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第九章:同じ光景を知っている二人

 次の日――


「来てしまった……」


 よく案内される、六人掛けのソファが置かれた部屋。

 その奥側のソファの真ん中に座り、一人ごちる。

 火曜日の放課後、空音くんがカラオケに出勤してくる日。

 我ながら、とても分かりやすいと思う。

 スクールバッグをソファの上に置く。

 教科書が何冊も入っているせいで、肩がじんわりと軽くなる。

 来週には期末試験なので、家に帰ったら遅くまで勉強しなければならない。

 せめて中間テストより成績を上げなければ、親も安心できないはずだ。

 空音くんが、クラウドエンジニアになりたいと言っていた姿が頭に浮かぶ。

 私も、何か目標があれば少しは変わるのだろうか。

 どこかの部屋から、女子生徒が楽しそうに歌っている声が聞こえる。

 そして、それを盛り上げる声も。

 数枚の壁を隔てているだけなのに、世界が違って見える。

 空音くんは、どうして私にここに来て欲しいと言ったのだろう。

 社交辞令だとは思うのだけど……。


『綺麗な顔』


 未だに、あの言葉の真意は聞けていない。

 女装した姿で、顎を持ち上げられて言われたあの日――

 その出来事は、今でも頭の中に強く刻まれている。


「うぅ……」


 あの時の顎の感触と、肌に掛かる甘い吐息を思い出し、顔が熱くなる。

 ここに来れば、空音くんには会えるのだけど……

 また『女装した』姿を見たいと思うのは、なぜだろう。

 雨上がりの空の下、背筋を伸ばして、堂々とギターを弾く姿。

 それはやっぱり、最高にいかしている。


「橙田さん?」


 と、部屋の中から突然声が聞こえる。

 俯いて思考に耽っていた私は、身をびくつかせて顔を上げる。

 視線の先には、エプロン姿で丸い銀色のトレーを持つ、空音くんが立っていた。


「わ、わぁ!? いつの間に!?」

「えーと、ノックして声も掛けたんですけど……すみません」


 なんだか、既視感のあるやり取り。

 相手は呆気にとられた様子なので、何度もノックしてくれたんだと思う。

 自分の世界に閉じこもってしまう癖は、治さなければいけない。


「オーナーに許可をもらって、十分だけ休憩を貰ったので、ちょっとだけいいですか?」


 ドリンクが二つ乗ったトレーを右腕に抱え、空音くんは反対側の席を指し示す。

 仕事中だからか、その口調はこの前と同じ敬語だ。

 やっぱり、真面目な子なんだと思う。


「う、うん。どうぞ」


 頷くと、彼はトレーをテーブルの上に置いて、対面のソファに腰掛ける。


「ありがとう。これ、ぼくからの差し入れ。良かったら飲んで」


 そう言って差し出されるのは、緑色のメロンソーダが入ったグラス。

 今日は雨が降った後で蒸し暑く、喉が渇いていたので助かる。


「ありがとう」


 空音くんもトレーの上に置かれたメロンソーダを手にしたので、ありがたく頂く。

 大きめのグラスに入った、たっぷりの氷。

 濃い緑色をしたメロンソーダはしゅわしゅわと音を立てている。

 コップを持ち上げ、赤いストローを手にすると、氷がからんと音を立てた。

 息を吸うと、メロンに似た独特の甘さが口の中を満たす。

 喉が冷やされ、炭酸の泡が弾けるのが心地いい。

 二人で、同時にガラスのコップをテーブルの上に置く。

 休憩中だからか、いつの間にか口調が戻っている彼。

 わざわざ時間を取ってくれたということは、何かしら話したいことがあるのだろう。

 少し緊張しながら、相手の言葉を待つ。


「来てくれてありがとう」


 そう言って会釈する彼に合わせて、頭を下げる。

 こちらに向けられる顔は、柔和な表情で、緊張のようなものは感じられない。

 それでも、身構えてしまう。


「実はお願いがあるんだけど」

「は、はぁ」


 空音くんが少しだけ前屈みになって、こちらに顔を向けてくる。

 持っている彼が、私なんかに何を望むのだろう。

 考えてみても、思い当たることはない。

 なんだか実感が湧かず、気のない返事が出てしまった。

 彼は一度だけ視線を逸らして、逡巡しゅんじゅんした様子を見せる。

 間が生まれ、隣の部屋からポップな曲のイントロが微かに聞こえた。

 身体の前で手を合わせ、ダークブラウンの瞳がこちらに向けられる。


「一緒に、文化祭のライブに出ない?」


 そして、紡がれる言葉。


「え?」


 それは、予想外の内容だった。

 夏休み明けに行われる文化祭。

