第十四話 終わりではないと言われた
皆さま。その言葉が嬉しかった。
公爵令嬢だから特別に下手なのではない。初めてだから、できないだけ。
もう一度人参を切った。今度は少しだけ、形がましになる。
「できました!」
思わず声が弾んだ。
次の瞬間、レオナルトの視線に気づき、頬が熱くなる。
「子供のようですね」
「初めてなら、そうなるだろう」
レオナルトは、からかわなかった。
ただ、切られた人参を見て、ほんのわずかに目元を緩める。
「悪くない」
たったそれだけで、胸が跳ねた。
好きになってはいけない。昨日から何度も繰り返している言葉が、また胸の奥で鳴る。
けれど、今の自分の手で切った人参を見て、悪くないと言われることが、どうしようもなく嬉しい。
次は玉ねぎだった。
皮を剥くと、指先に青い匂いが移る。切り始めると、すぐに目が痛くなった。
「な、涙が」
「玉ねぎでございますから」
ローザが笑いを堪えている。
ミラベルは心配そうに布を差し出し、レオナルトは真剣な顔で玉ねぎを睨んだ。
「下げるか」
「下げません」
私は、涙で滲む視界のまま首を振った。
「これは、玉ねぎのせいです」
「そうか」
レオナルトの返事が、少しだけ柔らかい。
切った野菜は、ローザの指示で小鍋へ入れられた。
鍋底でバターが溶ける。じゅわり、と小さな音がして、玉ねぎの香りが熱で甘く変わっていく。
木べらで混ぜると、手首ではなく腕全体に重さが伝わった。
「焦げつかないように、鍋底をなぞってくださいませ」
「はい」
ゆっくり木べらを動かす。
玉ねぎ、人参、じゃがいも、セロリ。そこへ鶏の出汁が注がれると、湯気が一気に立ち上る。
塩と少しの白胡椒、月桂樹の葉が一枚。熱を含んだ香りが顔に触れ、空腹とは違う満たされ方をした。
自分の手で、何かが変わっていく。
硬かった野菜が熱を含み、香りを出し、ひとつの料理へ近づいていく。
木べらを握る右手に力を入れた。
私は、こういうことがしたかったのかもしれない。
誰かに見られるためではなく。
王太子妃候補として正しくあるためでもなく。
自分の手で何かを作り、失敗しながら覚えていくことを。
「楽しいか」
「はい」
鍋を見たまま頷く。
自分でもわかるほど素直な声が出た。
日曜日の私は、こんな声で返事をしたことがあっただろうか。
いつも言葉を選び、微笑み、傷つかないように息を潜めていた。
今の私だけが、こんなふうに楽しんでいる。
それは裏切りなのだろうか。
過去の自分への。
「フィオナ」
名を呼ばれ、顔を上げる。
レオナルトは、鍋ではなくフィオナを見ていた。
「今、楽しいなら、それでいい」
なぜ、欲しい言葉ばかりくれるのだろう。
返事をしようとして、言葉を詰まらせる。
そのとき、鍋の底から、かすかに違う匂いがした。
甘い玉ねぎの香りではない。鶏の出汁の匂いでもない。
少し苦い、焦げた匂い。
「あ」
ローザが小さく声を上げた。
「フィオナ様、火が少し強うございます」
「え……?あっ!」
慌てて木べらを動かす。
けれど、鍋底に何かが引っかかる感触がある。焦げつきかけているのだ。
「ど、どうしましょう」
公爵令嬢らしからぬ声が出た。
レオナルトが一歩近づく。
「貸せ」
「ですが、殿下」
厨房中の視線が集まる中、レオナルトは迷わず上着の釦に手をかけた。
「火を止める方が先だ」
そう言って、彼は上着を脱ぎ、袖口をまくり始めた。
厨房中が、息を呑んだ。
王太子が厨房で上着を脱ぐ。しかも、鍋の前で袖をまくる。
そんな光景を、誰が想像しただろう。
それは、私も例外ではなかった。
木べらを握ったまま、目の前の鍋よりもレオナルトの手元を見てしまう。
「殿下、お召し物が」
「服より鍋だ」
「しかし」
「ローザ、指示を」
レオナルトの声は落ち着いていた。
料理を知っている人の声ではない。けれど、何を優先すべきかを一瞬で決める人の声。
ローザはすぐに表情を切り替える。
「では、まず火から外します。殿下、鍋掴みをお使いくださいませ。フィオナ様は木べらをそのまま。底を強くこすらず、ゆっくり動かしてください」
「は、はい」
慌てて木べらを動かす。
鍋底に、ざらりとした引っかかりがある。焦げつきかけた野菜が、木べらの先で小さく抵抗した。
焦げた匂いはまだ薄い。けれど、先ほどまでの甘い玉ねぎと鶏出汁の香りに、確かに苦味が混ざっている。
レオナルトは鍋掴みを受け取り、小鍋の取っ手を掴んだ。
火から外す動きは慎重だった。王太子の指が、厨房の道具に触れている。
銀のペンや剣の柄ではなく、布の厚い鍋掴みを持っている。
それだけで、私の胸は妙な音を立てた。
「こちらへ」
ローザが作業台の端を示す。
レオナルトは鍋を移し、私の前に置いた。
「出汁を少し足します。焦げついたところは、無理にこそげ取らないでくださいませ。苦味が移ります」
ローザが鶏の出汁を注ぐと、じゅわ、と音を立てて湯気が上がった。
焦げの匂いが一瞬強くなり、それから温かな出汁の香りに包まれる。
「私のせいで……」
「焦げていない。焦げかけただけだ」
「それは、焦げたのとあまり変わらないのでは」
「違う」
あまりにも真面目な声だったので、ローザが横で小さく咳払いをした。
笑いを堪えたのかもしれない。
頬が熱くなる。
「失敗、ですよね」
「途中だ」
「途中」
「ああ。失敗と決めるには早い」
その言葉は、鍋の話のはずだった。
けれど胸には、別の場所まで届いた。
今まで、失敗する前に避けてきた。
失礼にならない話題を選ぶ。食べすぎない。笑いすぎない。
歩く速さも、手の置き場も、視線の高さも、間違えないように生きてきた。
王太子妃候補として、失敗しないことばかり求められてきた。
けれど今、鍋は焦げかけている。
厨房には人がいて、王太子もいて、料理長も見ている。
恥ずかしい。
苦い匂いがする。
それでも、終わりではないと言われた。
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