第十二章:隣に立ちたいという気持ち
夜になり、自室で勉強している私は、ふと窓の外を見やる。
時間は既に二十三時、夜の帳はとっくに下りている。
雨が降っているようで、微かにしとしとと音が聞こえる。
冷房がついた部屋は快適で、少し肌寒いくらいだ。
椅子に掛けていた、夏用の薄い上着を羽織る。
来週はもう七月、ついに期末テスト。
ここである程度成績を上げておかないと、親に顔向けできない。
持っていたペンを置いて、少しだけ考える。
私は恵まれている環境だと思う。
一軒家に住んでいて、自分の部屋が与えられている。
勉強時間は厳しく管理されているけど、それ以外で強く言われることはあまりない。
今日も、十九時前には家に帰ったので、詮索されることはなかった。
両親には感謝している。
だけど、今の特進科という道は自分で決めたことじゃない。
目の前のテキストに視線を落とす。
毎日出される課題は、二時間くらい掛けないと解けない。
もうすぐ夏休みだが、そのほとんどは補習に追われることになる。
目指しているのが難関大学なのだから、当然だ。
しかし、それも自分で望んだことではない。
自分の中に、明確になりたいものがあるわけではない。
ただ、中学校の友人が、専門科目のある高校に進むのが羨ましかった。
私が望んでいたのは、普通の高校生活だったのかもしれない。
特進科は補習も多く、部活に入るのが難しいし、アルバイトもなかなかできない。
そんな中でも、普通の高校生らしく振る舞っているのが、朱里さんだ。
常識が人とずれている……というのもあるかもしれないが、成績を維持しながら日々を楽しんでいる。
地頭がよいのか、それとも育った環境のおかげなのか。
課題を忘れることも多いけど、成績がトップである以上、先生は何も言わない。
校内偏差値で、自分のヒエラルキーを証明する、実力社会。
誰も何も言わないけれど、模試の結果でピリピリすることもある。
そんな雰囲気も、苦手だった。
「はぁ」
集中力が途切れ、部屋を見渡す。
ベッドと机以外に置かれているのは、シェルフラックと本棚くらい。
姿見などはあるけど、クローゼットの中に収納している。
自室を片付けたのも、勉強に集中するためという、親の意向が強い。
本棚に詰まっているのは、たくさんの教科書と問題集。
代わりに、シェルフラックにはCDが並び、下段にはミニコンポが置かれている。
新曲はスマホでダウンロード版を買うことが多いけど、アルバムは特典欲しさにたまに買う。
昔のアーティストの曲を、中古ショップで買うこともあった。
ここだけが、私の存在を主張している。
「楽しかったなぁ」
スタジオでのことを思い出し、ポツリと呟く。
結弦くんと行ったセッションは、とても心地よかった。
全然歌い足りず、もっと居たかったくらいだ。
ずっと歌い通したのに、喉の調子は悪くなく、むしろ調子がいい。
結弦くんが奏でるギターは、何と言うか……優しかった。
ドラムもベースも不在の中で、自己主張しすぎず、キーとリズムを整えてくれる。
最初こそ、エフェクターを使って私を煽るように演奏していたが、あれは背中を押すため。
それ以降は、バッキングも控えめで、音量もうまく調整してくれていた。
代わりに、楽曲の中で一時的に主役となるソロでは、とても張り切っていた。
『なないろ』の後は、結弦くんがヨルシカの『ただ君に晴れ』をリクエストしてきた。
エモーショナルなギターソロが印象的で、ギターの魅力を引き出してくれる曲。
サビ中に手を叩くクラップがあるが、そこでボディを叩くのが印象的だった。
そんな感じで、お互いにリクエストし合う時間は、最高に楽しかった。
好きな曲も結構似ていて、時間があればもっと語り合いたい。
「んー……」
軽くなる心。
音量を抑え、ハミングする。
再びペンを取って、苦手な英単語を書き出していくが、すらすらと書ける。