 そのイベントの一つに、参加者を募ってのライブイベントがある。

 軽音部が主体のイベントだが、個人的に音楽活動をしている人や、腕に自信がある人も参加するらしい。

 朱里さんも、歌で参加すると言っていた。


「いやいやいやいやいや!!」


 私は慌てて体の前で手を振り……


「無理です!!」


 と、頭を下げる。

 文化祭の舞台に立つなど、陽キャのやることだ。

 ライブイベントは文化祭の一日目に行われ、全校生徒で見ることになっている。

 千人を超える箱と考えると、ライブハウスでもそれなりのキャパ。

 そんな注目が集まる場所で、歌えるはずがない。


「大丈夫だよ。一人じゃなくて、ぼくも出るんだから」


 空音くんは身体を起こし、胸に左手を当て、右手で自分を示す。


「む、無理無理……!!」


 それでも私は、首を横に振った。

 ただでさえコミュ障な私が、舞台に立ってまともでいられるわけがない。

 普段ですら知らない人と向き合うと、声がどもってしまう。

 舞台に立った私は、足が震えて、立っていることすらできないだろう。


「な、なんで私なの!?」


 明らかな人選ミス。

 それこそ、空音くんのような輝かしい人の隣には、朱里さんみたいな人が似合う。

 悔しいという気持ちはあるけど、見掛け的にも能力的にもふさわしい。

 その光景を想像すると、胸は痛む。

 それでも、私なんかが立っていい場所じゃない。


「だって、歌うまいじゃない」


 動揺する私に対して、空音くんは笑顔でそう言って見せる。


「そ、それは嬉しいけど……」


 唯一自信が持てるそれを、褒めてくれるのはありがたい。

 それでも、歌がうまい人なんて他にもいるはずだ。

 私があの場に立つ理由にはならない。


「それに、橙田さんって。歌うの好きでしょ?」

「え?」


 身をよじらせている時に、そう言われて、動きを止める。


「仕事中、たまに歌が聞こえてたけど、本当に楽しそうに歌ってるように見えたんだ」


 目を細め、彼はニコリとほほ笑む。


「それから、真剣なようにも感じた。自分の想いを込めて、歌ってる感じ」


 顎に手を当てて、その時の様子を思い出すように、視線を机の上に置かれたマイクに向ける。

 私もつられて、吸い寄せられる。

 歌うのは確かに好きだ。

 自分の中に浮かび上がってくる、負の感情も、マイクを通せば不思議と輝く。

 大好きな曲をうまく歌うために、何度も同じ曲を歌って、細かい調整をする。

 なぜなら、その瞬間がとても楽しいから。

 周りが見えないほどに夢中になって、全てを忘れられる。

 その瞬間、世界は一気に色付く。


「ぼくも同じなんだ」


 空音くんが、口元をふっと緩める。


「変かもしれないけど、女装してギター弾くの、すっごく楽しいんだよね」


 ギターを構えるように手を動かし、何もない所で、右手をピッキングする。

 その姿に、あの日雨の下でギターを弾く美少女の姿が重なる。

 それだけで、彼が演奏を本当に楽しんでいるんだと、理解できた。

 持っているものと、持たざるもの。

 だけど、空音くんの気持ちは分かる気がする。

 歌っている瞬間が気持ちいいのは、誰よりも実感している。


「だからさ、橙田さんと一緒に歌えたら、最高だと思うんだ!!」


 体を乗り出し、興奮気味に言って、テーブルに手をつく。

 メロンソーダがからんと音を立てた。

 こちらに向けられるその顔は、とても楽しそうで……

 まるで、歌ってる時の自分みたいだと思った。

 胸が少しだけ、きゅんとなる。

 同時に高揚するのを覚えた。

 あのギターをバックに歌うことができたら、きっと気持ちいい。

 舞台に立つ自分は想像できないけど、女装してギターを構える空音くんと並ぶ姿は、ありありと頭に浮かんだ。


「明日、よかったらセッションしてみない?」


 それは、今まさに頭に浮かんでいる光景。


「バイト休みだからさ、スタジオ行こうよ」


 テーブルに両手をついたまま、ずいっと顔を寄せられる。

 ふわりと、ベルガモットの香りが鼻孔をくすぐる。

 キラキラと輝く彼の顔。

 普段の私なら、目を逸らしていただろう。

 だけど、今は普通にその顔を見ることができた。

 なぜなら、それは私が歌っている時に浮かべているものと、同じだからだ。


「うん……」


 首を、縦に振る――


「分かった、行こう」


 そして、自分の口で同意した。

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