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【完結】日曜日だけの婚約者候補でしたが、王太子殿下が私を婚約者だと言い張りはじめました  作者: 木風


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第三話 目覚めたら、婚約者に

 最初に戻ってきたのは、痛みだった。

 頭の奥で鈍い鐘が鳴っている。肩から腕へ熱が走り、喉は乾いていた。


 目を開ける前から、私は自分がどこにいるのかわかった。

 薬草と酒精の匂い。柔らかな寝具。宮廷医と女官の押し殺した声。


 記憶は、すべて残っている。

 階段も、セシリアも、藤色の扇も。

 そして、五年間の冷たい日曜日も。


 このまま目覚めれば、また元の場所へ戻される。

 最有力候補として笑い、何もなかった顔で次の日曜日を迎える。


 胸元へ触れると、古い手巾が残っていた。


 逃げてはいけない。

 公爵令嬢として、正直に話さなければならない。

 わかっているのに、胸の奥から別の言葉が浮かぶ。


 もし、覚えていないことにしたら。

 日曜日へ行かなくて済むかもしれない。

 候補令嬢として笑わなくて済むかもしれない。


 そんな弱い心からだろうか……私は目を閉じたまま、初めて自分で逃げ道を選んだ。

 記憶を失ったことにしよう。


 目を開けると、白と金を基調にした天井が見えた。


 ベルクハイム公爵家の寝室ではない。

 窓には淡青のカーテン。寝台脇には銀の水差し。薬草と消毒用の酒精が混ざった匂い。


 これは……王宮の客室?


「フィオナ様、聞こえますか」


 女官が椅子から立ち上がる。その後ろには、銀縁の眼鏡をかけた宮廷医がいた。


「無理に起き上がらないでください。頭部の打撲と左手首の捻挫、肩と背中に打ち身がございます」

「……ここは」

「王宮でございます。学園で階段から落ちたと連絡が入り、王太子殿下のご指示で運ばれました」


 殿下のご指示。

 胸が揺れたが、わざと痛みに戸惑う顔を作った。


「いくつか確認いたします。お名前を言えますか」

「フィオナ」

「家名は?」


 ベルクハイム。

 答えはわかっている。

 父の名も、母の顔も、候補令嬢として学んだ礼法も、昨日のセシリアの表情も、全部覚えている。


「……わかりません」


 部屋の空気が変わった。

 女官が息を呑む。


 やはりやめるべきだろうか……今ならまだ、混乱していただけだと訂正できる。

 けれど言葉は出なかった。


「ここがどこかは?」

「わかりません」

「学園で何があったかは?」


 藤色の扇。菫の香り。袖を掴んだ指。


「覚えて、いません」


 二度目、三度目の嘘は、一度目よりも滑らかに出た。


 怖かった。

 同時に、身体の周りへ初めて空間ができた気がした。

 宮廷医が女官へ目配せする。


「ベルクハイム公爵へお知らせを。王太子殿下にも、意識が戻られたと」


 扉の外で、慌ただしい足音が響く。

 低い声。侍従の制止。短く交わされる言葉。


 次の瞬間、扉が開いた。

 レオナルトが立っていた。

 いつものように隙のない姿ではない。上着はきちんと留められているが、クラヴァットの結び目が歪み、濃い髪もわずかに乱れている。


 灰色の瞳が、寝台の上の私をまっすぐ捉えた。

 こんなふうに見られたことが、今まであっただろうか。


「フィオナ」


 その声には、冷たい日曜日になかった熱が混じっていた。


 今さら、そんな顔をしないでほしい。

 そんな声で呼ばれたら、また期待してしまう。

 痛む身体を強張らせ、知らない人を見る顔を作った。


「……どなたでしょうか」


 部屋の中から、音が消えた。

 レオナルトの灰色の瞳が揺れる。

 彼は一度だけ目を伏せ、ゆっくり寝台へ近づいた。


「レオナルト・クラウディア。この国の王太子だ」

「王太子、殿下……」

「ああ」


 ここまでは真実だ。

 彼は包帯の巻かれた私の手へ触れようとして、途中で止めた。

 それから、宮廷医も女官も驚く言葉を口にした。


「そして、お前の婚約者だ」


 ……婚約者?


 違う。私は候補だった。

 正式な婚約書も、発表も、指輪もない。

 けれど訂正できるのは、記憶のある者だけ。


「私の……婚約者?」

「ああ」


 レオナルトは迷わずに答える。

 なぜ、そんな噓をつくのか。そう問い詰めたいのに、その言葉は出せない、


「私は、殿下とどのような約束をしていたのでしょう」


 問いかけると、彼の目元がわずかに動いた。


「お前は幼い頃から、婚約者候補の時から、王太子妃になるために学んでいた。よく努めていた」


 それは真実だ。

 肝心の婚約だけが嘘だった。


「私たちは……仲がよかったのでしょうか」


 演技のためだけではない。

 本当は、ずっと聞きたかった。

 レオナルトはすぐには答えなかった。


「……俺が、うまくできていなかった」

「では、仲睦まじい婚約者ではなかったのですね」


 自分の傷を、自分でなぞる。

 レオナルトは寝台のそばで膝をついた。


「これから、そうなる。怖がらせたことは謝る。だが、お前を一人にはしない」


 灰色の瞳が私だけを見ている。


 なぜ今なのだろう。

 どうして記憶を失ったふりをした途端に、欲しかった言葉をくれるのか……


「王宮で療養してほしい。階段で何があったのか確かめるまで、ここが一番安全だ」

「それも、もうお決めになったのですか」


 レオナルトの動きが止まった。

 記憶を失った令嬢の素朴な質問。

 けれど、彼の欠点を正確に突いていた。


「……お前を守るために必要だ」


 筋は通っている。

 だが、私に尋ねる前に決めたことに変わりはない。

 彼の嘘を暴けば、自分の嘘も終わる。

 今はまだ、元の日曜日へ戻る勇気がなかった。


「わかりました」


 そう答えると、レオナルトは明らかに安堵した。

 記憶を失ったふりをした令嬢と、婚約者だと言い張る王太子。


 先に嘘をついたのは私だ。

 けれどレオナルトは、その嘘へ迷わず自分の嘘を重ねた。

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よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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