第十一話 痛みが救われるわけではない
その日の午後、レオナルトは約束通り客室へ戻ってきた。
扉が開く音で、顔を上げる。
窓辺の長椅子に座る許可が出たのは、昼の診察のあとだった。
まだ長く歩くことはできない。左手首には包帯が巻かれ、肩と背中には鈍い痛みが残っている。
それでも寝台から離れただけで、少し呼吸がしやすくなった。
窓の外には王宮の庭園が見える。
日曜日に座っていたガゼボは、ここからは木立に隠れて見えない。
けれど、あの場所の冷えた紅茶の味は、まだ舌の奥に残っている気がした。
「起きていて大丈夫なのか」
レオナルトは、入ってくるなりそう尋ねた。
「宮廷医の許可はいただいております」
「痛みは」
「あります。でも、耐えられないほどではございません」
答えたあと、少しだけ目を伏せた。
また癖のように大丈夫だと言いかけた。
それを飲み込めただけ、少しはましなのかもしれない。
レオナルトは、侍従に小さな盆を渡させた。
白い湯気の立つ茶器と、薄く焼いた菓子が二枚。
菓子は薔薇の形に抜かれていた。表面には、砂糖が雪のようにかかっている。
「医師に確認した。少量なら構わないそうだ」
「お菓子、ですか」
「甘いものが嫌いなら下げさせる」
思わず菓子を見つめた。
嫌いなはずがない。
ベルクハイム家では、王太子妃候補として体型を保つため、菓子の量はずっと制限されていた。
日曜日の王宮でも、綺麗な菓子は出されたが、レオナルトの前ではほんの少し口をつけるだけだった。
けれど幼い頃から、薄く焼いた菓子が好きだった。
特に、端が少し香ばしいものが。
レオナルトがそれを知っているはずはない。
そう思ったのに、盆に置かれた菓子は、まさに私が好きだったものに似ていた。
「……嫌いではない、と思います」
記憶のない令嬢として、曖昧に答える。
レオナルトは短く頷き、向かいの椅子に腰を下ろした。
「なら、よかった」
ただ、それだけ。その言葉が胸に触れる。
右手で菓子をつまみ、慎重に口へ運んだ。
薄い生地が、歯の下でほろりと割れる。
バターの香りと、焦げ目のほのかな苦味。砂糖の甘さが舌に溶けて、喉の奥へゆっくり落ちていく。
おいしい。
そう感じた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
こんな小さなことで、喜んでしまう。
花をもらって、嬉しくなる。朝食を気遣われて、胸が温かくなる。
好きな人に、好きな菓子に似たものを出されて、泣きそうになる。
今のレオナルトを好きになることは、とても簡単なのかもしれない。
そう気づいて、思わず指先を止めた。
「どうした」
レオナルトがすぐに気づく。
以前なら、菓子を残しても、紅茶を冷ましても、気づかなかったのに。
「いえ」
「合わなかったか」
「いいえ。おいしいです」
それは本当だった。だからこそ苦しい。
膝の上に置いた右手をそっと握る。
親指が薬指の付け根へ触れそうになり、また離す。
癖を隠すだけで、心まで隠せるわけではない。
「殿下。記憶を失った私は、以前の私と同じ人間なのでしょうか」
レオナルトの手が止まった。
彼は茶器に触れかけたまま、私を見る。
「どういう意味だ」
「わからないのです」
窓の外へ視線を逃がした。
庭園の葉が風で揺れている。
午後の光は柔らかく、白い花と青い花の混ざった花瓶に淡い影を落としていた。
「皆さまは、以前の私について話すとき、少しだけ言葉を選ばれます。私は王太子妃になるために努力していた。殿下の婚約者だった。殿下を……好きだったかもしれない」
最後の言葉は、胸の奥を擦りながら出た。
「けれど、今の私は、それを覚えていないことになっています」
嘘を、嘘のまま言葉にする。
それは薄い刃を舌の上に置くように。
「もし今の私が、今の殿下を好きになったら、以前、傷ついていた私は、どうなるのでしょう」
レオナルトの灰色の瞳が、かすかに揺れた。
部屋の中に、午後の静けさが満ちる。
侍女も侍従も、息を潜めている。茶器から立つ湯気だけが、ゆっくり形を変えた。
「好きになったなら、過去の痛みは消えるのでしょうか。今の殿下が優しいから、以前の私は苦しくなかったことになるのでしょうか」
声が震えた。演技ではない。
記憶のない令嬢としての問いではなく、自分自身の問いだった。
今のレオナルトを好きになってしまったら、過去の私はどこへ行くのだろう。
日曜日のたびに傷ついていた自分は、ただ待てなかっただけの愚かな令嬢になるのだろうか。
冷たくされた痛みも、何もなかったことにされるのだろうか。
「消えない……消してはいけない」
レオナルトの声は、低かった。
ゆっくり彼を見る。
「俺がお前を傷つけたことは、今何をしても消えない。花を持ってきても、茶を淹れさせても、そばにいても、それで過去が書き換わるわけではない」
はっきりした言葉だった。甘い慰めではない。 逃げ道のない、硬い言葉。
「俺にも、それをなかったことにする権利はない」
胸の奥に溜まっていた息が、少しだけ揺れた。
なかったことにしない。その言葉だけで、痛みが救われるわけではない。
けれど、少なくとも踏みにじられなかった。
「では、殿下は……私は、今の殿下を好きにならなければならないのでしょうか」
茶器の縁へ視線を落とした。
婚約者なら。王太子妃になるのなら。選ばれた令嬢なら。
好きになることまで、務めに含まれているのだろうか。
「ならなくていい」
「え」
「俺を好きになることを、義務にしなくていい」
あまりの早い返事に顔を上げる。
レオナルトは、まっすぐにこちらを見ていた。
「記憶が戻っても、戻らなくても。お前が俺をどう見るかは、お前が決めることだ」
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