第十三話 公爵令嬢、厨房に立つ
翌朝、宮廷医は眉間に深い皺を寄せた。
「厨房、でございますか」
その声には、患者の無茶を聞いた医師の困惑と、王太子の婚約者に対する遠慮が半分ずつ混じっていた。
寝台の上で、膝に掛けられたショールの端を指で押さえる。
左手首の包帯はまだ外れない。肩と背中の痛みも残っている。けれど熱は下がり、頭痛も昨日より軽い。
長い時間でなければ、部屋の外へ出ても構わないと先ほど言われたばかりだった。
「見るだけでも構いません。少しだけ、厨房を見てみたいのです」
私は、できるだけ穏やかに言った。
「しかし、厨房は熱も匂いも強うございます。床も濡れていることがございますし、刃物も火もあります」
宮廷医の言葉は正しい。
正しいからこそ、止められると思っていた。
けれど、窓辺に立っていたレオナルトが口を開いた。
「時間を区切る。火に近づくときは俺がつく。刃物は料理長の判断に任せる。それでも駄目か」
宮廷医は、眼鏡の奥で目を瞬かせた。
王太子が厨房行きの条件を細かく出すなど、想定していなかったのだろう。
「……短時間であれば」
「では、そうする」
決まってしまった。
思わずレオナルトを見ると、彼は昨日と同じように、当然の顔をしていた。
「よろしいのですか」
「お前が行きたいと言った」
「ですが、本当に厨房など」
「行く」
短い返事。その短さに、胸が小さく温まる。
以前なら、令嬢らしくないと誰かに止められたはずだ。
父も母も、家庭教師の夫人も、厨房は使用人の領域だと言っただろう。
王太子妃候補の白い手は、鍋ではなく扇を持つものだと。
けれど今、レオナルトは止めない。
それが嬉しくて、同時に怖かった。
しばらくして、ミラベルが動きやすい衣服を用意してくれた。
淡い生成りのワンピースに、袖口を紐で結べる上着。華やかな刺繍も、長すぎる裾もない。
髪は低い位置でまとめられ、いつもの宝石の髪飾りではなく、白い布紐で結ばれた。
鏡の中の自分は、王太子妃候補には見えないし、公爵令嬢にもあまり見えない。
それなのに、胸の奥が少しだけ軽い。
「おかしく、ありませんか」
私が尋ねると、ミラベルは首を振った。
「とてもお可愛らしゅうございます」
「可愛い、ですか」
「はい」
王太子妃候補にふさわしい、ではなかった。
ただ、可愛い。その言葉にどう返せばよいかわからず、右手で袖口を押さえる。
廊下へ出ると、レオナルトが待っていた。
彼は私の服装を見ると、一瞬だけ目を留める。
「歩けるか」
「はい」
一歩踏み出すと、背中に鈍い痛みが走った。
顔には出さないつもりだったのに、レオナルトはすぐに気づいた。
「腕を使え」
そう言って、彼は右腕を差し出した。
以前の自分なら、王太子の腕に手を添えることなど、儀礼の場でしか許されなかった。
日曜日の庭園で歩くときも、彼は隣に並んだことすらほとんどない。
「嫌なら、侍女を呼ぶ」
「いえ、お願いします」
私は、右手を彼の腕に添えた。
厚い上着越しでも、体温が伝わる。指先が震えそうになり、慌てて力を抜いた。
レオナルトは何も言わず、歩幅を落とした。
王宮の廊下は長い。
普段なら気にも留めない絨毯の柔らかさや、石壁から返るひんやりした空気が、今日はやけに濃く感じられた。
使用人たちは二人を見るたびに壁際へ下がり、深く頭を下げる。
王太子に支えられて厨房へ向かう公爵令嬢。
どう見ても奇妙な光景だ。
けれどレオナルトは、誰の視線も気にしなかった。
厨房棟に近づくと、空気が変わった。
廊下の奥から、焼けた小麦と肉の脂の匂いが流れてくる。鍋の蓋が鳴る音。誰かが水を流す音。薪が爆ぜる小さな音。王宮の客室とは違う、生きている場所の音だった。
胸が少し早く鳴る。
「無理なら戻る」
「戻りません」
答えはすぐに出た。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
厨房の扉が開くと、中にいた者たちが一斉に動きを止めた。
広い厨房だった。
壁際には銅の鍋がいくつも掛けられ、磨かれた作業台の上には玉ねぎ、じゃがいも、人参、セロリ、香草の束が並んでいる。
大きな竈からは熱が押し寄せ、頬に温かさが触れた。
煮込んだ鶏肉の匂いと、焼き上がったパンの香りが混ざって、喉の奥がくすぐられる。
「で、殿下」
白い前掛けをした年配の女性が、慌てて頭を下げる。
「料理長のローザでございます」
「フィオナが厨房を見たいと言った。邪魔にならない範囲で頼む」
「かしこまりました。ですが、その……」
ローザは、私を見ると、次にレオナルトを見た。
言いたいことはわかる。
王太子の婚約者を厨房に立たせるなど、料理長にとっても危険すぎる。
「無茶はさせない。だが、見るだけで終わらせる必要もない。できることがあるなら、させてやってくれ」
させてやってくれ。
その言葉が、私の胸に落ちた。
許可ではない。命令でもない。
私のしたいことを、誰かに渡してくれる言葉。
ローザは少しだけ目を丸くしたが、すぐに頷いた。
「では、簡単なスープなどいかがでしょう。鶏の出汁に、野菜を小さく切って煮るだけです。お身体にも優しゅうございます」
「私が、作れるのですか」
「全部は難しゅうございますが、少しずつなら」
ローザの声は、最初より柔らかかった。
作業台へ近づく。
玉ねぎの皮は薄く乾いていて、指先で触れるとかさりと音を立てる。
じゃがいもは土を落としたばかりなのか、皮にわずかなざらつきが残っていた。
人参は鮮やかな橙色で、切り口から青臭い甘さが立つ。
こんなふうに食材へ触れたことが、今まであっただろうか。
公爵家の食卓に並ぶ料理は美しかった。王宮の皿も完璧だった。
けれど、その前の姿を、私はほとんど知らない。
「まずは、人参を切ってみますか」
ローザが、小ぶりの包丁を選んでくれる。
レオナルトの気配が、すぐ横で少し強張った。
「左手を使わせるな」
「もちろんでございます。殿下、どうかご安心ください」
生まれて初めて右手で包丁を持った。
重い。刺繍針より、扇より、銀のナイフよりもずっと重い。
刃の冷たさと柄の硬さが、手のひらにはっきり伝わる。
「力を入れすぎないでくださいませ。刃を落とすように、ゆっくり」
ローザに言われた通り、人参に刃を当てる。
最初の一切れは、ひどく厚くなった。
二切れ目は、斜めになった。
三切れ目は、途中で止まり、ローザがそっと手元を直してくれた。
「……難しいのですね」
「初めてなら、皆さまこうでございます」
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