第三章:美少女の正体
吸い寄せられるように、文化センターへ続く階段を登る。
足は重く、蒸し暑さに流れる汗が下着を濡らし、肌に纏わりついてくる。
それでも、この先に広がっているであろう輝きを求めて、前に進む。
階段を登り切り、深く息を吐く。
雨に濡れた芝生の匂いが鼻孔をくすぐる。
目の前に広がる広場には、人の姿は見えない。
それでも、その力強い音色は確かに聞こえる。
その音を求めて、図書館に続く通路を歩いていく。
跳ねるような心地よいリズムが近づいてくる。
「あ……」
駐輪場を通り過ぎたところで、その子の姿を見つける。
フィルターを通してくすんだ色をした空の下、その子だけが輝いて見えた。
水色のブラウスに、短めのベージュのスカート。
昨日とは違う、爽やかさと可愛さが合わさった、夏らしい姿でアコギを弾いている。
手が動くたびに、揺れるツインテール。
雲間から差し込む光が、スポットライトのように彼女を照らしていた。
たまにぽつぽつと雨粒が落ちてくる中、この空間だけが晴れ渡っているかのように明るい。
弦を弾く細い指に、目を向ける。
『愛しのレイラ』の印象的なイントロが、美しく奏でられる。
ハンマリング・オン――
ピッキングせず、弦を指先で叩いて音を鳴らすテクニック。
私もこれをやりたかった。
だけど、アコギの硬い弦を強く叩いても、指が痛いだけで全然音は鳴らない。
指に力を入れると、手が固くなって動きが鈍くなる。
だから、力ではなくて速さで音を出す。
頭では分かっていても、再現するのは難しい。
なのに、この子はピアノの鍵盤を軽々と叩くように、しかもあの速さで音を紡いでいる。
「……」
その表情は明るく、苦労した様子もなく指は滑らかに動く。
右手に持ったピックで弦を弾いてピッキングし、その余韻を残したまま、薬指をフレットに打ち付ける。
ソフトタッチなのに、音はしっかりと鳴っていた。
見た目の優雅さが信じられないくらい、音は力強い。
私は気だるさなど忘れ、その演奏に魅入る。
かわいらしい女の子が、大きなギターを弾いている姿。
最高にかっこいいし、眩しいくらいに輝いている。
真夏の暑さに喉を枯らし、冷蔵庫からサイダーを取り出して飲んだ時の爽快感。
炭酸が弾けるような爽やかさが、全身を支配する。
レイラ――
歌詞の一部が、昨日と同じように口から漏れる。
「……」
その刹那、彼女が顔を上げる。
「しまった」と思った。
手が止まり、震える弦が微かな音の余韻を作り出す。
辺りが静寂に包まれる。
彼女と目が合う。
その瞳に吸い寄せられ、身動きが取れない。
私はただ口を開けて呆け、その場に立ち尽くす。
心の中に浮かんだ罪の意識はすぐに消え、驚愕の念で満たされる。
風が吹き、広場の芝生をそよそよと揺らす。
時が止まったかのような錯覚。
綺麗な顔に見つめられて、すっかり魅了されている。
「……」
ふと、彼女が持っているギターを背中に回す。
チューニング用の糸巻きがついたヘッドが下を向き、ネックを右手で持っている。
その姿を後ろから見たら、ロックスターのように見えるかもしれない、などと思う。
だけど、すぐに冷静になった。
もしかして、練習を邪魔したことを咎められるのだろうか。
間を置いて、彼女はゆっくりと歩いてくる。
不安に思い、身を縮める。
しかし、相手に魅了されてしまった身体は、一歩も動かない。
彼女はじっとこちらを見つめたまま、目の前で動きを止める。
手を少し上げれば触れてしまいそうなほど、その距離は近い。
そこで分かったのだが、彼女の背は私よりもはるかに高い。
恐らく170センチはある。
15センチの背丈の差は、威圧感を覚えるには十分だ。
