第四話 父は婚約を訂正しない
扉の向こうに、父がいる。
その事実だけで、喉がまた乾くのがわかる。
ベルクハイム公爵は、娘に甘い父ではない。少なくとも、私はそう感じてきた。
褒めるときも、叱るときも、父はいつもベルクハイム公爵家の当主として言葉を選ぶ。
王太子妃候補としてふさわしいか。
家の名に傷をつけないか。
それが、いつでも父の判断の軸だった。
だからこそ、怖かった。
父なら、私の嘘を見抜くかもしれない。
「入れ」
レオナルトが短く言った。
侍従が扉を開ける。
父は、一礼して室内に入ってきた。
いつもの濃い灰色の上着に、銀の留め具。髪は乱れていない。けれど歩みは、普段よりわずかに速かった。
扉から寝台までの数歩の間に、彼の視線が私の顔、包帯の巻かれた手首、宮廷医、レオナルトの順に動く。
「殿下。娘のためにご配慮を賜り、感謝申し上げます」
「礼は不要だ」
父は深く頭を下げると、レオナルトは寝台のそばに立ったまま答える。
「フィオナは俺の婚約者だ。保護するのは当然のことだ」
婚約者。
二度目に聞いても、胸が跳ねた。
父の顔を見ると、まぶたがほんのわずかに動く。
驚いたのか、怒ったのか、それとも別の計算をしたのか。表情だけではわからない。
だが、その沈黙は確かにあった。
訂正して。
声に出せない言葉が、胸の奥で膨らむ。
父なら知っている。私は正式な婚約者ではない。
日曜日を与えられた候補でしかない。
だから、ここで父が訂正すれば、レオナルトの嘘は終わる。
そして私の嘘も、終わるかもしれない……けれど父は頭を下げたまま言った。
「殿下のお心遣い、痛み入ります」
訂正しなかった。
胸の奥が、すっと冷えた。
父は、今の言葉を聞かなかったふりをしたのではない。はっきり聞いた上で、受け入れたのだ。
寝具を掴もうとして、手首の痛みに指を止めた。
自分の嘘だけではない。
レオナルトの嘘だけでもない。
父まで、この場でそれを正さなかった。
部屋の中で、候補だったはずが、少しずつ婚約者にされていく。
「フィオナ」
父が寝台のそばへ近づいた。
いつもの低い声だ。
幼い頃から、その声で姿勢を正しなさい、言葉を選びなさい、隙を見せるなと言われてきた。
私は、父のことを初めて見た、まるで何も知らない令嬢のように視線を上げる。
「……あなたは」
喉が痛い。
それでも言わなければならない。
「どなた、でしょうか」
父の指が、わずかに止まった。
それは本当に一瞬だった。すぐに手袋の指先を握り込み、表情を整える。
「アルベルト・ベルクハイム。お前の父だ」
「父……」
知っている。
父の声も、立ち姿も、食卓でナイフを置く癖も、執務室に積まれた書類の匂いも。何一つ忘れていない。
けれど、ここで頷けば終わりだ。
少しだけ迷うふりをして視線を伏せた。
「申し訳、ございません。……覚えて、おりません」
言葉が落ちる。
部屋の空気が、さらに重くなる。
父は、すぐには何も言わなかった。
沈黙が長い……父に見つめられているだけで、喉の奥が縮んでいく。
「名は」
やがて父が尋ねた。
「自分の名は言えるか」
「フィオナ、です」
「家名は」
宮廷医と同じ質問だ。
けれど父の声で問われると、胸の奥まで探られているようだった。
「……わかりません」
父の目が、細くなる。
見抜かれたかもしれない……寝台の上で息を浅くした。
「では、私の妻の名は」
「……わかりません」
「王太子妃教育を受けていたことは」
その問いに、一瞬だけ遅れた。
記憶を失ったふりをしているのなら、答えは同じでなければならない。
「……覚えておりません」
父は、まだ私を見ていた。
その視線が、彼女の顔から右手へ移る。
怪我をしていない右手は、寝具の上で指先を丸めていた。
緊張したとき、親指で薬指の付け根を押してしまう……幼い頃からの癖だ。
気づかれた……?
そう悟った瞬間、背中に冷たい汗が滲む。
慌てて指を緩めた。けれど、遅かったかもしれない。
「公爵。今は長い問答を避けたい。医師からも、強い刺激は控えるべきだと言われている」
声が、静かに割って入った。
父の視線がレオナルトへ移る。
「失礼いたしました。娘の状態を確かめたかったもので」
「その気持ちはわかる」
レオナルトは、寝台の横に……まるで私を守るように立つ。
今まで、彼がこんなふうに自分の前に立ったことなどなかった。
「だが、無理をさせる必要はない」
「承知いたしました」
父はレオナルトの言葉に従い、頭を下げる。
胸の奥に奇妙な息苦しさを覚えた。
問いから逃れられた安堵と、見抜かれたかもしれないという恐怖。
そして、レオナルトに庇われた戸惑いが、同じ場所でぶつかっている。
「フィオナ」
父にもう一度名前を呼ばれる。
その声は、先ほどより少しだけ低い。
「今は、殿下のお側で療養しなさい。王宮であれば、医師も警備も整っている」
「ですが、公爵家へは」
「戻る必要はない」
「……え?」
その言葉に、思わず父を見た。
「少なくとも、学園で何があったのか明らかになるまではな」
その目は、わずかに冷えていた。
私に向けられた冷たさではなく、もっと外側の、見えない誰かへ向けられたもののように見えた。
「学園で、何が……」
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




