第四章:押し寄せる想いは、湯に溶けない
家に帰り、肌に張り付く服を脱ぎ捨て、風呂場に行く。
バスタブの上に置かれた二枚組の風呂蓋を外すと、湯の表面からふわりと白い湯気が舞った。
外では煩わしさしか感じない熱が、今は心地よい。
風呂蓋を立ててバスタブの端に収納し、蛇口をひねる。
しばらくするとシャワーヘッドから勢いのあるお湯が出てきた。
べたつく肌が不快で、それを手にすると、すぐに頭に掛けた。
熱いお湯が汗を洗い流していく。
髪は湿り気を帯び、肌を流れていく水滴が心地よい。
ある程度汗を流したところで、蛇口を戻してお湯を止める。
湯気が少しずつ薄くなり、真正面にある鏡に、自分の姿が映し出される。
黒々とした長い髪が、肩と胸に張り付く。
気のせいか、普段の自分より少しだけ輝いて見える。
「いやいや……」
誰に言うでもなく、首を振る。
ちょっと褒められただけで調子に乗るなんて、短絡的だ。
頭に浮かぶのは、つい先ほど顔を近づけて言われた言葉。
綺麗な顔――
「ひうっ!?」
顔に触れる湯気と、あの子の吐息が重なり、変な声が出る。
胸に手を当てると、ドキドキと心臓が脈打っているのが分かった。
耳の先が熱いのは、お湯のせいだけではないと思う。
「うー……なんだこれ……」
気持ちを鎮めようとしても、その高鳴りは止まらない。
脳内に浮かぶ彼女の顔が、蠱惑的に唇を吊り上げる。
印象的に刻まれた、ピンク色の唇。
それがゆっくりと動き……奏でられるのは、男の子の声。
女の子らしい抑揚のつけ方ではある。
なのに響く低音だけは、どう聞いても男の子だった。
そのギャップが、脳を狂わせる。
「本当に、なんなの……これぇ……」
肩を両手で抱いて、困惑の声を漏らす。
顔に熱が上るのを感じ、目をぎゅっと閉じる。
胸の中に溢れるきゅんとした想いが、ぐるぐると渦巻いた。
地味な陰キャと言っても、私も女の子だ。
爽やかで顔の良い男の子に迫られたら、ドキドキするとは思う。
だけど……
「なんであんなに、かわいい姿なの……」
どう見ても美少女にしか見えない相手に抱いた恋慕。
それは、甘い気持ちだけではないのだと思う。
困惑、衝撃、喜び、緊張……とにかく、いろいろな想いが合わさって、一言では言い表すことができない。
「声、かっこよかったなぁ……」
女の子のような喋り方なのに、それでも有り余るほどの魅力だった。
耳を震わせる甘い囁き。
鼻には、微かにベルガモットの香りを感じる。
胸がキュッと締め付けられる。
吐いた息が熱い。
「私、そういう趣味があるのかな……」
今まで、女の子に対してドキドキした経験はない。
もちろん、かわいい子を見れば目を奪われはする。
朱里さんの私服を初めて見た時も、すごくおしゃれで見惚れた。
でもそれは、今抱いている感情とは別のものだ。
「あー……うー……」
頭を抱えて、意味もなく呻く。
相手が普通の男の子なら、ここまでは悩まなかったのだろうか。
いや、そもそもこの気持ちが恋愛かどうかも分からないのだけど……。
全身が熱く、心臓が速く脈打ち、色んな気持ちが溢れてくる。
胸がふわふわとして、ちょっとだけ切なくもあった。
「あー!! もう!!」
首を振って、シャワーヘッドを掴む。
勢いよく蛇口をひねり、いつもより強めの勢いでお湯を出す。
湧き上がってくる気持ちを誤魔化すように、私はお湯を浴び続ける。
次の日、私は朱里さんと家の近くにあるカラオケボックスに来ていた。
二人だけしかいないのに、六人が座れるソファが置かれた大きめの部屋。
片田舎の街で、数少ない娯楽施設の一つ。
スピーカーから流れているのは、朱里さんの推しのアイドルグループの曲。
対面に座り、楽しそうに歌っているその人を見つめる。
肩を大きく露出したオフショルダーの上着に、短めのデニムスカート。
肌を出すことを躊躇しないそのファッションは、自信の表われのように思える。
「わー!!」
伴奏に入ったところで、私はなるべく楽しそうに声を出す。
朱里さんの誘いは、いつも急だ。
今日は休日。
午前中ゆっくりしていたら、昼に突然電話が掛かってきた。
『優子、カラオケ行くよ』
こちらの状況は一切気にしない遠慮のない言葉。
本当は家で本を読んでいたかったけれど、断り切れずに外に出た。
やがて曲が終わり、朱里さんはマイクを置く。
「89点、まぁこんなものか」
「すごいね。私は80点も取れないよ」
相手の顔色を窺いながらおずおずと口にした言葉に、朱里さんは満足そうに胸を張る。
我ながら、よくこんなでまかせが出てくるなと思う。
機嫌を取るためとはいえ、自分の卑屈さが嫌になる。
以前一緒にカラオケに行った時、朱里さんより良い点を取ってしまったことがある。
その時の不機嫌そうな顔は、今でも胸に焼き付いている。
たまたまその曲だけ歌いこんだことにして、なんとかなだめた。
それ以来、朱里さんの前ではわざと下手くそに歌っている。
「何歌おうかな~」
こちらの番など気にせず、朱里さんは曲を検索するデンモクを弄っている。
変に気を遣って歌うよりは、聞いている方が楽なので、助かりはする。
ただ、休みにまで何をやっているのだろうという、気持ちは拭えない。
ため息を吐きそうになり、慌てて口元に手を当てる。
その時、テーブルに置かれたスマホが鳴った。
「あ、ピから連絡だ」
朱里さんは嬉しそうにスマホを手にすると、素早い指使いで画面を叩く。
「じゃ、私行ってくるね!!」
「え……?」
すぐさま立ち上がり、机の上の荷物を片付け始める。
あまりの展開の早さに驚くが、いつものことではある。
『ピ』というのは彼氏さんのことだろう。
「ああ、うん。サッカー部のキャプテンだよね。あんな凄い人と付き合えるなんて、朱里さんは凄いなぁ」
内心で呆れながらも、ここは相手を立てておく。
「んーん、あれはピッピだから。そんじゃね」
「え……あ……」
朱里さんはこちらに振り返ることもなく、サッと部屋から出て行ってしまう。
入口の扉が、ばたんと音を立てて閉まる。
私は、しばらく呆然とそちらを見つめた。
「凄いアクティブさだ……」
朱里さんのことはよく思っていないけど、その行動力は心から尊敬できる。
「ピッピかぁ……」
女子から人気のある憧れの先輩ですら、あの人にとっては友達以上恋人未満の存在らしい。
倫理的に見れば、よくないことだ。
でもその豪快さは、少しだけ憧れたりもする。
私に少しでもその強さがあれば、こうやって振り回されることもないのだろう。
「はぁ……」
昨日、少しだけ晴れていた世界が、また灰色に染まっていく。