「ひっ……」
と、喉の奥からカエルを踏み潰したような、枯れた声が漏れる。
陰キャ特有の、妙に甲高い裏返った声。
こちらを見下ろす彼女の顔は無表情で、どんな感情を抱いているのかが分からない。
私は、あわあわと意味もなく口を動かす。
緊張によって、背中にツーっと汗が流れていく。
彼女は、ずいっと顔を近づけてきた。
「ひえー……」
と、心の中で情けない声が浮かび上がる。
いや、もしかしたら実際に口に出ているのかもしれない……。
そんなことは気にせず、彼女は首を傾げる。
まるで、珍しい生き物でも観察しているかのように。
体を震わせながら、その視線に耐える。
そして、こちらに伸びてくる手。
「ふわっ!?」
次の瞬間、顎に指が触れて、私は今度こそ声を上げた。
顎に親指を当てられ、人差し指で顔を持ち上げられる。
頭の中が真っ白になる。
なのに、今の状況がどういうものなのか、はっきりとわかった。
これは、いわゆる顎クイというやつだ。
顎に指を添えて顔を上に向かせ、無理に視線を合わせるシチュエーション。
漫画やドラマでしか見たことがない胸キュンシーンが、実際に行われている。
「え……ええ!?」
予想だにしない展開に、声を漏らす。
顎先に感じる熱と、くっつきそうなくらい近い顔。
香水のようなベルガモットの香りが、ふわりと舞った。
ダークブラウンの瞳が、見透かしてくる。
そこまで気に障ったのだろうかという不安と、背の高い美少女に顎クイされているという胸の高鳴りが、ない交ぜになっている。
潤いあるピンク色の唇が、プルッと瑞々しく揺れた。
「綺麗な顔」
その美少女がふっと笑い、そんな言葉を口にする。
甘い吐息が口元に掛かり、心臓が跳ね上がった。
ストレートな褒め言葉が、胸にきゅんと染み渡る。
だけど、それと同時に違和感が襲い掛かってきた。
「え?」
上げた疑問の声。
彼女が手を離し、一歩後ろに下がる。
こちらの考えを見透かしているかのように、妖しく口角を上げた。
覚えた違和感に、私は呆然としている。
彼女の口から出た声、それは女性とは思えないくらいに低かった。
女の人にも大人の魅力が感じられる、低音の人はいる。
しかし、それとは比べ物にならないくらい低い声。
声変わりを果たした、低音の重厚感が極まったイケボ。
それが、目の前の美少女の喉から奏でられている。
一歩引いても、背は高い。
だけどその顔も華奢な体つきも、女の子にしか見えない。
「ふふ……」
その低音のまま、彼女……いや、彼は口元に手を当てる女性らしい姿で笑う。
そのまま、悪戯っぽく笑い、小首を傾げた。
「残念、男の子でした。がっかりした?」
あざとい仕草と、魅力的な低音。
そのちぐはぐさに、脳が揺さぶられる。
見掛けは女の子にしか見えないのに、声は男の子?
ぐるぐると回る疑問。
視界を覆う灰色のフィルターに、壊れたかのようにひびが入る。
頭の中で強く明滅する輝き。
やがてひびが入ったフィルターは、粉々に砕け散った。
ドキドキと高鳴る胸。同時に押しつぶされるような焦燥感。
身体はふわふわと夢心地で、甘い言葉を浴びた耳は幸せな熱を帯びる。
「ひゃ、ひゃぁあああああ!!」
視界がぐるぐると回り、情けない声が喉から漏れる。
そのまま、私は地面を蹴って走り出していた。
彼に不快感を覚えたわけではない。
むしろこれは……
いや、よく分からない。
だからこそ私は混乱し、自分の気持ちを測りかねるまま、逃げ出した。
振り返りたかったが、そんな勇気はない。
ただ、彼は今もこちらに笑みを浮かべている気がする。
とにかくそれは、これまでの人生で感じたことのない、初めての感情だった。




