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日曜日だけの婚約者候補でしたが、王太子殿下が私を婚約者だと言い張りはじめました  作者: 木風


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第十五話 菜園の葉が風に揺れていた

「フィオナ様、出汁が馴染んだら、火を弱くして戻しましょう」

「はい」


 ローザの声で、はっと我に返る。

 レオナルトは鍋を支え、夢中で木べらを動かす。

 玉ねぎは少し色づきすぎていたが、人参の橙とじゃがいもの白が湯気の中でやわらかく見える。

 月桂樹の葉が一枚、鍋の端で揺れた。


 火を弱くした竈へ、再び鍋を戻す。

 今度はローザがそばで火加減を見る。レオナルトは袖をまくったまま、私の横に立っていた。


「殿下、もう大丈夫です。お召し物を」

「いや、このままでいい」

「殿下」

「また焦げたら困る」


 思わず彼を見る。


「また焦がす前提なのですか」

「違う。備えだ」


 真顔で返されて、今度はミラベルが肩を震わせた。

 私の唇にも、ほんの少し笑みが浮かぶ。

 自分が笑ったことに気づいて、すぐに口元を押さえようとした。

 けれど右手には木べらがあり、左手は包帯のせいで上げづらい。


 レオナルトが、 隠せなかったその笑みを見ていた。

 灰色の瞳が、かすかに和らぐ。

 日曜日のガゼボでは、一日をかけても見られなかった表情だ。


 胸が痛いほど鳴った。


 鍋の中では、スープが静かに煮えている。

 湯気が頬に当たり、額に汗が滲んだ。厨房は暑い。

 香草の匂い、薪の匂い、パンの焼ける匂い、焦げかけた鍋の名残。

 全部が混ざって、客室の花の香りとはまるで違う。


 けれどこの匂いが嫌ではなかった。


「味を見てみましょう」


 しばらくして、ローザが小さな匙を取った。

 鍋から少しだけすくい、まず自分で口に含み、息を止めた。


「……んっ!」


 ローザは目を細める。


「少し香ばしさはございますが、苦味は強くありません。塩をほんの少し足せば、十分召し上がれます」

「本当ですか」

「ええ。初めてのスープとしては、上出来でございます」


 上出来。その言葉だけで、指先に力が入った。


「殿下も、味をご覧になりますか」


 ローザが尋ねると、レオナルトは迷わず頷いた。


「ああ」

「いけませんっ!」


 声が思ったより大きく出た。

 厨房中の視線が集まる。


「とてもではないですが、成功とは言えません。殿下に召し上がっていただくようなものでは」

「俺が食べたい」

「ですが」

「お前が作った。なら、食べる」


 レオナルトは、ローザから匙を受け取った。

 その言い方は、命令ではなかった。

 ただ、そうするのが当然だと言っているようだった。


 喉が詰まる。


 レオナルトはスープを口に含んだ。

 その一瞬が、やけに長く感じられた。

 香ばしい匂い。鍋の中で揺れる野菜。厨房の熱。包帯の下でじんじんする手首。


「悪くない」


 レオナルトが言った、たったそれだけの感想。

 けれど私の胸には、熱いものが込み上げた。


「本当に?」

「ああ。少し焦げた味はする」


 正直すぎる言葉に、肩を落とした。


「やはり焦げているではありませんか」

「だが、嫌いではない。香ばしい」


 レオナルトはもう一口、匙ですくった。

 ローザがそこで堪えきれず、柔らかく笑った。


「殿下のおっしゃる通りでございます。焦がしたのではなく、香ばしくなったのです」

「ぷっ。ローザまで」


 今度こそ笑ってしまった。

 小さな笑いだった。けれど、厨房の熱い空気の中で、確かに自分の声が弾んだ。


 笑ったあと、胸の奥が少し痛んだ。

 こんなふうに笑う自分を、日曜日の私は知らない。

 あの子は、冷めた紅茶を前に、背筋を伸ばしていた。

 自分だけが、その子を置いて進んでいる気がする。


 けれど、鍋の中のスープは、焦げかけても捨てられなかった。

 出汁を足し、火を弱め、木べらで混ぜて、形を変えた。


 過去の痛みも、こんなふうに扱えたらいいのに。

 なかったことにするのではなく、捨てるのでもなく、苦味が強くなりすぎないように、誰かと一緒に火を弱めるように。


 そんなことを考えながら、慌てて目を伏せた。


「フィオナ様も、お味見を」


 ローザが新しい匙を差し出され、右手で受け取る。

 少し冷ましてから、口に含む。


 鶏の出汁はやわらかく、野菜はまだ少し硬い。

 玉ねぎの端に焦げかけた香ばしさがあり、白胡椒が舌の上に残る。完璧な味ではなかった。

 けれど、温かい。


「おいしい」


 小さく呟いた。

 それは、料理としての評価だけではなかった。

 自分で切って、焦げかけて、慌てて、助けてもらって、やっと口にしたものが温かい。

 そのことが、ただ嬉しかった。


 レオナルトは何も言わなかった。

 けれど横顔を見ると、少しだけ安堵したように見えた。


 スープは小さな器に分けられ、私とレオナルト、そしてローザが味を見ることになった。

 料理人たちは遠慮していたが、レオナルトが一言「作った者だけのものにするな」と言ったため、最後には厨房の端で数人が少しずつ味見をした。


「焦げてないです。香ばしいです」


 若い料理人が真剣な顔で言う。


「無理に褒めなくてもよいのですよ」

「いえ、本当に。じゃがいもが少し硬いですが」

「そこは言わなくても」


 ローザがたしなめると、厨房に小さな笑いが広がった。


 王太子がいて、公爵令嬢がいて、失敗しかけたスープがあって。

 それなのに、そこには冷たい緊張だけではない空気があった。

 私は、器を両手で持つことができず、右手だけでそっと支える。

 温かさが指に伝わる。


「食材は、毎朝こちらで用意するのですか」

「一部は厨房裏の菜園で採れたものを使っております。今日の月桂樹とセロリも、そちらから」

「菜園があるのですか」

「はい。小さなものですが、香草や葉物、季節の野菜を少し」


 菜園。

 その言葉に引き寄せられるように厨房の窓を見た。

 曇った硝子の向こうに、緑が少し見える。

 整った庭園の花壇とは違う、背丈のばらついた葉の色だった。


 土に触れることは、令嬢の手を荒らすと教えられてきた。

 けれど今日、包丁を持った。木べらを握った。焦げかけた鍋を前に慌てた。

 手はまだ白いままだが、自分の中の何かは確かに変わっている。


「見てみたいです」


 気づけば、そう口にしていた。

 レオナルトがこちらを見る。

 医師に止められるだろうか。厨房だけでも十分無茶だったのに、今度は菜園だなんて。


 けれど彼は、まくった袖を下ろさないまま言った。


「今日はここまでだ。明日、医師に確認する」


 また、止めなかった。

 器の温かさを指先に感じながら、小さく頷いた。


「はい」


 厨房の窓の向こうで、菜園の葉が風に揺れていた。

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よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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