第六話 怖いのか、嬉しいのか
何より。
胸の奥が、また小さく揺れる。
そんなはずはない。昨日まで、あの人は一度もそんなふうには見えなかった。
けれど、記憶を失ったふりをしている私には、それを否定する理由がない。
「そう、なのですね」
声が、少しだけ頼りなく出た。
ミラベルは水差しから水を注ぎ、私の唇へ杯を近づけてくれた。
冷たい水が喉を通る。薬湯の苦味が残っていた舌に、ようやく味が戻った。
「公爵家から、お着替えや日用品が届いております」
ミラベルが言った。
「奥様が、フィオナ様のお好きなものをいくつか選んでくださったそうです」
「……母が」
「はい。こちらのショールも」
侍女が取り出したのは、薄い白のショールだった。
縁に淡い青の刺繍が入っている。夜、読書をするときによく肩に掛けていたものだ。肌触りが柔らかく、軽いのに暖かい。
思わず右手を伸ばしかけ、途中で止める。
知らないはずだ。
このショールの肌触りも、いつも机の椅子に掛けていたことも。
「お使いになりますか」
ミラベルが尋ねる。
「……はい。お願い、します」
記憶がなくても、寒いから使う。それならおかしくない。
そう自分に言い聞かせる。
ショールが肩に掛けられると、慣れた柔らかさが肌に触れた。
胸の奥が苦しくなる。自分の部屋ではないのに、自分のものだけがここに運ばれてきている。
公爵家が、私を王宮に置くことを認めた証のようだった。
しばらくして、母が来た。
母は部屋に入ってきてすぐ、一度深く息を吸い、それから静かに歩み寄ってきた。
いつも穏やかな笑みを浮かべる人だが、今日は目元に疲れが見える。
薄桃色のドレスの袖口を、指先で強く押さえていた。
「フィオナ」
母の声が震えていた。
その震えだけで、喉が詰まるのがわかる。
知っている。
母の香水の匂いも、髪飾りの選び方も、心配なときに袖口を押さえる癖も。
けれど、母を母として見てはいけない。
「……お母様、なのですね?」
言うと、母の目に涙が浮かんだ。
「ええ。あなたの母よ」
母は寝台のそばへ来て、私の頬に触れようとして、怪我に障ると思ったのか手を止めた。
その仕草がレオナルトと少し似ていて、胸が痛む。
「痛かったでしょう。怖かったでしょうね」
優しい声。
いつも衣装合わせで、少しの窮屈さくらい我慢なさいと言った人と同じ声だとは思えないほど。
その声に、どう返せばよいかわからなくなる。
「今は、大丈夫です」
結局、また同じ言葉を選んでしまう。
母は小さく首を振った。
「大丈夫でなくてもよいの。今は、何も無理をしなくてよいのよ」
そんな言葉を、もっと早く聞きたかった。
胸の奥が熱くなるのを隠すように、視線を逸らす。
泣いてしまえば、嘘まで崩れてしまいそうで。
「お父様から聞きました。殿下が、あなたを婚約者として守ってくださると」
母は、声を整えるように一度息を吸うと、指先が寝具の上で止まる。
「母上も……そう、思っていらっしゃるのですか」
記憶のない娘が尋ねるなら、自然な問いに違いない。
けれど私の内側では、別の意味を持っていた。
母も、訂正しないのですか。
私は候補だったはずなのに、と。
母は少しだけ困ったように微笑んだ。
「あなたは、ずっと殿下のお隣に立つために努力してきた子ですもの」
「ですが、私は……」
「今は、細かなことを考えなくてよいの」
細かなこと。
婚約者か、候補か。
私にとっては……いいえ、私だけじゃない。
候補とされていた令嬢にとっては、人生すらすべてを分けるほどの違いなのに、母はそれを細かなこととして包んだ。
「殿下は、あなたを選んでくださったのよ」
その言葉は、祝福の形をしていた。
私は、息を吸うのを忘れた。
選んだ。
選ばれた?本当に……?
それは、五年間ずっと欲しかった言葉だったはず。
日曜日のガゼボで、どれほど望んだかわからない。
あの人が自分を選んでくれたのだと、誰かに言ってほしかった。
けれど今、それは嘘の上に置かれている。
階段から落ち、記憶喪失のふりをしたあとに与えられた、奇妙な祝福だった。
「……そう、なのですね」
もう、それしか言えなくなってしまう。
母は、私の右手にそっと触れた。
怪我をしていない方の手に、温かい指先が寝具の上で包むように重なる。
「あなたは幸せになってよいのよ、フィオナ」
幸せ。
その言葉が、胸の中で形を失う。
自分は今、幸せに近づいているのだろうか。
それとも、もっと大きな嘘の中へ沈んでいるのだろうか。
母が帰る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
侍女たちが燭台に火を入れ、客室の壁に柔らかな影が揺れる。
母は何度も振り返りながら、最後に「また明日来るわね」と言って出ていった。
一人になって部屋で、肩に掛けられたショールに触れ、見下ろした。
公爵家から届いた自分のもの。王宮で療養するために並べられた衣装や日用品。
そして、母の祝福。父の沈黙。レオナルトの嘘。
少しずつ、外堀が埋まっていくような感覚に、ようやくそれを理解した。
「フィオナ様」
ミラベルが、控えめに声をかける。
「殿下が、明日の朝もお見舞いにいらっしゃるそうです」
明日の朝は、日曜日ではない。
王宮の茶の時間でもない。
候補として定められた予定でもない。
それなのに、彼は来る。
ショールの端をそっと握った。
柔らかな布の感触が、指先に馴染む。
「……わかりました」
そう答えながら、胸の奥で小さな不安が膨らんでいく。
日曜日だけだったはずの王太子が、明日も私の前に現れる。
そのことが、怖いのか、嬉しいのか。
もう、自分でもわからなかった。
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