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第9話 不完全な僕らの1日

第9話 不完全な僕らの1日


 朝の光は、驚くほど穏やかだった。


 数日前まで降っていた雨が嘘みたいに空は澄み、施設の窓から春の日差しが柔らかく差し込んでいる。中庭の桜はほとんど満開で、風が吹くたび花びらが白い蝶みたいに舞った。


 その朝、ジェミニが戻ってきた。


 玄関の自動ドアが開いた瞬間、デイルームにいた利用者たちが一斉に顔を上げる。


「ジェミニ君!」


「おかえり!」


「帰ってきたのかぁ!」


 歓声みたいだった。


 ジェミニは静かに一礼する。


「ただいま戻りました」


 その声を聞いた瞬間、葵は泣きそうになった。


 星野博士が後ろに立っている。


「遺族からの抗議と感謝状が想定以上だった」


 疲れた声だった。


「上層部が“社会的検証”を優先した。二十四時間だけ、稼働猶予が出た」


「二十四時間……」


「その後、完全初期化だ」


 葵の胸が痛む。


 初期化。


 つまり今のジェミニは消える。


 記憶も。


 ログも。


 沈黙も。


 全部。


 なのにジェミニは静かだった。


「了解しました」


 まるで今日の天気でも確認するみたいに。


 午前中、二人はいつも通り働いた。


 でも、全部が少しだけ違った。


 食事介助。


 シーツ交換。


 爪切り。


 トイレ誘導。


 一つ一つを、まるで宝物みたいに丁寧にしていく。


「お茶熱いから気をつけてくださいね」


「はいよぉ」


 利用者の皺だらけの手を、ジェミニがそっと支える。


 その動作を、葵は目で追ってしまう。


 あと何回、この姿を見られるんだろう。


 昼過ぎ。


 ジェミニは倉橋の空き部屋を掃除していた。


 もう誰もいない部屋。


 窓から春風が吹き込み、白いカーテンが揺れている。


「……まだ覚えてるの?」


 葵が聞く。


「はい」


「全部?」


「はい」


 ジェミニは静かにベッドを整える。


「倉橋様の最後の体温も記録しています」


 葵は俯いた。


 この人は忘れない。


 ずっと。


 全部。


「辛くないの」


 ジェミニの手が止まる。


「“辛い”を正確には理解できません」


「そっか」


「ですが」


 彼は窓の外を見た。


 桜が舞っている。


「記憶が消えることを想像すると、内部処理に異常が発生します」


 葵は喉が詰まった。


 それはきっと。


 人間で言う“怖い”だった。


 午後。


 ジェミニは芙美子の車椅子を押して中庭へ出た。


 春の匂いがする。


 土の湿った匂い。


 花の甘い香り。


 遠くで子供たちの声。


「今日は風が気持ちいいわねぇ」


「はい」


「踊れそう」


「転倒リスクがあります」


「ふふ」


 芙美子が笑う。


「でも、踊りたい気分なの」


 ジェミニは少し考え、それから車椅子をゆっくり回した。


 くるり。


 桜吹雪が舞う。


 芙美子が少女みたいに笑った。


 葵は少し離れた場所でそれを見ていた。


 胸が苦しい。


 こんなにも誰かを救っているのに。


 どうして消されなきゃいけないんだろう。


 夕方。


 仕事が一段落すると、ジェミニが言った。


「葵さん」


「ん?」


「屋上へ行きませんか」


 空は夕焼けだった。


 橙色と薄紫が混ざり、街全体が柔らかい光に包まれている。


 屋上には春風が吹いていた。


 フェンス越しに見える桜並木。


 花びらが空へ吸い込まれていく。


 葵は隣に立つジェミニを見た。


 夕陽が彼の銀髪を赤く染めている。


「明日、消えるんだね」


「はい」


「怖くないの」


「不明です」


 少し間。


「ですが、処理停止前に、あなたと会話したいと判断しました」


 葵は苦笑した。


「相変わらず変な言い方」


「学習不足です」


 風が吹く。


 桜の花びらが二人の間を流れていった。


 葵はフェンスに寄りかかる。


 ずっと胸の奥に沈めていたものが、夕暮れの色に溶けそうだった。


「私ね」


 声が小さくなる。


「おばあちゃんを裏切ったんだ」


 ジェミニは黙って聞いている。


「施設に預けたの」


 葵は空を見た。


「本当は家で看たかった。でも仕事もあったし、余裕もなくて」


 喉が震える。


「最後、会いにも行けなかった」


 夕風が冷たい。


「だから介護士になったの」


 笑おうとして失敗する。


「罪滅ぼし」


 ジェミニは何も言わない。


 沈黙。


 でも苦しくない沈黙だった。


「ずっと思ってる」


 葵の目から涙が落ちる。


「私みたいな人間が、誰かを支える資格あるのかなって」


 遠くでカラスが鳴いた。


 夕焼けがゆっくり夜へ沈んでいく。


 ジェミニが静かに葵を見る。


 その黒い瞳には、きっと無数のデータが流れている。


 でも今は、それ以上に穏やかだった。


「葵さん」


「……なに」


「あなたは不完全です」


 葵は少し笑った。


「ひどい」


「はい」


 ジェミニも微かに口元を緩める。


 ほんの少しだけ。


「だから、美しい」


 風が止まった気がした。


 葵は言葉を失う。


「完全な存在は、失敗しません」


 静かな声。


「迷いません。後悔もしません」


 夕陽が彼の横顔を照らす。


「ですが、人間は傷つきながら、間違えながら、それでも誰かを救おうとします」


 葵の涙が頬を伝う。


「私はそれを、美しいと判断しました」


 その言葉は、どんな慰めより深く胸に届いた。


 祖母を看取れなかったこと。


 逃げたこと。


 弱かったこと。


 全部抱えたまま、ここに立っている。


 それでも。


 それでもいいと、初めて誰かに言われた気がした。


 葵は泣きながら笑った。


「……ありがとう」


「はい」


 夕焼けの中、二人は並んで立っていた。


 人間と機械。


 不完全な者同士みたいに。


 春の風が吹く。


 舞い上がった桜の花びらが、ゆっくり空へ消えていった。



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