う。
「奈江さんは、よく見ているね」
「相手をよく見るように躾けられているんです。商家の娘ですから」
「では、私もこれからはよく見られる覚悟をしないといけないな」
「見られて困ることがあるのですか?」
「たくさんあるね」
「そこは、無いとおっしゃるところでは?」
「嘘はよくないからね」
「嘘の名前を名乗った方が、何をおっしゃっているのやら」
言った瞬間、母上さまが扇で口元を押さえた。その肩が小さく震えている。
朔之介さんは一瞬目を丸くし、それから声を立てて笑った。
「参った。確かに、今日の私にそれを言う資格はなかった」
「そのとおりですね」
ほんの少し笑みを浮かべて、朔之介さんにそう返す。
言いたいことを言える相手だとわかったことが、なんだか胸をワクワクさせてついつい饒舌になっている。
食事は、そのあと驚くほど和やかに進んだ。
母上さまは、朔之介さんが幼い頃、庭の池の鯉を釣ろうとして、池に入り込み先代さまに叱られた話をした。
「奈江さんには、朔之介さんが最初からこんな偉そうな体で生まれてきたわけではないと、知っていただかんと」
「母上」
「赤子の頃は、それはそれは丸うて、泣き虫でしたえ」
「母上」
「まあ、今も少し泣き虫かもしれませんけど」
「母上」
三度目の「母上」は、かなり本気で困っている声だった。
私はとうとうこらえきれず、笑ってしまった。
「奈江さん。私は滅多に泣きはしないのだよ。もういい大人だからね」
「わかっております」
「本当かな」
「笑ったのは、葡萄酒のせいです」
「便利な酒だ」
そう言いながら、朔之介さんが私の杯を見た。気づけば、中身はずいぶん減っている。
「奈江さん。そろそろ水を飲んだ方がいい」
「このくらいは大丈夫です。博多の女の酒量をご存じですか。座っているうちは大丈夫なのです」
「座っているかどうかが基準なの?」
「立てなくなったら、飲みすぎです」
「それは基準がだいぶ遅いな」
朔之介さんは給仕に目配せして、水を持ってこさせた。
「葡萄酒は怖い酒だと言ったでしょう。気に入ってもらえたのは嬉しいが、初めてならほどほどに」
「はい」
素直に水を飲む。
部屋が少し明るすぎるような、妙な心地だ。
頬は熱い。けれど、気分は悪くない。むしろ胸のあたりがふわふわして、何を見ても少し楽しい。
「奈江さん。葡萄酒がお気に召したみたいどすな?」
「はい。果物なのにお酒で、お酒なのに果物みたいで……なんだか、甘くてずるい飲み物です」
「まあ。葡萄酒は怖かったりずるかったり。あこぎなお酒どすな」
母上さまが笑う。
この家の食卓で、私は笑っている。
夫の顔も知らなかった朝から考えれば、ずいぶん遠くまで来たものだ。
博多を出てから、ずっと胸の中にあった置き場のない心細さ。それが、葡萄酒のせいか、食卓の笑い声のせいか、少しずつほどけていく。
そして食事が終わる頃には、葡萄酒の酔いも手伝って、すっかり機嫌がよくなっていた。
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