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結婚と算盤~新妻の百貨店経営奮闘記~  作者: けもこ


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第8話 新妻、夫と話をする

腕で目を覆ったまま、寝台に横になって声を返した。

ぎい、と扉が開き足音が近づいてくる。


「後で、台所で何か貰うようにするから、今日は……」


そう言いながら首だけを戸口へ向けた私は、言葉を失った。

視線の先にあったのは、折り目のついた灰色のズボンをはいた、“さくや”だった。


先ほどまでの砕けた平服ではなく、皺ひとつない白いワイシャツに、仕立ての良いベストを身に着けている。


「具合が悪いと聞いたから。そのままで。起きないで寝ていて」


穏やかな声でそう言うと、彼は寝台脇の椅子に腰かけた。


起きなくてもいい、と言われても、さすがに横になったままではばつが悪い。私は上半身を起こした。


「すまなかった。配慮の足りない行動だったと反省している」


座ったまま、彼が頭を下げる。


つまらないいたずらに付き合わされたことに、腹を立てていた。

けれど、まさか、こんなに深々と謝られるとは思っていなかった。


「頭を上げてください」


ふう、と息を吐いてそう告げる。

それから寝台の上で正座をし、三つ指をついた。


「初めまして、朔之介さま。太田家より嫁いで参りました、奈江でございます。不束者ですが、どうかよろしくお願いいたします」


夫となった人に初めて会う時は、きちんと挨拶をしようと、ずっと思っていた。

たとえ商いの一つとして行われた結婚であっても、互いに礼を尽くせば、相手を思いやって過ごせるはずだと信じていたからだ。


そして、殊更に丁寧にあいさつをしたのは、ほんの少し嫌味を含む意趣返しでもあった。


「奈江さん。顔を上げて」


体を起こすと、ほんのり耳を赤くした朔之介さんが、真剣な顔でこちらを見ていた。


「私は、あなたに謝らなければならないことが随分たくさんある。先ほど母上にきつく叱られてね」


「母上さまが……」


「恥ずかしい話だが、私は商売を回すこと以外には疎くて。母上には、『なぜ祝言に戻らなかったのか』『文の一つも寄越さないのか』と散々叱られた。あんなふうに怒る母上は、初めて見たよ」


確かに。あの穏やかな母上さまがお怒りになる姿は、想像しにくい。


「それに、さっきもつまらないことをした。三十五にもなる男のすることではなかったね」


申し訳なさそうに眉を下げ、頭を掻く。

そうだ。確かに、三十五にもなる財閥家の当主がすることではないと思う。


朔之介さんは、もう一度頭を下げた。


「本当に、すまなかった」


「どうして……何の便りも下さらなかったのですか?」


私の問いに、彼が顔を上げる。


「その……女性に手紙を書いたことがなくてだな。何を書けばよいのやら」


「祝言に出られずすまない、とか、どう過ごしているか、とか。何でもよろしいではないですか」


「いや、まあ、そうなのだが。直接会って話せばいいと思いながら仕事をしていたら、つい日が過ぎて」


「つい、ですか」


目の前で、わたわたと言い訳を重ねる男性が、日本屈指の財閥の当主だとは到底思えない。

少し、可愛らしく見えてしまうのが癪だった。


「いや、語弊がある。早く仕事を終わらせようと、そちらに時間を割いていたら、あっという間に日が過ぎていたというか」


朔之介さんは、誤魔化すように笑って肩を落とした。


「では、朔之介さまは、このようないたずらをよくなさるのですか?」


「いやいや、そういうわけではないよ。今日は、つい浮かれてしまって」


「浮かれて……ですか」


「ようやく、あなたに会えると思ったら、心が弾んでしまってね」


女性に手紙を書いたことがない、などと言っていたわりに、随分と軽い言葉が出てくる。

私はしばらく彼を見つめ、それから小さく息を吐いた。


「わかりました。もう、この件はおしまいで大丈夫です」


さっきまで申し訳なさそうに下がっていた眉が、ほっとしたように持ち上がる。


「許してくれるのかい?」


「今日一日で怒る材料が多すぎて、どれから怒ればいいのかわからなくなりました」


「それは……なかなか重い許し方だね」


「軽いよりはよろしいのでは?」


言い返すと、朔之介さんは困ったように、でもほんの少し口元を緩めた。


部屋の扉が再びノックされ、返事をする前に開く。


「奈江さま。そろそろお夕飯の……あ、旦那さま」


入ってきた梅が朔之介さんを見て、慌てて頭を下げる。


「夕飯の席で、またゆっくり話をしよう。土産もあるから。それでは後ほど」


朔之介さんは、布団の上に置かれていた私の手の甲にそっと触れると、ゆっくり立ち上がり、部屋を出て行った。


梅は、扉が閉まるなり、こちらへ身を乗り出した。


「奈江さま。旦那さま、謝りに来られたとですか?」


「そうよ」


「それで、許したとですか?」


「……いちおう」


「いちおう、ですか」


梅がにやにやしながら、私の顔を覗き込む。


「お顔、ちょっと赤かですよ」


「寝台に突っ伏しとったからよ」


「へえ」


まったく信じていない声である。


「梅」


「はい。黙ります」


その顔には、揶揄うような笑みが浮かび、一向に黙る気のない返事だった。


夕飯の席へ向かう頃には、胸の中の思いはいくらか形を変えていた。


怒っている、とか、呆れている、というより、拍子抜けしている感じだ。


なにしろ初めて会う夫と、実はずっと一日一緒にいてそれに気づかず、しかも騙した本人は「つい浮かれてしまって」などと、三十五にもなる男とは思えない言い訳をしたのだ。


腹を立て続けるには、あまりに情報量が多すぎた。

それに。


――謝ってくれたし


あれほど素直に頭を下げられると、こちらが臍を曲げているのが、なんだか大切な決済を、いつまでも棚に上げているみたいで落ち着かない。


梅に髪を整えてもらいながら、鏡の中の自分をじっと見る。


頬は、まだ少し赤いように見えた。

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