第二章:灰色のフィルター
始業ベルが鳴る三十分前。
朝の教室はまだ生徒が少なく、数人の会話だけが静かに響いている。
気だるさを覚えながら自分の席に着く。
体調が悪いというほどでもないが、体が少しだけ重く感じる。
鞄をフックに掛けると、私はすぐに突っ伏した。
雨上がりで蒸し暑い教室に、開けられた窓から心地よい風が吹く。
僅かに汗ばんだ肌から、熱を奪う。
この教室にはエアコンがついているが、稼働するのは始業ベルが鳴ってからだ。
幸いにして風が良く通るので、そこまで不快さはない。
こうして伏せていると、眠気に飲まれてしまいそうになる。
風に合わせてカーテンが揺れる音を聞きながら、微睡む意識を闇の中に落としていく。
「おはよう!!」
ふと、大きな挨拶が教室に響く。
それに合わせて、クラスメイトたちは次々に声を上げた。
意識が引っ張り上げられる。
無理に覚醒したことで、増す気だるさ。
突っ伏したまま顔を横に向けると、前の席に鞄が置かれる音がする。
こちらに近づいてくる気配。
「おはよう、優子」
近くで明るい声が聞こえた。
その聞き慣れた声を聞いて、身体はすぐに反応する。
慌てて体を起こし、声が聞こえた前方へと顔を向けた。
視界に入るのは、私の机に手を置いて、ジッとこちらを見つめる女子生徒。
肩につく長さのアッシュブラウンの髪が、照明を浴びて流れるような艶を作り出す。
メイクによって整えられた眉に、微かにラメの入った目元。
先生にぎりぎり許されるくらいの、絶妙なおしゃれ。
白いシャツにチェックのスカートという、ありふれた制服姿なのに、彼女の姿は誰よりも輝いて見える。
「お、おはよう!! 朱里さん!!」
疲れた表情を取り繕い、挨拶を返す。
私の声は、明らかに上擦っている。
そんな態度に満足したのか、彼女はにこりと微笑んだ。
ふわりと外ハネの毛先が揺れる。
「よいしょっと」
朱里さんは椅子を引いてこちらに向けると、腰を下ろす。
その様子を、緊張しながら見守る。
彼女はこのクラスの中心となる存在だ。
見掛けはとてもかわいいし、家柄も良いようで、噂によるとお父さんが歴史ある会社の社長らしい。
誰にでも分け隔てなく話す明るい子だが、気分屋な一面もある。
「新しい動画見た?」
「うん、見た見た!!」
気だるさでぼーっとする頭を無理やり動かしながら、なるべく明るい声を出す。
「昨日の動画、超よかったよねー。私の推しが一番輝いててさー」
組んだ足がこちらに伸ばされ、足先が膝に触れる。
ちょっとだけ身体を引いて、乾いた笑顔を浮かべた。
「やっぱビジュいいわー。推さない人、人生損してると思わない?」
「そ、そうだね」
朱里さんが推しているアイドルグループのチャンネル。
正直に言えば、興味はない。
曲は良いし、メンバー同士のやり取りは見ていて面白くはある。
だけど、私の好きなジャンルとは明らかに違う。
それでも、話を合わせるために追いかけているのだ。
「あ、そうだ。優子、気をつけた方がいいよ」
「え、何?」
話の途中で、朱里さんは突然手を合わせて話題を変える。
「私のことをよく見てくれる、先生がいるって言ったじゃん」
「あ、うん」
その言葉に嫌な予感を覚える。
朱里さんはスピリチュアルにはまっていて、霊視ができる有名な先生に見てもらっているらしい。
本人いわく、本物らしいのだが……。
「先生がさ、優子には生霊が憑いてるって言ってたんだよね」
「え……」
神妙な面持ちで、声のトーンを落としながら言われ、胸の奥が重くなる。
もちろん生霊のせいではなく、単純に嫌な気持ちになったのだ。
「私はお祓いしてもらったから、二年間は何も憑かないんだって。オーラも爆上がりだよ」
「そっか……それは羨ましいなぁ」
信じるか信じないかは本人次第だし、それ自体を否定はしない。
それでも、一方的に悪い結果を言われるのは良い気がしない。
なぜだか朱里さんは、それを嬉しそうに伝えてくる。
