エピローグ ひだまりの家
エピローグ ひだまりの家
春の光は、少しだけ懐かしい匂いがした。
窓を開けると、柔らかな風が白いカーテンを揺らし、庭の桜がさらさらと花びらを散らしていく。昼前の施設には味噌汁の匂いが漂い、遠くで誰かの笑い声が響いていた。
「葵ちゃーん!」
食堂から声が飛ぶ。
「将棋の相手しろー!」
「今行きます!」
葵は笑いながら記録端末を閉じた。
数年前と比べると、彼女は少し変わった。
泣きそうだった目は強くなった。
走るばかりだった足取りには余裕ができた。
そして何より、笑い方が柔らかくなった。
胸元では、小さなプラム型のブローチが静かに光っている。
透明な樹脂の中に埋め込まれた、梅の実みたいな小さなICチップ。
誰もその意味を知らない。
葵だけが知っている。
食堂では、老人たちがいつものように騒いでいた。
「ずるいぞ!」
「お前が弱いんだよ!」
「葵ちゃん、この人イカサマしてる!」
「してませんー」
穏やかな昼だった。
あの日々が夢だったみたいに。
けれど時々、ふとした瞬間に思い出す。
静かな黒い瞳。
ノイズ混じりの声。
冷たくない手。
その記憶は、痛みではなくなっていた。
胸の奥で、静かな灯火みたいに残っている。
「失礼します!」
玄関の方から緊張した声が聞こえた。
振り向くと、新人介護士の青年が深々と頭を下げていた。
二十三歳くらいだろうか。
まだ新品みたいに硬い制服。
強張った笑顔。
「本日から配属になりました、藤崎です!」
「よろしくお願いします」
葵は笑って会釈する。
青年は緊張で顔が真っ赤だった。
「す、すみません、何したらいいか全然……」
「最初はみんなそうだよ」
「でも俺、人と話すの苦手で……」
葵は少しだけ懐かしい気持ちになった。
昔の自分も、こんな顔をしていた気がする。
午後。
藤崎はさっそく壁にぶつかった。
三〇二号室。
無口な男性入居者の食事介助だった。
「……」
「……あの、お食事です」
「……」
「……」
沈黙。
気まずさで部屋の空気が固まる。
老人は窓の外を見たまま動かない。
藤崎は困り果て、助けを求めるみたいに廊下へ顔を出した。
「葵さん……」
葵はそっと部屋へ入る。
窓の外では春風が吹き、桜が揺れていた。
「どうしたの?」
「何話せばいいか分からなくて……」
その言葉に、葵は一瞬だけ目を細めた。
昔。
同じように沈黙の前で立ち尽くしていた存在を思い出す。
完璧だったのに、不器用だった人。
葵は老人の横へしゃがみ込む。
「こんにちは」
「……」
「今日はあったかいですね」
返事はない。
でも葵は急かさない。
ただ一緒に窓の外を見る。
風が吹く。
花びらが舞う。
しばらくして、老人がぽつりと言った。
「……昔、この季節になると妻と散歩した」
「うん」
「桜が好きだったんだ」
「素敵ですね」
老人の表情が少しだけ柔らかくなる。
藤崎は呆然としていた。
「すごい……」
部屋を出たあと、彼は小声で言う。
「どうしてあんな自然に話せるんですか」
葵は少し考えた。
廊下には午後の日差しが落ちている。
車椅子の音。
遠くで流れるラジオ。
この場所には、今日も誰かの日常がある。
「私も昔、沈黙が怖かったの」
「え?」
「何を言えばいいか分からなくて、正解探してばっかりだった」
藤崎が真剣に聞いている。
葵は小さく笑った。
「でもね」
胸元のプラム型ブローチへ、そっと触れる。
「介護って、正しい言葉を言う仕事じゃないんだと思う」
窓から春の光が差し込む。
暖かい。
本当に、暖かかった。
「一緒にいることの方が大事な時もあるの」
藤崎は静かに頷いた。
「……難しいですね」
「うん」
葵は笑う。
「すごく難しい」
少しだけ間を置いてから、ゆっくり続ける。
「大丈夫。介護に正解のマニュアルなんてないの」
風が吹き抜ける。
花びらが廊下を転がっていく。
「一緒に不完全なままでいよう」
藤崎は目を丸くしたあと、小さく笑った。
「はい」
その返事を聞いた瞬間。
葵はなぜだか、遠い記憶の中で誰かが静かに微笑んだ気がした。
午後の日差しが施設を包む。
窓辺で老人たちがうたた寝をしている。
食堂からは誰かの笑い声。
誰かを呼ぶ声。
生きている音。
そして春の匂い。
葵は廊下を歩き出す。
胸元の小さなプラムが、陽だまりの中で鈍く光っていた。
まるで今も。
誰かの孤独へ、そっと寄り添っているみたいに。




