第十二話 好きになってはいけない
そんなことを言われたことがなかった。
王太子妃候補として選ばれたときから、私の気持ちはいつも後回しだった。
候補であること。日曜日であること。ベルクハイム公爵家の娘であること。
すべては決められ、私はそれにふさわしくあることだけを求められた。
けれど今、レオナルトは、好きになることを義務にしなくていいと言う。
義務ではないと言われた方が、心は近づいてしまう。
「……殿下は、ずるい方です」
小さく漏れた声に、レオナルトの目がわずかに見開かれる。
しまったと思った。記憶のない令嬢が、こんな言い方をするだろうか。けれどもう遅い。
「そうだな。俺は、ずるい」
レオナルトは否定しない。
あまりにも静かに認められて、言葉を失ってしまう。
「お前が記憶を失ったと聞いたとき、俺は怖かった。だが同時に、思ってしまった。やり直せるかもしれない、と」
彼の指が、膝の上でわずかに動いた。
喉の奥が熱くなる。
やり直し。その言葉は甘い。けれど残酷でもあった。
やり直すためには、以前の私が傷ついていた時間を、どこかへ置いていかなければならない。
「それは、私が忘れているからですか?忘れている私なら、以前の殿下を責めないから」
「違うと、言いたい」
レオナルトの表情が強張る。
「だが、そう見えても仕方ない」
否定しきれないことに、胸の奥が冷えるのを感じた。
「だから、俺は急ぎすぎない。お前に許せとも、信じろとも言わない」
「それでも毎日、来てくださるのですね」
「ああ。来ることだけは、やめない」
膝の上の手を見下ろす。
それは優しさなのか、執着なのか、責任なのか。まだ判別できない。
けれど、来ることだけはやめないと言われて、胸の奥がまた反応してしまう。
好きになってはいけない。そう思うほど、今のレオナルトは近い。
話題を変えなければ……これ以上このまま向き合っていたら、記憶のないふりではなく、本当の自分の言葉をこぼしてしまいそうだった。
「殿下。私は、以前どのようなことが好きだったのでしょうか」
レオナルトは少しだけ考えた。
「読書。刺繍。植物学の講義で扱う花の話。あとは、甘いものを少し」
「それは、令嬢としてふさわしいものばかりですね」
言うと、レオナルトは黙った。
窓の外へ目を向ける。
庭園の向こうには、王宮の使用人たちが行き交う通路がある。
荷を運ぶ人、花を抱える人、白い前掛けをした人。遠くに厨房棟の煙突が見えた。
昼食の支度の名残だろうか、細い煙が空へ溶けている。
「もし、今の私が、以前の私らしくないことをしたいと言ったら、殿下は止めますか」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
レオナルトの視線が、フィオナの横顔に注がれる。
「何がしたい」
「まだ、わかりません。ただ……今までの私が、してこなかったことをしてみたいのです」
嘘ではなかった。ずっと、してみたかった。
厨房に立つこと。庭の土に触れること。誰かに見られるためではなく、自分の手で何かを作ること。
「記憶が戻らないのなら、私は以前の私をなぞるしかありません。けれど、それでは息が詰まりそうです」
言ってから、自分で驚いた。
それは記憶喪失のふりをしている私の言葉でもあり、ずっと候補として生きてきた私の本音でもあった。
「なら、なぞらなくていい。今のお前がしたいことをすればいい」
「王太子の婚約者らしくないことでも?」
「構わない」
レオナルトは、静かに言った。
「公爵令嬢らしくないことでも?」
「お前の怪我に障らないなら」
その返しに、少しだけ目を瞬かせる。
否定されると思っていた。王太子妃候補にふさわしくないと。今は療養中だから余計なことを考えるなと。
けれどレオナルトが気にしたのは、ふさわしさではなく、怪我だった。
「……では、厨房へ行ってみたいです」
厨房棟の煙突に視線を向ける。
焼けたパンの匂いはここまで届かない。それなのに、なぜか温かな粉の香りを想像してしまう。
レオナルトの眉が、わずかに上がった。
「厨房?」
「はい。見るだけでも構いません。できるなら、何かを作ってみたいのです」
言った瞬間、胸の奥が軽くなった。
王太子妃教育でも、候補令嬢の予定表でも、決して出てこない望み。
けれどそれは、確かに私自身の望みだった。
レオナルトはしばらく黙っていた。
やはり駄目だと言われるのだろうか。
そう身構えた私に、彼は静かに告げる。
「明日、医師に確認する。許可が出たら、厨房へ連れて行く」
「よろしいのですか」
「お前がしたいと言った」
それだけなのに、胸の奥が熱くなる。
過去の痛みは消えない。今の優しさを好きになれば、過去の自分が置き去りになる気がする。
それでも、自分の望みを初めてそのまま受け取られたことが、どうしようもなく嬉しかった。
好きになってはいけない。
そう戒める声が、また胸の奥で響く。
けれど翌日の厨房のことを考えると、私の指先は、知らず知らずのうちにショールの端を握りしめていた。
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