第七話 こんな会話をしたことがない
翌朝、鳥の声で目を覚ます。
王宮の客室に差し込む朝日は、公爵家の自室で見るものより少し白い。
厚いカーテンの隙間から細く伸びた光が、寝台の端と、昨日母が掛けてくれたショールを照らしている。
身体の痛みは、まだ残っていた。
肩を少し動かすだけで背中が引きつり、左手首は包帯の下でじんじんと熱を持っている。
頭の奥も重い。けれど昨日よりは、部屋の輪郭がはっきり見えた。
「フィオナ様、おはようございます」
「おはよう、ございます」
ミラベルが、水差しを持って近づいてくる。
言い慣れた挨拶なのに、知らない人へ向けるように少し間を置いた。
特に気にした様子もなく、寝台脇の小卓に杯を置く。
「殿下が、朝のお見舞いにいらっしゃいます」
昨日、聞いた通り。
それでも実際に言われると、胸の奥が落ち着かない。
「……朝から、ですか」
「はい。お身体に障らないようでしたら、朝食もこちらでご一緒されるとのことです」
「一緒に……?」
日曜日の昼食でさえ、苦しい時間だったのに。
白身魚の香草焼きも、鴨肉のローストも、味が遠かった。
向かいにいるレオナルトが書類から視線を上げないだけで、食事は所作をなぞる作業になっていた。
それなのに、今日は彼が朝食に来る。
決められた曜日でもない朝に。
「私は、起き上がらなければなりませんか」
尋ねると、ミラベルは首を振った。
「いいえ。殿下から、絶対に無理をさせないようにと仰せつかっております」
絶対に。
その言葉が、妙に重かった。
ほどなくして、扉の外に足音がすると、侍従の声が続き扉が開く。
レオナルトが入ってきた。
昨日よりも身なりは整っている。
濃紺の上着に、銀糸の入ったクラヴァット。
王太子として隙のない姿。
けれど手には書類ではなく、白い花の小さな束があった。
「起きていたのか」
「はい。おはようございます、殿下」
反射的に身を起こそうとした瞬間、背中に痛みが走る。
「っ……!」
「動くな」
レオナルトの声が鋭くなった。
怒られたのかと思い、肩が強張る間もなく、彼はすぐに寝台のそばへ来て背中を支えられる。
枕の位置を確かめるように侍女へ目配せした。
「挨拶のために起き上がる必要はない」
「ですが……」
「必要ない」
短い否定。
日曜日なら、その短さに胸が冷えただろう。
けれど今の言葉は、私を押し退けるためではなく、寝台に留めるためのものだった。
それがわかることが、かえって苦しい。
「……承知しました」
そう答えると、レオナルトは小さな花束を小卓へ置いた。
白い小花だった。香りは淡く、薬草の匂いに混じっても邪魔にならない。
「庭師に選ばせた。強い香りは避けた方がいいと医師が言っていた」
「ありがとうございます」
花を贈られたことなど、今まであっただろうか。
少なくとも、日曜日のガゼボで渡されたことはない。
「私が、この花を好きだったのですか?」
記憶のない令嬢として尋ねる。
レオナルトは一瞬だけ花へ視線を落とした。
「……わからない。ただ、白と青のものを好んでいた」
正直な答えに、喉の奥が詰まった。
知っていたのか……
ドレスの色も、刺繍の色も、紅茶の好みさえ見ていないと思っていたのに。
花を見つめるふりをして視線を逸らした。
「そう、なのですね」
朝食は、寝台脇に小さな卓を寄せて出された。
柔らかく煮た麦粥、蜂蜜を落とした温かい牛乳、薄く切った林檎の蜜煮。
怪我人用なのだろう。香りは穏やかで、湯気が白く立っている。
レオナルトは向かいの椅子に座ったが、自分の皿にはほとんど手をつけなかった。
「殿下は、召し上がらないのですか」
「食べている」
そう言いながら、彼はパンを小さく千切っただけ。
私が匙を持とうとすると、左手首が痛んで少し顔をしかめる。
「右手で持て」
「はい」
言われるまでもなく、そのつもりだった。
けれど、今の私は何も知らない令嬢。
素直に従う方が自然なのかもしれない。
麦粥を口に運ぶと、塩気はごく薄く、胃に優しい温かさだった。
喉を通るたび、身体の内側に少しずつ熱が戻る。
「熱すぎないか」
「大丈夫です」
「無理に全部食べる必要はない」
「はい」
こんな会話をしたことがない。
食事中に、レオナルトが私の匙の進みを見ている。
皿に残した量を気にしている。湯気の熱さまで尋ねてくる。
嬉しいと思いそうになるたび、胸の奥で警鐘が鳴った。
これは本当の婚約者への優しさではない。
記憶を失ったと思われている私への、保護と責任だ。
そうでなければ、昨日までの五年間は何だったのかわからなくなる。
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