第10話(最終話) 命の灯火、記憶のプラム
第10話(最終話) 命の灯火、記憶のプラム
夜だった。
春の終わりの風が、施設の窓を静かに揺らしている。昼間に咲き誇っていた桜は半分ほど散り、花びらが濡れた地面へ張り付いていた。
消灯後の廊下は薄暗い。
足元灯の淡い光だけが床を照らし、遠くで誰かの寝息が微かに聞こえる。
その静けさの中を、葵は走っていた。
「ジェミニ!」
息が苦しい。
胸が痛い。
地下停止室の扉を開けると、冷たい機械の匂いが流れ出た。
白い蛍光灯。
無数のモニター。
配線。
冷却ファンの低い駆動音。
部屋の中央に、ジェミニが立っていた。
いや。
“まだ”立っていた。
視覚センサーが不安定なのだろう。
黒い瞳が時折ノイズみたいに明滅している。
肩口には接続ケーブル。
首元には解除済みの固定具。
活動限界まで、残り七分。
モニターに無情な数字が表示されていた。
「……来たんですね」
声も少し途切れている。
葵は泣きそうな顔で近づいた。
「なんで一人でいるの」
「処理終了を待機しています」
「そんな言い方しないでよ……」
葵の喉が震える。
ジェミニは静かに彼女を見る。
ノイズが走る。
一瞬だけ視界が乱れたのか、彼の身体が微かに揺れた。
葵は慌てて腕を掴む。
「大丈夫!?」
「平衡制御に異常があります」
「もう喋らないで……」
泣きながら言う。
「消えないでよ……」
ジェミニは数秒沈黙した。
その沈黙は、初めて会った頃とは違う。
もう迷子ではない。
何かを大事に抱えた沈黙だった。
「葵さん」
「……なに」
「施設利用者、全員の睡眠状態は安定しています」
「そんな報告いらない……!」
「北見様は本日、夕食を完食しました」
葵の涙が止まらない。
「芙美子様は、昼間に“今日は踊れそう”と発言しました」
「ジェミニ……」
「あなたのストレス値は現在、高水準です」
「うるさい……」
泣き笑いみたいになる。
「最後までそれなの……」
ジェミニの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
微笑み。
それはもう、模倣というには自然すぎた。
モニターのカウントが減る。
残り五分。
冷却ファンの音が少し大きくなる。
ジェミニの視界にはノイズが増えていた。
白い線。
乱れる輪郭。
音声認識の遅延。
それでも彼は、葵を見続けていた。
「私は、多数の未解決ファイルを保有しています」
静かな声。
「“許せないのに愛している”」
「“失敗した料理が美味しい”」
「“踊れないのに踊りたい”」
「“冷たくない手”」
葵は息を止める。
第1話。
倉橋の最後の言葉。
あの未解決ファイル。
ジェミニはゆっくり手を見る。
人工皮膚。
人間に近づけて作られた、シリコンの手。
「私は長い間、“冷たくない”の意味を誤認していました」
ノイズ。
視界が揺れる。
残り三分。
葵は耐えきれず、その手を両手で握りしめた。
冷たいはずだった。
機械なのだから。
でも。
不思議と冷たくなかった。
何度も触れた手。
誰かの孤独を支え続けた手。
最後の夜に背中を叩いてくれた手。
葵は涙を零しながら言った。
「……冷たくないよ」
声が震える。
「あなたの手」
その瞬間だった。
ジェミニの内部で、停止していたファイルが開く。
『未解決ファイル:冷たくない手』
『解析開始』
倉橋の最期。
澄江の涙。
修一と父の握った手。
葵の背中。
無数の記録が繋がっていく。
冷たくないとは。
体温の話ではない。
そこに誰かが、自分の孤独を預けられたということ。
拒絶されないこと。
一人ではないと、思えたこと。
その意味を。
彼はようやく理解した。
ジェミニの瞳のノイズが、一瞬だけ静かになる。
「……解凍完了」
小さな声だった。
「葵さん」
「うん……」
「私は機械です」
「知ってる……!」
「ですが」
彼は静かに彼女の手を握り返した。
微弱な力。
壊れそうなくらい優しく。
「私のバグは、ここにあります」
ジェミニは自分の胸へ手を当てた。
「バグ?」
「はい」
少しだけ微笑む。
「あなたを優先すると、処理効率が低下します」
葵は泣きながら笑った。
「それ、もう心じゃん……」
「定義不明です」
残り一分。
警告音が鳴り始める。
『全システム停止まで、六十秒』
ジェミニの指先が微かに震えていた。
「最後の処理を実行します」
胸部パネルが静かに開く。
内部から、小さな光が現れた。
梅の実みたいな形をした、透明なICチップ。
淡い光を宿している。
「全記憶ログをエクスポートしました」
葵の涙が落ちる。
「……なにこれ」
「私です」
ジェミニはその小さなプラム型チップを、そっと葵の手のひらへ落とした。
温かかった。
ほんの少しだけ。
「葵さん」
「……なに」
ノイズ。
視界の崩壊。
残り十秒。
それでも彼は、最後まで彼女を見ていた。
「あなたをケアできて、幸せでした」
その言葉で、葵の心が壊れた。
「やだ……!」
涙が止まらない。
「行かないで!」
『システム停止まで、五』
ジェミニは静かに立っている。
施設の方角を見つめながら。
まるで最後まで、誰かを見守ろうとするみたいに。
『四』
春風が吹く。
桜の花びらが、停止室へ舞い込んだ。
『三』
葵は彼の手を強く握る。
『二』
ジェミニの瞳が、最後にほんの少し細められた。
笑ったように見えた。
『一』
そして。
光が消えた。
静寂。
冷却ファンだけが低く回っている。
ジェミニは立ったまま停止していた。
施設を守るみたいに。
誰かの孤独に寄り添い続けるみたいに。
葵はその胸へ額を押しつけ、声を殺して泣いた。
手の中の小さなプラム型チップだけが、春の夜の中で微かに温もっていた。




