第十六話 汚れた服を見て泣きたくはなかった
翌朝、宮廷医は私とレオナルトを交互に見て、諦めたように息を吐いた。
「菜園へ出るのは半刻だけでございます。土を掘ること、重いものを持つこと、左手を使うことは禁止。痛みが出れば、すぐにお戻りください」
「承知しました」
私が答えるより先に、レオナルトが頷く。
「私への注意なのですが」
「俺が止めなければ、お前は続けるだろう」
「昨日、スープを焦がしかけたことを仰っています?」
「焦げかけただけだ」
真面目な訂正に、宮廷医が眼鏡を外して眉間を押さえた。
厨房裏の菜園は、王宮の庭園とはまるで違う場所だった。
大理石の噴水も、色を揃えた花壇もない。
低い木柵の中に、香草や葉物野菜が列を作り、湿った土から青い匂いが立っている。
厨房の裏口からは、焼けた小麦と煮込み料理の香りが流れてきた。
私は生成りの簡素な服へ着替え、厚手の作業用手袋を右手にはめていた。
白い手袋より硬く、指を曲げるたび布がごわつく。
「こちらが、昨日のスープにも使いましたタイムでございます」
庭師が、小さな苗を差し出した。
細い茎に、丸みのある小さな葉がいくつもついている。指先でそっと触れると、清涼感のある香りが立った。
どこかで見たことのある葉……
十二歳の夜にレオナルトから受け取った手巾。
その隅に刺繍されていた葉と同じ形だった。
「この苗を、私が植えてもよろしいのですか」
「ええ。穴はこちらで掘ってあります。根を崩さぬよう置き、周りへ土を寄せてくださいませ」
畝の前には低い椅子が用意されていた。
腰を下ろし、苗を右手で受け取る。
土へ指を差し入れると、表面の乾いた粒の下に、ひんやりした湿り気。
刺繍糸とも、紙とも、食器とも違う感触。指を動かすたび、土がほろほろと崩れる。
「白い手袋が汚れるからと、触らせてもらえませんでした」
「今は白くない」
隣に立つレオナルトが答えた。
「そうですね」
苗を穴へ置き、根元へ少しずつ土を寄せた。
強く押しつければ根を傷める。弱すぎれば苗が傾く。
慎重に手を離すと、小さな葉が風に揺れた。
「できました!」
「お上手でございます」
庭師の言葉に、胸が弾む。
「根づけば、厨房で使われるのですよね」
「はい。少し先になりますが」
「少し先……」
すぐには結果が出ない。
昨日のスープは、切り、煮ればその日のうちに食べられた。
けれど苗は、今日植えたからといって明日使えるわけではない。
水をやり、天候を見て、根づくまで待つ。
「殿下は、畑の土へ触れたことがありますか」
「訓練場の土ならある」
「畑は?」
「ない」
「では、殿下も初めてですね」
レオナルトは苗と私を見比べたあと、侍従へ右手を出した。
「手袋を」
「殿下もなさるのですか?」
「お前だけにさせる理由もない」
予備の作業用手袋をはめ、彼は畝の前へ片膝をつく。
王太子が泥の上へ膝を置いた瞬間、侍従がわずかに顔を引きつらせる。
庭師も二度ほど瞬きをしたが、すぐに次の苗を差し出した。
「根の周りを崩さぬようにお願いいたします」
「ああ」
剣や書類を扱う長い指が、小さな苗を折らないよう慎重に持つ。
レオナルトは真剣だった。真剣すぎて、苗へ土を寄せるたび眉間に皺が寄っている。
「もう少し、優しく押さえるそうです」
「これ以上弱くすれば倒れる」
「先ほど覚えたばかりの私より、詳しいおつもりです?」
「お前の苗は少し傾いている」
「えっ」
慌てて自分の苗へ手を伸ばす。
確かにわずかに斜めだった。土を足そうとして身を乗り出すと、椅子の脚が湿った地面へ沈み、身体が前へ傾く。
「フィオナ」
レオナルトが右腕を伸ばしたが、私は左手をかばったため支えへ届かず、膝が湿った土へ沈む。
生成りの裾へ泥が跳ね、冷たさが布越しに伝わった。
周囲が静まる。
「……申し訳ございません」
反射的に謝り、立ち上がろうとするけれども、片手ではうまく力が入らない。
「動くな」
怒られると思った。
次に聞こえたのは、低い笑い声だった。
「殿下?」
顔を上げると、レオナルトが笑っている。
声を立てるほどではないが、灰色の瞳が細くなり、口元がはっきり緩んでいた。
「笑わないでくださいませ」
「すまない。あまりに真剣な顔で、苗に負けていたから」
「負けておりません。植え直そうとしただけです」
「では、引き分けだな」
彼は私のそばへ両膝をついた。
「殿下のお召し物まで汚れます」
「もう汚れた」
本当に、濃紺の膝へ黒い土がついている。
レオナルトは右手を差し出される。
「手を貸してもいいか」
「……お願いします」
厨房へ向かうときは、当然のように腕を出した人が、今は尋ねた。
彼の腕へ右手を預けると、引き上げられ、足元が安定するまで支えられる。
「痛むか」
「膝が冷たいだけです」
「なら戻る」
「もう少しだけ」
「転んだのに?」
「転んだだけで終わりたくありません」
レオナルトはしばらく私を見たあと、また小さく笑った。
「今のお前は、日曜日のガゼボにいた頃より、ずっとよく笑う」
「以前の私は、笑っていませんでしたか」
「笑っていた」
彼はすぐ答えるけれど、胸の奥へ細い痛みが走る。
「だが、失敗を見られて笑うことはなかった」
「……きっと、失敗をしないようにしていたからです」
「そうだな」
否定されなかった。
泥の染みは、洗っても少し残るかもしれない。
けれど今の私は、汚れた服を見て泣きたくはなかった。
土へ触れた。
苗を植えた。
転び、笑われ、言い返した。
失敗しても、レオナルトは離れない
水場で手袋の泥を落としたあと、彼が尋ねる。
「次は何がしたい」
「次も、よろしいのですか」
「お前が望むなら」
洗った指を布で押さえながら、少し考えた。
「剣を持ってみたいです。それから、王都の市場へ行って、食材が厨房へ届く前の場所を見たいです」
「二つあるな」
「果実酒も、どのように作るのか気になります」
「三つになった」
「多すぎます?」
「順番にしよう」
レオナルトは、植えたばかりの二本のタイムへ視線を落とした。
「時間はある」
その言葉に、胸が温かくなり、同時に怖くなった。
時間があると思っているのは、彼だけかもしれない。
記憶喪失の嘘が終われば、この婚約も終わるはずなのだから。
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