もしかしたら、優越感を覚えたいのだろうか。
そう考えると、心の中はもやもやする。
「優子、聞いてる?」
「う、うん。もちろん」
そんな気持ちは誤魔化して、無理やり笑顔を浮かべる。
相手は私のことを呼び捨てで呼ぶが、私は彼女のことを『朱里さん』と呼ぶ。
一度、間違って呼び捨てにしてしまった時、冷たい目を向けられたのを思い出す。
友達が少ない私にとって、朱里さんはありがたい存在でもある。
だけど、その関係は対等なものではなかった。
放課後になり、帰り道を歩いている。
見上げると、遠くの空に黒い雲。久々に晴れたのに、また雨が降りそうだ。
「はぁ」
消えない気だるさに、ため息を吐く。
少しだけ痛む下腹部を押さえ、普段より重く感じる鞄を肩にかけ、とぼとぼと道を歩く。
朱里さんと話していると、嫌な気持ちになることも多い。
それでも、不満を漏らすことはなかった。
相手は学校でも人気の高い存在だ。
本来なら簡単に近づける相手ではない。
少ない友人の中には、それを羨ましく思っている子もいる。
学校内で自然発生する、生徒間の暗黙の序列。
明確にいじめと呼べるほどのものではないが、それは確実に存在している。
スクールカースト上位にいる彼女に嫌われれば、たちまちクラスの輪から外れてしまう。
駅前の交差点に差し掛かり、足を止める。
片田舎のベッドタウンであるこの辺りには、ほとんど高い建物はない。
周りを見渡してみるが、数人の生徒が歩いているだけだった。
「うぅ……」
軽い立ち眩みを覚え、頭を押さえる。
たまに世の中がフィルターをかけたように、薄暗く見えることがある。
雨雲の間から覗く太陽の光も、コンビニと呼べるか怪しい小さな商店の看板も、灰色に見えるのだ。
ぼんやりと霞む視界。
全てが色を失って、聞こえる音が古いスピーカーを通したようにノイズ交じりになる。
病気などという重いものではない。
恐らくそれは、自分自身が世界に掛けたバイアスのようなものだ。
気を遣う人間関係も、日頃の行いが数値として反映されるテストも、親からの期待も、全てが煩わしい。
こじらせた、いわゆる『中二病』というやつ。
歩行者信号が、赤い灰色から緑の灰色へと変わる。
足を踏み出そうとした時、視界がふと色付いた。
「あ……」
足を踏み出そうと顔を上げた時、反対側の道を朱里さんが歩いていくのが見える。
白いタンクトップに、黒いブルゾンの上着を着込み、フレアミニスカートのように見えるショートパンツを履いている。
足元は網目状で透け感のある、ゆったりとしたレイヤードレッグウォーマー。そして、大きめの厚底スニーカー。
流行りのスタイルに、ハイブランドのバッグを合わせている姿が、輝いて見える。
その隣に並んで歩いているのは、サッカー部の先輩だった。
強豪であるうちの学校で、キャプテンを務めている。
長身で爽やかな笑顔が印象的な、女子人気の高い人だ。
緩めにかけた、その人のワンカールパーマがふわりと揺れる。
楽しそうに微笑む横顔は、ドラマに出てくる俳優さんのような爽やかさ。
フィルターによってモノクロになった街の中に、二人の姿だけが輝いて見える。
思わず、目を逸らす。
スクールカースト上位同士の恋。私には関係のないもの。
だからこそ、眩しくて見ていられない。
他人と比べて自分を落とすことは、愚かなことだと思う。
それでも、上を見てはその違いに畏怖するのだ。
惨めな自分との圧倒的な差――
信号が点滅をはじめ、慌てて横断歩道を渡る。
その間に、朱里さんと先輩は駅に消えてしまった。
「つ……」
下腹部を軽くさすり、息を吐く。
胸に掛かるもやもやは、相変わらず心の底を漂っている。
家に続く道に入ろうとして、ふと役場に続く道が目に入った。
昨日、ギターを弾く美少女を見たあの場所。
曇り空を晴らすかのような、キラキラとした存在。
耳を澄ます――
「……」
少ない車が行き交う音に混じって、アコースティックギターの音が聞こえた。




