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日曜日だけの婚約者候補でしたが、王太子殿下が私を婚約者だと言い張りはじめました  作者: 木風


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2/14

第二話 十二歳の手巾と藤色の扇

 引き出しの奥には、古い白い手巾がしまわれている。

 端に刺繍されたのは、小さなタイムの葉。

 何度も触れた布は柔らかくなり、折り目も薄れていた。


 五年前、私が初めて王宮の夜会へ招かれた日から、ずっと手元にあるもの。


 十二歳の私には、夜会のすべてが重かった。

 数えきれない燭台の光。楽士の演奏。甘い香水と温めた葡萄酒の匂い。

 足は靴擦れで立っているのがやっと、着慣れない水色のドレスは肩へ食い込み、首元の飾り紐が息をするたび肌を擦った。


「背筋を伸ばして。ベルクハイムの娘らしく」


 母に言われ、名を呼ばれるたびに膝を折った。

 よくできた令嬢ですね。将来が楽しみですわ。王宮にもすぐ慣れますよ。


 褒め言葉は綺麗だったが、幼い私の胸には一つも入ってこなかった。


 父と母が貴族たちの輪へ入ったあと、大広間の端で一人になった。

 同じ年頃の令嬢たちへ近づく勇気もなく、手の中の扇を握る。


 誰かの肘がぶつかり、扇を落とした。

 拾おうと身を屈めた拍子に、花器の縁で指先を掠める。


 細い赤い線が浮かんだ。

 誰かに訴えるほどの傷ではない。騒げば、初めての夜会で失敗した令嬢になってしまう。

 指を握り込み、熱気から逃げるように庭園へ続く回廊へ出た。


 噴水の水面には月が揺れている。

 冷たい風が首筋を撫で、肩を縮めたときだった。


「そこは風が冷たいだろう。こちらへ」


 振り返ると、濃紺の礼装をまとった少年が立っていた。

 十四歳のレオナルト王太子。


「ベルクハイム公爵家の令嬢だろう。先ほど紹介されていた」

「覚えていてくださったのですか」

「名前くらいは」


 ぶっきらぼうな答えだったが、彼の目は私を追い払おうとしていない。


「手を怪我したのか」

「大したことではございません」

「大した傷でなくても、痛いものは痛いだろう。見せて」


 レオナルトは胸元から白い手巾を取り出し、怪我をした指へそっと当てた。


「痛むか」

「少しだけ」

「なら、少しだけ押さえていればいい」


 大丈夫だとも、泣くなとも言わない。

 ただ風の当たらない回廊の陰へ移し、隣に立ってくれた。


「夜会は苦手か」

「まだ、慣れておりません」

「そうか。私も、あまり好きではない」


 驚いて顔を上げると、彼は少しだけ眉を寄せた。


「誰にも言うな」

「はい」


 レオナルトの目元が、ほんのわずかに緩んだ。

 その静かな笑顔を、私は五年たっても忘れられない。

 侍従に呼ばれ、彼は大広間へ戻るために背を向ける。


「手巾をお返しします」

「傷が開く。いつでも構わない」


 けれど、その夜に返す機会はなかった。

 次に王宮へ上がったときには彼の周囲へ常に人がいて、手巾はいつしか引き出しの奥へしまわれた。


 それから五年。

 冷たい日曜日の前夜になるたび、気が付けばこの布を取り出すようになった。


 あの優しさは本物だった思う。

 いつか、あの日のレオナルトが戻ってくるかもしれない。

 そう信じなければ、一日中何も言わずに座り続けることなどできなかった。


 けれど今夜、手巾を畳み直したとき、布の端が薄く擦れていることに気づいた。


 過去の数分だけが、何度も触れられて古びていく。

 今のレオナルトとの間には、新しい記憶が一つも増えていない。


「……あと、どれくらい待てばよいのでしょう」


 答えはないまま、時間だけを重ねていく。

 



 翌日の放課後、校舎の階段でセシリアに呼び止められた。


「昨日も殿下とのお時間を延ばしたそうですわね」

「昼食が遅れただけです」


 藤色の扇が、ぱちりと閉じる。

 甘い菫の香りが、石造りの踊り場へ広がっていく。


 放課後の校舎は静かだった。


 前夜の雨が残した湿気で、石壁は冷えている。

 遠くの教室から椅子を引く音が聞こえたが、階段の踊り場にはフィオナとセシリアしかいない。


「私どもは、一時間を得るために家同士で交渉しておりますの」


 セシリアは藤色の扇を指先へ打ちつけた。


「それなのに、フィオナ様は日曜日を一日与えられた上、時間まで延ばす」

「……私が決めたことではありません」

「日曜日を持つ方は、余裕がおありですこと」

「持っているのではありません。置かれているのです」


 いつもなら飲み込む言葉が、口から出た。

 セシリアの目が鋭くなる。


「置かれているだけなら、譲ればよいでしょう?」

「私一人の意思で譲れる制度ではありません」

「では、殿下へお願いなされば? あなたの言葉なら、何でも聞いてくださるのでしょう」


 その言葉を聞いて、笑いそうになった。

 聞いてくれるなら、五年間も苦しんでいない。


「殿下は、私の望みをお尋ねになったことなどありません」


 セシリアが一瞬、言葉を失う。


「っそれでも、あなたは日曜日に座り続けているではありませんか!」

「ラングドン様へ、私の事情を理解していただこうとは思いません。ですが、私を責めても制度は変わりません」

「待ちなさいっ!」


 階段を下りようとすると、袖を掴まれる。

 強く引かれたわけではない。

 けれど振り向いた拍子に、靴の踵が段の縁へ滑った。


 身体が傾く。

 セシリアの指が離れ、藤色の扇が床へ落ちた。


「フィオナ様――」


 伸びた手は届かなかった。

 白い手袋が手すりをかすめる。肩が段へ当たり、背中、腰、腕へ硬い衝撃が続いた。

 最後に後頭部が石段へぶつかる。


 誰かの悲鳴。

 駆け寄る足音。

 甘い菫の香り。


 薄れていく視界の中で、階段の上を見た。

 セシリアは青ざめた顔で立ち尽くしていた。

 その横へ、彼女付きの侍女が駆け寄る。侍女は床へ落ちた藤色の扇を拾い、周囲を見回した。


「動かさないで!」

「先生を呼んで!」


 声が重なった。

 頬に床の冷たさが触れている。

 痛みに気づいてくれる人はいるだろうか。


 十二歳の夜、指先の小さな傷を見つけた少年の声が、遠くから聞こえた気がした。


 そこは風が冷たいだろう。こちらへ。

 けれど今、誰の手も届かない。

 私の視界は、そこで暗く途切れた。

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よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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