第二話 十二歳の手巾と藤色の扇
引き出しの奥には、古い白い手巾がしまわれている。
端に刺繍されたのは、小さなタイムの葉。
何度も触れた布は柔らかくなり、折り目も薄れていた。
五年前、私が初めて王宮の夜会へ招かれた日から、ずっと手元にあるもの。
十二歳の私には、夜会のすべてが重かった。
数えきれない燭台の光。楽士の演奏。甘い香水と温めた葡萄酒の匂い。
足は靴擦れで立っているのがやっと、着慣れない水色のドレスは肩へ食い込み、首元の飾り紐が息をするたび肌を擦った。
「背筋を伸ばして。ベルクハイムの娘らしく」
母に言われ、名を呼ばれるたびに膝を折った。
よくできた令嬢ですね。将来が楽しみですわ。王宮にもすぐ慣れますよ。
褒め言葉は綺麗だったが、幼い私の胸には一つも入ってこなかった。
父と母が貴族たちの輪へ入ったあと、大広間の端で一人になった。
同じ年頃の令嬢たちへ近づく勇気もなく、手の中の扇を握る。
誰かの肘がぶつかり、扇を落とした。
拾おうと身を屈めた拍子に、花器の縁で指先を掠める。
細い赤い線が浮かんだ。
誰かに訴えるほどの傷ではない。騒げば、初めての夜会で失敗した令嬢になってしまう。
指を握り込み、熱気から逃げるように庭園へ続く回廊へ出た。
噴水の水面には月が揺れている。
冷たい風が首筋を撫で、肩を縮めたときだった。
「そこは風が冷たいだろう。こちらへ」
振り返ると、濃紺の礼装をまとった少年が立っていた。
十四歳のレオナルト王太子。
「ベルクハイム公爵家の令嬢だろう。先ほど紹介されていた」
「覚えていてくださったのですか」
「名前くらいは」
ぶっきらぼうな答えだったが、彼の目は私を追い払おうとしていない。
「手を怪我したのか」
「大したことではございません」
「大した傷でなくても、痛いものは痛いだろう。見せて」
レオナルトは胸元から白い手巾を取り出し、怪我をした指へそっと当てた。
「痛むか」
「少しだけ」
「なら、少しだけ押さえていればいい」
大丈夫だとも、泣くなとも言わない。
ただ風の当たらない回廊の陰へ移し、隣に立ってくれた。
「夜会は苦手か」
「まだ、慣れておりません」
「そうか。私も、あまり好きではない」
驚いて顔を上げると、彼は少しだけ眉を寄せた。
「誰にも言うな」
「はい」
レオナルトの目元が、ほんのわずかに緩んだ。
その静かな笑顔を、私は五年たっても忘れられない。
侍従に呼ばれ、彼は大広間へ戻るために背を向ける。
「手巾をお返しします」
「傷が開く。いつでも構わない」
けれど、その夜に返す機会はなかった。
次に王宮へ上がったときには彼の周囲へ常に人がいて、手巾はいつしか引き出しの奥へしまわれた。
それから五年。
冷たい日曜日の前夜になるたび、気が付けばこの布を取り出すようになった。
あの優しさは本物だった思う。
いつか、あの日のレオナルトが戻ってくるかもしれない。
そう信じなければ、一日中何も言わずに座り続けることなどできなかった。
けれど今夜、手巾を畳み直したとき、布の端が薄く擦れていることに気づいた。
過去の数分だけが、何度も触れられて古びていく。
今のレオナルトとの間には、新しい記憶が一つも増えていない。
「……あと、どれくらい待てばよいのでしょう」
答えはないまま、時間だけを重ねていく。
翌日の放課後、校舎の階段でセシリアに呼び止められた。
「昨日も殿下とのお時間を延ばしたそうですわね」
「昼食が遅れただけです」
藤色の扇が、ぱちりと閉じる。
甘い菫の香りが、石造りの踊り場へ広がっていく。
放課後の校舎は静かだった。
前夜の雨が残した湿気で、石壁は冷えている。
遠くの教室から椅子を引く音が聞こえたが、階段の踊り場にはフィオナとセシリアしかいない。
「私どもは、一時間を得るために家同士で交渉しておりますの」
セシリアは藤色の扇を指先へ打ちつけた。
「それなのに、フィオナ様は日曜日を一日与えられた上、時間まで延ばす」
「……私が決めたことではありません」
「日曜日を持つ方は、余裕がおありですこと」
「持っているのではありません。置かれているのです」
いつもなら飲み込む言葉が、口から出た。
セシリアの目が鋭くなる。
「置かれているだけなら、譲ればよいでしょう?」
「私一人の意思で譲れる制度ではありません」
「では、殿下へお願いなされば? あなたの言葉なら、何でも聞いてくださるのでしょう」
その言葉を聞いて、笑いそうになった。
聞いてくれるなら、五年間も苦しんでいない。
「殿下は、私の望みをお尋ねになったことなどありません」
セシリアが一瞬、言葉を失う。
「っそれでも、あなたは日曜日に座り続けているではありませんか!」
「ラングドン様へ、私の事情を理解していただこうとは思いません。ですが、私を責めても制度は変わりません」
「待ちなさいっ!」
階段を下りようとすると、袖を掴まれる。
強く引かれたわけではない。
けれど振り向いた拍子に、靴の踵が段の縁へ滑った。
身体が傾く。
セシリアの指が離れ、藤色の扇が床へ落ちた。
「フィオナ様――」
伸びた手は届かなかった。
白い手袋が手すりをかすめる。肩が段へ当たり、背中、腰、腕へ硬い衝撃が続いた。
最後に後頭部が石段へぶつかる。
誰かの悲鳴。
駆け寄る足音。
甘い菫の香り。
薄れていく視界の中で、階段の上を見た。
セシリアは青ざめた顔で立ち尽くしていた。
その横へ、彼女付きの侍女が駆け寄る。侍女は床へ落ちた藤色の扇を拾い、周囲を見回した。
「動かさないで!」
「先生を呼んで!」
声が重なった。
頬に床の冷たさが触れている。
痛みに気づいてくれる人はいるだろうか。
十二歳の夜、指先の小さな傷を見つけた少年の声が、遠くから聞こえた気がした。
そこは風が冷たいだろう。こちらへ。
けれど今、誰の手も届かない。
私の視界は、そこで暗く途切れた。
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