第十六章:ベルガモットとシトラス
結弦くんの背中を追って、図書館の方に進んでいく。
建物に沿って日除けの屋根が設置されているので、この辺りは涼しい。
広場からは、子供たちの楽しそうな声が聞こえる。
私は少しだけペースを上げ、彼の隣に並ぶ。
後ろにいても良かったけど、並んで歩いてみたかった。
結弦くんがこちらを見て、ふっと口元を緩める。
そこにいることを許された気がして、嬉しくなった。
図書館の入り口を通り過ぎる。
一体、どこまで行くのだろう。
「……」
そう思っていると、結弦くんが突き当たりで手を上げて、右に曲がるよう指さす。
正面には、外界を遮るための高い植木。
建物に沿って曲がると、細い通路に入る。
「ここって、通れたんだ」
図書館にはよく来るけど、奥側の通路を通るのは初めてだ。
建物の影に覆われたその場所は、二人並んで何とか通れるくらいの狭さ。
肩が触れることにどきどきしつつ、そこを進んでいく。
「ここだよ」
すると、結弦くんが声を上げて立ち止まる。
細い通路の先に広がるのは、少しだけ開けた空間。
地面には芝生が敷かれ、壁際には木製のベンチがぽつんと置かれている。
芝生には二箇所照明が埋められており、そこだけは丸い形のガラスになっていた。
ここは、図書館の中から見えた中庭だ。
よく見ると、ベンチが置かれた壁はガラス張りになっていて、今はカーテンが下ろされている。
植木によって遮られているため、少し暗いが、僅かに日の光が差し込んでいる。
誰もおらず静かで、なんだかオシャレな場所だ。
「ぼくのお気に入りスポット。本を読むのにいい場所なんだ」
言いながら、結弦くんはベンチに進んでいく。
そこでクルリと振り向くと、そのまま腰を下ろした。
「……」
彼は何も言わず、代わりにぽんぽんと空いている左側を叩く。
背もたれがついた、四枚の天板で作られたベンチ。
それは公園に置かれたものと比べると、明らかに短い。
戸惑いながらも、そこに近づく。
空いたスペースを確認してみるが、私がやっと一人座れるくらい。
このまま座れば、間違いなく肩が触れる距離。
くるりと背を向ける。
だけど、そこで緊張感に襲われた。
本当に、このまま座ってもいいのだろうか。
こんなことなら、汗を流すだけじゃなくて、しっかり身体を洗って来ればよかった。
「すぅ……」
ばれないように小さく息を吐いて、胸に手を当てる。
ずっと迷っているのは変なので、覚悟を決めて座る。
お尻に感じる、天板の感触。
そして、案の定触れる肩。
少しでも足を動かせば、太腿も触れてしまいそうだ。
緊張で背筋が伸びる。
隣に視線を向けるのが恥ずかしくて、正面の植木を見つめた。
これはご褒美なのか、それとも試練なのか……。
「テストお疲れ様」
こちらの気持ちなど露知らず、結弦くんはいつもの調子で声を上げる。
身体をこちらに向けたようで、膝の先が太腿にちょんと触れた。
「ふひっ……」
柔らかな感触に、陰キャらしい気持ち悪い息が漏れる。
私は僅かに腰を引いて、身体をゆっくりと結弦くんの方に向ける。
そうすると、どうしても膝同士が触れ合う。
こそばゆさを感じながらも、体裁を取り繕う。
もちろん、手は情けなく震えていた。
「ゆ、結弦くんもお疲れ様。結果はどうだった?」
「うん、まずまず。学年五十位以内には入れると思う」
前を向いてそう言う結弦くんは、少し安心したように見える。
学校ではテスト後に、学年毎の順位がベスト五十まで張り出される。
特進科を除いてではあるが、生徒数が多いうちの学校で、そこに入れるのは凄いことだ。
「優子ちゃんはどうだった?」
聞き返される言葉。
今までは成績を聞かれるたびに落ち込んでいたけど、今回は違う。
「うん、いつもよりは……頑張れたかな」
はっきりとした確信はないけど、手応えはあった。
少なくとも、中間テストよりは点が上がってるはずだ。
「ほんと? すごいね!!」
顔を覗き込むように言われて、はにかむ。
普段より頑張ったので、褒められるのは嬉しい。
膝の上に置いた手を合わせ、ギュッと握る。
それにしても、女装して話している彼の姿は、本当にかわいい。
顎に手を当てて小首を傾げる仕草は、あざといけれど、様になっている。
見ていると、ちょっと癒される。
おかげで肩の力が抜けた。
「優子ちゃん」
結弦くんが膝の上に両手を置いて、呼びかけてくる。
「うん、なに?」
そう言えば、今日は呼び出されてここに来たのだった。
文化祭のライブイベントのお誘いだろうか。
そう考えていると、結弦くんが右手をこちらに伸ばしてくる。
その手は私の頬の横を通り過ぎ、頭に向けられた。
「え?」
突然視界が塞がり、呆気にとられる。
次の瞬間、頭に感じる優しい感触。
「よく頑張ったね。えらいね」
そんな、まるで子供をあやすような声が聞こえる。
頭に感じるのは、細い指が髪を梳く感触と、手の平の温もり。
「え……」
もしかして今……
「う……ぁ……」
頭、撫でられてる……!?
