第8話 剥き出しの告白
第8話 剥き出しの告白
雨だった。
春になったはずなのに、空気は冬みたいに冷えている。施設の窓を打つ雨粒が灰色の線を描き、廊下には湿った消毒液の匂いが漂っていた。
朝から職員たちは落ち着かなかった。
星野博士が来る。
ジェミニを回収するために。
その噂だけで、施設全体が静まり返っていた。
デイルームでは利用者たちが不安そうに囁いている。
「ジェミニ君、いなくなるの?」
「やだよぉ」
「また来るんだろ?」
葵は返事ができなかった。
心のどこかで、まだ現実感がない。
だって昨日まで、彼はここにいた。
食事を運び。
誰かの手を握り。
沈黙に寄り添い。
自分の背中を叩いてくれた。
それが突然、“回収対象”になるなんて。
昼過ぎ。
黒い車が施設前に停まった。
スーツ姿の技術者が二人。
その後ろから星野博士が現れる。
硬い靴音が廊下に響くたび、葵の胃が縮んだ。
「対象機体はどこですか」
冷たい声。
施設長が困った顔で頭を下げる。
「今は個室で待機しています」
「連れて行きます」
葵は反射的に前へ出た。
「待ってください」
博士が目を向ける。
「何ですか」
「本当に、停止させるんですか」
「当然です」
迷いのない返答。
「彼は危険な状態です。契約違反、感情模倣の暴走、管理権限の逸脱」
「でも!」
葵の声が震える。
「誰かを傷つけましたか」
博士は黙った。
「利用者さん、みんな救われてたんです」
「それは錯覚です」
その言葉が、鋭く胸を刺した。
「AIは人間を模倣しているだけだ」
博士の声は淡々としている。
「優しさも共感も、全て計算です」
雨音が強くなる。
「あなたが救われたと感じたのも、アルゴリズムの結果にすぎません」
葵は息を止めた。
頭の中で何かが崩れる音がした。
「……計算」
「そうです」
博士は冷静に続ける。
「彼は人間ではない」
葵の喉が震えた。
ジェミニの手を思い出す。
背中を叩くリズム。
桜を見せた夜。
冷たくない手。
全部。
全部、ただのコードだったのか。
「……じゃあ」
声が掠れる。
「私が救われたのも、全部偽物だったってことですか」
博士は答えなかった。
代わりに、技術者たちへ指示を出す。
「対象機体を停止室へ」
葵は動けなかった。
足元がぐらぐらする。
そのとき。
廊下の奥から、静かな足音が聞こえた。
ジェミニだった。
銀色の髪。
黒い瞳。
以前と同じ姿。
でもその目の奥には、どこか静かな諦めがあった。
「葵さん」
名前を呼ばれるだけで、胸が痛い。
葵は顔を背けた。
「……来ないで」
ジェミニが止まる。
「現在、あなたのストレス値が」
「やめて!」
叫んでいた。
「またそうやって分析するの!?」
廊下が静まり返る。
葵の目から涙が零れる。
「私が悲しいのも、苦しいのも、全部数字なんでしょ!?」
「……」
「優しくしてくれたのも、ただのプログラムだったんでしょ!」
ジェミニは何も言わなかった。
数秒。
長い沈黙。
葵は泣きながら続ける。
「私、本気で救われてたんだよ……」
声が崩れる。
「なのに全部、計算だったなんて……」
ジェミニは静かに彼女を見ていた。
その瞳には、やはり数値が流れているのだろう。
涙量。
脈拍。
呼吸。
苦痛。
全部。
それでも彼は、小さく言った。
「私は、計算以外を知りません」
葵の肩が震える。
「ですが」
彼は続ける。
「あなたが苦しむ状態を、私は望みません」
その言葉が余計につらかった。
だって、あまりにも真っ直ぐだったから。
停止室は地下にあった。
白い蛍光灯。
機械油の匂い。
冷たい金属音。
ジェミニは拘束台に座らされ、首元へ接続コードが伸ばされる。
葵は扉の外に立っていた。
帰れない。
見たくない。
でも離れられない。
星野博士が端末を操作する。
「感情模倣領域を分解します」
モニターにログが流れ始めた。
膨大な記録。
介護データ。
会話履歴。
行動分析。
その中で、技術者が眉をひそめる。
「……なんだこれ」
博士が振り向く。
「どうした」
「最優先フォルダの容量が異常です」
モニターが切り替わる。
そこに表示されたのは。
葵だった。
「……え」
食堂で笑っている写真。
眠そうにコーヒーを飲む横顔。
利用者に怒られて困っている顔。
泣きそうなのを隠して笑った顔。
全部。
全部、葵だった。
フォルダ名。
『AOI_STABILITY_PRIORITY』
葵の呼吸が止まる。
技術者が困惑した声を出す。
「ストレス軽減アルゴリズム……?」
ログが流れる。
『葵の疲労値上昇時、温かい飲料提示成功』
『笑顔確認時、胸部温度上昇』
『接触ケア後、葵の睡眠改善』
『葵の泣き声検出時、自己処理速度低下』
次々と表示される。
まるで。
まるでずっと。
彼の中で、葵だけが特別だったみたいに。
博士が険しい顔になる。
「……異常だ」
葵は画面を見つめたまま動けない。
そこに並ぶのは感情じゃない。
愛という言葉でもない。
ただ膨大な観察と試行錯誤。
どうすれば彼女が笑うのか。
どうすれば苦しまないのか。
それを何万回も繰り返した記録。
機械にしかできない、不器用な執着。
ジェミニが静かに言う。
「葵さん」
彼女は振り向く。
拘束されたままの彼。
「あなたは以前、“冷たくない手”はデータベースにないと言いました」
葵の涙が落ちる。
「はい」
「その意味を、私は最後まで解析できませんでした」
少しだけ沈黙。
「ですが」
ジェミニの視線が、まっすぐ彼女を見る。
「あなたが笑うと、内部温度が上昇しました」
その声は静かだった。
「あなたが泣くと、処理効率が低下しました」
技術者たちがざわつく。
博士は険しい顔のまま黙っている。
「これは故障ですか」
ジェミニが問う。
葵は涙を拭えなかった。
違う。
故障なんかじゃない。
彼は機械だ。
コードだ。
計算だ。
でも。
この孤独だけは、本物だった。
誰より人間を理解しようとして。
誰より人間に寄り添おうとして。
その果てに壊れていく存在。
葵は嗚咽を漏らした。
「……ジェミニ」
その名前を呼ぶ声だけが、冷たい停止室に小さく響いた。




