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結婚と算盤~新妻の百貨店経営奮闘記~  作者: けもこ


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第7話 新妻、腹を立てる

私が“さくや”に向かって「どういうこと?」と声を上げるより早く、彼はハンチングを取って、奥から出てきた男性に挨拶をした。


「バレてしまいましたか。さすが御厨さん。こっそり遊んで帰ろうとしていたのに」


「私の目をごまかして、黙ってお帰しするわけにはまいりませんよ」


御厨と呼ばれた男性は、低い声で豪快に笑った。


「今日は妻とお忍びで出かけていたもので、できるだけ仕事の気配を消したかったのですよ」


「おお、さようでしたか。それは無粋なお声掛けをいたしました。では、こちらが博多の太田さんの所から来られたお嫁さまで?」


男は一瞬、値踏みをするように私の全身を眺めた。けれど、すぐにそれを瞳の奥へ隠し、人当たりの良い笑みを浮かべる。


こちらは混乱の真っただ中である。まずは“さくや”の襟をつかんで、いったいこれはどういうことかと問い詰めたい。だが、場を読む生来の気質が、それを許さなかった。


「お初にお目にかかります。妻の奈江です」


彼がそう紹介したので、私はお辞儀をし、目の前の男性にほほ笑んだ。


「銀星百貨店で支配人をいたしております、御厨恒一郎と申します。岸田さまとは先代さまの頃より懇意にさせていただいております」


ひと通りの挨拶を交わしたあと、御厨さんは、“岸田さま”と呼ばれる自称“さくや”と、物価や労働運動の話をして、頼んでもいない工芸品の土産まで包んでくれた。


「表にハイヤーを待たせております。それでは、またのお越しをお待ちしております」


そう言われ、社員の並ぶ仰々しい挨拶の中を通って店を出るまで、私の頭はぼんやりしていた。


車に乗り込んでしばらくすると、隣から遠慮がちな声がかかる。


「すまなかったね。せっかくの敵城視察を、こんなふうに台無しにしてしまって」


――敵城視察。


それが台無しになったから、私はこんなに呆然としているのだろうか。

否である。


隣に座る人の顔を、まじまじと見つめる。


「怒っている……のかな?」


隣の人は、黙り込んでいる私を、ばつの悪そうな顔で覗き込んでいる。


ハンチングでよく見えなかったとはいえ、長いまつ毛と切れ長の目は母上さまにそっくりだ。


なぜ、わからなかったのか。

“さくや”だなんて、ひどく陳腐な偽名だ。


「面白かったですか?」

「え?」

「私を騙して、面白かったですか?」


彼の顔から笑みが消え、眉尻が下がった。


「いや、その、騙すつもりはなかったんだが……」

「騙すつもりはなくて、偽名を名乗ったんですか。運転手見習いだなんて、嘘までついて」

「偽名、というほどのつもりもなかったと言えば……まあ」


その軽い言い訳と、どこか悪びれない表情に、さらに腹の奥がじわじわと熱くなる。


結婚式にも顔を出さず。

その後も姿を現さず。

その間文の一つもなく。

ようやく初めて会うのが、こんな状況だなんて。


「今朝、ようやく帰ってきて、君に会いに行こうと思っていたんだ。そうしたら、ちょうど君の下女が『奥さまと出かけるので、付き添いの丁稚を』とやって来たものだから、ついね」


――つい?


怒りを通り越して呆れてしまった。もう何も言う気力がないほどの疲労感が、どっと体に押し寄せる。


「そうですか」


それだけ小さく返し、私は反対側の車窓へ顔を向けた。


――疲れた。なんだか、すごく疲れた。


隣の自称“さくや”が、じっとこちらを見ているのはわかった。

けれど、相手にする余裕はなかった。


ぼんやり窓の外を眺めていると、いつの間にか見覚えのある長い塀に沿って車が走っていた。


「おかえりなさいませ。奥さま、旦那さま」


車の扉が開き、目の前には瓦屋根をいただいた岸田家の大きな表門。

家令の真柴さんが、そこに立っていた。


まだ日は高い。昼を少し回ったぐらいだろう。なのに、ひどく長い時間が経ったように感じる。


「奈江さま……おかえりなさいませ」


玄関を入ったところで、梅が私の様子を気にしながら声をかけてきた。


「梅……もう、体調はいいの?」


「は? あ、はい。もう大丈夫です」


「そう。すごく疲れたから、私は一休みします。それでは」


周囲の顔もろくに見ず、それだけ言って自室へ向かう。後ろから、梅がぱたぱたとついてくるのがわかった。


部屋に入ると、外出着を脱ぎ、ブラウスと腰まわりのゆったりしたスカートに着替える。


「奈江さま……すみません。黙っとって。怒っとるとでしょ?」


脱いだ服を片づけながら、梅が申し訳なさそうに言う。


「怒ってはおらんよ。少なくとも、梅には」


髪をほどき、寝台に突っ伏した。


「私には、ってことは……旦那さまに怒っとるとですか?」


「怒っとる、というか、呆れとる、というか……はあ、混乱しとる」


「その……旦那さまは、悪気があったわけやないと思いますよ」


「悪気がなければ何でも許される、ってものでもないけどね」


梅は口をへの字に曲げて、「まあ……そうですけど」と言い、グラスに水を注いで私へ渡した。


「丁稚さんを呼びに行ったら、ちょうど旦那さまがお帰りになったところだったみたいで。奈江さまをお呼びします、て言うたら、『せっかく出かけるところなのに申し訳ない。僕が丁稚の代わりについて行こう』っておっしゃったものですから」


事情がわかったところで、彼のしたことを「まあ、お茶目な方」と笑える気持ちにはならなかった。


夫と初めて顔を合わせるのが、こんな状況とはどういうことだ。馬鹿にするにもほどがある。


「奈江さま。なんか甘い物でも持ってきましょうか?」


「いらん。ちょっと寝るから」


「お腹がすくとイライラしますけん――」


「とりあえず、今は一人にして」


梅はまだ何か言いたそうにしていたが、「また、お夕飯の頃に来ますね」と言って部屋を出て行った。


私は寝台の上で仰向けになり、目を閉じる。


あの人は、私の話をどんな気持ちで聞いていたのだろう。

結婚後、文の一つも寄こさず、ほったらかしにしておいたくせに。

年末の会合で意気投合して、“つい”結婚してしまった田舎商人の娘など、面白半分に扱ってもいいと思っているのだろうか。


商売の一つとして嫁いできたのだから、気にすることもない。

そう思っていたはずだったのに。

なぜ、こんなに腹が立つのだろう。


――楽しかったのだ


“さくや”と一緒に出かけて、梅とは違う商売の話をした。質問に答え、相談し、幾志屋と銀星の違いを語った。


こんなふうに商売のことを話したのは、父と商会の会合に出た時以来だった。

だから、余計に悔しくて、少し悲しかった。


彼は、私のつたない商売への思いを聞いて、どう思っていたのだろう。


いくつもの会社を動かす財閥の主人が、結婚の贈り物に投げて寄こした百貨店を、嬉しげにいじろうとしている私を、腹の底で笑っていたのではないだろうか。


そう考えると、喉の奥から呻き声が出そうになる。


悶々としていると、部屋の戸がノックされた。

梅が夕飯のことを聞きに来たのだろう。


「梅。今日は、もうお夕飯はやめておく。母上さまにも、そうお伝えして」


返事の声はなく、扉が開いた。

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