「ひあっ!?」
状況を理解して、口から変な声が漏れる。
顔が一気に熱くなり、鏡を見なくても赤くなっているのが分かった。
ねっとりとした感触ではなく、父親が子供にするような、優しい撫で方。
幼少の頃以来感じてこなかったその感触が、こそばゆい。
誰もいない二人だけの空間。
体がくっつきそうな距離で、優しく頭を撫でられている。
これは一体、どういう状況なのだ。
訳が分からず、耳の先まで顔を真っ赤にし、目を回す。
不快ではない。
体がポカポカして、むしろ心地よい。
「あ……」
その手が離される。
塞がっていた視界が開け、見えるのはニコリとほほ笑む結弦くんの顔。
その顔をまともに見ていられず、目を泳がせる。
鼻先に感じる、ベルガモットの香り。
私の体からする爽やかなボディクリームの匂いと、混ざり合う。
胸は、これ以上ないくらいドキドキと音を立てている。
撫でられていた頭に残る幸せな余韻。
顔を伏せていると、隣から声が上がる。
「あ、ご、ごめん……!!」
結弦くんが、慌てて頭を下げる。
「この姿でいると、変なスイッチ入っちゃって……」
しゅんと眉をひそめて、口元を隠すように手を当てる。
「嫌だったよね?」
身を乗り出すようにして、申し訳なさそうに尋ねられる。
「嫌じゃないです!!」
と、食い気味に心の中で返事をするが、喉が詰まって声が出てこない。
心臓はバクバクと鳴り続けているし、赤い顔を隠すので精いっぱい……。
その上顔が近いし、滅多に見せない悲しそうな顔が、かわいいと思えてしまう。
感情はぐちゃぐちゃだ。
こんな時、陰キャは震えながら黙るしかない。
お願いだから、これ以上情報を与えないでくれ……。
目を閉じて、ワンピースのスカート部分をぎゅっと掴む。
「えーと、あのね……」
珍しく、結弦くんはおろおろと狼狽した様子を見せる。
私は片目だけを開けて、様子を窺う。
彼は落ち着くためか、一度深く息を吐く。
そして、顔を離して背筋を伸ばすと、こちらを見据える。
恐る恐る、片方の目も開ける。
二人が口を噤み、狭い空間に静寂が訪れた。
遠くから聞こえる、子供たちの楽しげな声。
そよそよと吹いていた風が止む。
ダークブラウンの瞳が光を浴びて輝いた。
「今日の優子ちゃん、なんだか雰囲気が違ってて……」
そう言って、結弦くんは微かに口元を緩める。
眉はひそめたまま、苦笑しているように見えた。
「いつもより可愛いから……つい」
甘く囁くような低音ボイスが、耳をくすぐる。
かわいらしい美少女の雰囲気が崩れ、素の彼が覗く。
突然空気が変わって、思考が完全に止まる。
木漏れ日によって照らされた、彼の顔。
風が私の髪を揺らし、思考が少しずつ動き始める。
「えっと……」
気のせいだろうか、今とんでもないことを言われたような……。
聞き間違えとは思うけど「かわいい」とか「いつもより」とか、そんな言葉が聞こえた気がするのだが……。
思考が止まったことで引いていた熱が、再び戻ってくる。
それも、ボンと爆発するような勢いで。
「ぴ……」
「ぴ?」
口から漏れる言葉。
それをオウム返しする結弦くん。
刹那、
「ぴぃいいいいい!?」
私は顔を真っ赤にしながら、ペンギンの雛のような声をあげていた。




