第九話 意地の悪い問い
朝の花瓶には、昨日よりも少し濃い青の小花が足されていた。
窓辺に置かれた白い陶器の花瓶。そこに挿された花は、強い香りを持たないものばかり。
けれど近づけば、雨上がりの庭に似た青い匂いがかすかにする。
私は寝台の上で、その花を眺めていた。
日曜日の庭園では、あれほど多くの薔薇が咲いていたのに、レオナルトが自分のために花を選ばせたことなどなかった。
今は毎朝、花が増える。
そのことが、嬉しいより先に怖かった。
「こちらの花は、今朝、殿下がご自身で確認なさったそうです」
「ご自身で」
「はい。香りが強すぎないか、花粉が落ちやすくないか、庭師へお尋ねになっておりました」
ミラベルが杯を下げながら言う声は明るい。
まるで、愛されている婚約者へ伝える微笑ましい報告のように。
花瓶から目を離せなかった。
「殿下は、いつもそのような方なのですか」
記憶のない令嬢として尋ねるには、不自然ではないはずだった。
けれどミラベルは、一瞬だけ言葉を探すように瞬きをした。
「……殿下は、必要なことに細やかなお方です」
少しずらされた答え。
必要なこと。では、以前の私は、必要なことではなかったのだろうか。
「私は、以前から殿下に大切にされていたのでしょうか」
尋ねた瞬間、ミラベルの手が止まった。
水差しの銀の縁が、朝の光を受けて細く光る。
「フィオナ様」
「ごめんなさい。困らせるつもりでは」
「いいえ。ただ……」
ミラベルは、扉の方へ視線を向けた。
廊下に誰もいないことを確かめたのだろう。
「以前のことは、私どもから軽々しく申し上げるべきではございません」
軽々しく。その言葉で、答えの輪郭は見えた。
やはり、以前のレオナルトは今とは違ったのだ。
私が記憶を失ったふりをしているから、周囲はその違いを隠そうとしている。
「……そうですか」
右手を寝具の上に置いた。
親指が薬指の付け根へ触れそうになり、慌てて指先を伸ばす。
癖を出してはいけない。この前、父に見られかけたばかりだ。
「ただ、ひとつだけ。今の殿下が、フィオナ様を案じていらっしゃることは本当です。そこだけは、どうか疑わないでくださいませ」
ミラベルが、声を落とした。
そこだけは。
胸の奥が、ひどく静かになった。
疑いたいのではない。信じたいから怖いのだ。
その日の午前、レオナルトはいつもより少し遅れて客室へ来た。
手には本があった。厚い革表紙の詩集ではなく、薄い植物図鑑だ。王立学園の初等課程でも使われるような、花の絵が多い本だった。
「退屈だろうと思って持ってきた」
レオナルトは、寝台脇の椅子に腰を下ろす。
「文字が多いものは頭に響くかもしれない。絵だけでも見られる」
「ありがとうございます」
本を受け取ると、表紙の革は手に柔らかく、ほんのりと紙の匂いがした。
これも、知らないふりをしなければならない。
植物学の講義で、北部原産の薔薇について話題にしたことも。
日曜日の庭園で、一人きりで花を見たことも。全部、覚えている。
ページを開くと、最初に白い小花の絵があった。
今朝の花瓶に挿されているものと似ている。
「この花ですか」
「似ているが、違う。これは北部の湿地に咲くものだ。今朝の花は、王宮の温室で育てた品種だ」
「詳しいのですね」
「庭師に聞いた」
短い返事だった。
けれど冷たくはない。
私がページをめくる速さに合わせて、レオナルトは黙って待っている。
その沈黙が、怖くなかった。
そう気づいて、指先に力を入れた。
以前も、彼の沈黙が怖くなかった夜がある。
十二歳の夜会。回廊の陰。指先に当てられたハンカチ。冷たい風と、遠い音楽。
今の沈黙は、あの夜の沈黙に似ていた。
だからこそ、尋ねたくなってしまった。
「殿下」
「何だ」
「私は以前、殿下に冷たくされていたのでしょうか」
言ってしまった。
レオナルトの視線が、本から私に移る。
部屋の空気が、ぴんと張る。
ミラベルが部屋の隅で息を呑んだ気配がした。侍従はすぐに視線を伏せる。
レオナルトだけが、まっすぐにこちらを見ていた。
「誰に聞いた」
「誰かが、はっきりそう言ったわけではありません。ただ、皆さまが以前のことを避けているように見えました」
声は低かった。怒っているのではない。けれど、鋭さがあった。
記憶のない令嬢として、できるだけ自然な言葉を選ぶ。
「それに、殿下は今、とてもよくしてくださいます。けれど周りの方は、それを少し驚いているように見えるのです」
レオナルトは、すぐには答えなかった。その沈黙で、胸が痛む。
否定してほしかったのだろうか。そんなことはない、と。以前から大切にしていた、と。婚約者だったのだから当然だ、と。
けれど、それを言われても嘘だとわかっている。
やがて、レオナルトが言った。
「そう見えていた。以前の俺は、お前に冷たかったように見えていたはずだ」
「見えていた、のですか」
「ああ」
「では、私自身はどう感じていたのでしょう」
膝の上で本を閉じた。
記憶がないふりをしているから、聞ける質問だった。
記憶がある私なら、絶対に口にできなかった。
レオナルトの喉が、わずかに動く。
「傷ついていた」
短い答えに、胸の奥に重いものが落ちる。
知っている。そんなことは、誰よりも私自身が知っている。
日曜日のガゼボで。冷めた紅茶の前で。薔薇を一人で見た帰り道で。何度も、何度も。
けれど、それをレオナルトの口から聞くと、別の痛みに変わった。
「殿下は、それをご存じだったのですか」
「今は、知っている」
「以前は、ご存じなかったのですか」
レオナルトは答えなかった。
窓の外で、庭の木の葉が風に揺れる。かすかな音が、沈黙の上に積もっていく。
「……知ろうとしなかった」
その声は、静かだった。
「お前が礼儀正しく笑っていたから、大丈夫だと決めつけていた。話しかけられれば返事はした。予定は守った。候補として必要な扱いはしているつもりだった」
必要な扱い。
ミラベルが言った言葉と重なる。
必要なことに細やかな王太子。
では、以前の私は、候補として必要な分だけ扱われていたのだ。
「ですが、私は婚約者だったのですよね」
自分でも、意地の悪い問いだと思うけれど、止められなかった。
「婚約者だったのなら、候補としてではなく、もっと近い相手として扱われるものではないのですか」
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