できれば、あの時間をもう一度過ごしたい。
それを叶えるためには、成績を上げる必要がある。
母親には、もし期末テストの成績が落ちる様なら、塾で夏期講習を受けて欲しいと言われている。
ただでさえ学校の補習があるのに、そうなれば自由な時間は取れないだろう。
私が結弦くんと会えるのは、数少ない補習がない日だけ。
「あれ?」
そこでふと思う。
今の自分には、自然と目標ができていないだろうか。
自由な時間のために、これ以上勉強したくないという後ろ向きなもの。
だけど、それはあの心躍るような時間を得るための、私自身の願望だ。
結弦くんと会って、もっと話がしたい。
あわよくば、もう一度スタジオでセッションしたい。
頭に浮かぶのは、女装してギターを弾く姿。
揺れるツインテールと、巧みに動かされる指。
少年のように笑う表情は明るく、額に浮かぶ汗もキラキラと輝き美しい。
最高にかわいい見かけをした男の子が、最高にかっこよくギターを弾いている。
それは幻想的でもあり、夢のような光景でもある。
でも、あの時感じたスピーカーから流れるギターの音は耳に残り、その振動はお腹に刻まれている。
あの時間、私たちは確かに通じ合っていた。
言葉を交わさなくても、目配せだけで互いの考えが伝わり、次にしたいことも自然と分かった。
私の口から出たメロディが、結弦くんの奏でるフレーズに乗り、スタジオに響き渡る。
「文化祭か……」
ページいっぱいに英単語を書き終え、手を止めてポツリと呟く。
スタジオという閉じられた空間に、溢れた音。
それは、どこまでも広がりそうなほどの力強さを持っている。
あの閉鎖された十畳のスペースでは、収まりきらないほどの勢いだ。
もしあれが、解放されたステージの上だったならばと考える。
その中心に立ち、歌う自分。
震える足も、緊張によって締め付けられる心も、一旦ステージの外に追い出す。
音源がスピーカーから流れ、私の隣にはギターを弾く結弦くんが立っている。
奏でられるギターの音が私の背中を押し、今日と同じように気持ちよく声を出す。
その声は、広い体育館を縦横無尽に駆け巡る。
高い天井、目の前にはたくさんのオーディエンス。
照明を消された体育館にスポットライトだけが灯り、キラキラと輝く。
それはきっと――
「気持ちいい」
口から、熱を帯びた声が漏れる。
胸が温かくなり、全身にふわふわとした浮遊感を覚えた。
まさに、夢心地だ。
「よし……」
今日の課題を終え、机の上を片付ける。
シェルフラックの上部に置かれた、スタンドに乗ったスマホに目を向ける。
時間は日付が変わる十分前。
睡眠を取ることも大切と言われているので、そろそろ寝なければならない。
その前に、朱里さんと話を合わせるために、動画も見ておかないと……。
椅子を引いて立ち上がり、時間割を見ながら明日必要な教科書を、鞄に詰めていく。
準備を終えてから、たくさんのCDが並ぶシェルフラックの前に立つ。
上から二段目には、お気に入りのCDをジャケットが見えるように並べている。
そこには、アーティストがライブをしている時の写真のものがあった。
それを、なんとなく手に取る。
「今は、妄想かもしれないけど……」
本当に舞台に立てる未来というのも、あるのだろうか。
そう考えた途端、胸に湧き上がってくる熱い想い。
実感は湧かないけど、隣に立つ結弦くんの姿だけは、ありありと想像できる。
胸の奥が、トンと叩かれたような気がした。
この気持ちは何だろう。
相手に対する憧れと希望。
その隣に立っていたいという想い。
恋とはまた違う、情熱のようなもの。
「うーん……」
呻いて、アルバムを元に戻す。
なんだかはっきりとしないけど、もやもやはしない。
ただ、自分の中に明確になった気持ちがあるのは確かだ。
「勉強、頑張ろう」
そう呟いてから、私は歯を磨くために扉を開けて自室を出た。




