第九章 当て木の家
目が覚めても、居間には誰もいなかった。
カーテンの隙間から、朝の光が入り、ローテーブルの上に置きっぱなしにしていた皿たちを、白く照らしていた。
自分の皿は空だった。
見えない客のために置いた皿も、きれいに空になっていた。
けれど、バロンのために温め直した皿だけが、そのまま残っていた。
悠はしばらくその皿を見つめていた。
「バロン、来なかったんだ」
声に出した瞬間、部屋の空気が少し冷えたような気がした。
悠の中で、おせったいとはバロンにご飯を出すことだと思っていたことに気がついた。
「バロンだけじゃないんだ」
この家で、おせったいをするということは、バロン以外の存在にこそ、用意するものなのかもしれない。そのことを、いままで見ないふりしていたのだ。そして、そちらの方が、本筋だということも。
この家は、最初からそうだったのだ。
誰のためかもわからない食べ物が、いつの間にか消える。
バロンが食べるときのような、あの騒がしさはない。
文句も、催促も、サンドイッチが逃げるというわけのわからない言いがかりもない。
それでも、皿は空になっている。
悠はのろのろと立ち上がり、昨夜の食器を流しに運んだ。
水に浸した皿の上で、油が薄く広がっていく。
それを見ながら、胸の奥に、重たいものが沈んでいった。
バロンは戻っていない。
館上も来られない。けれど、この家の何かは、まだ動いている。
悠は戸棚を開け、昨日買ったお菓子の残りを籠に詰めた。誰が食べるのかはわからない。けれど、置かないという選択肢だけは、もうなかった。
ローテーブルに置きっぱなしにしていた悠のスマホが、メッセージの着信を告げた。
手に取ってみると、母からだった。アプリを開いてメッセージを目にした途端、悠は金縛りにあったような気持ちになった。
『売却先がほぼ決まりました。あと十日で片づけなさい。先方は、早く引き渡してほしいそうよ』
しばらくの間、悠は画面を見続けた。
何度読み返しても、期限は十日、とあった。昨日の会話で、母はもう少し長く待ってくれるだろうと思っていた。これまで母は、何のかんのと言いながら、悠が訴えることには譲歩してくれていた。だが、境居家のことに関しては、決して意思を曲げない。それどころか、一日でも一時間でも早く、この家と縁を切ろうとしている。
悠はじぶんの考えの甘さに唇をかんだ。
また、母からメッセージが来た。
『家の外と中の写真を撮って送って。購入希望者に追加で見せるから、状態が良く見えるようにしてね』
悠は、膝から崩れ落ちそうになった。
「この家を、売るために綺麗な写真を撮れっていうの」
悠は泣きたくなった。
おせったいのことを知らない新しい持ち主に、住み心地がよさそうな昼間の居間の写真を撮れというのか。夜の、籠のお菓子が空になる、不思議な居間の雰囲気を込めた写真を撮れというのか。
悠は、閉め切ったままのカーテンを開けた。レースのカーテン越しの陽が悠の全身を包んだ。振り返ってみると、ローテーブルにも光が溢れて、艶のある黒の籠が光を受けていた。
そこに、何かの文字が浮かんで見えた。
最初は、見間違いかと思った。籠を手に取り、まじまじと見た。
あったと思ったところに、文字は見当たらない。
「なんだ、気のせいだったか」
籠を置こうとした手が止まった。陽光があたったところに、また文字が見えたのだ。
悠は慎重に光を反射させたまま、籠を目に近づけた。
「……三?」
見ようによっては、ひっかき傷にも思えた。だが、悠の勘が、それは違うと訴えている。
悠はその状態を保ったまま、スマホで写真を撮った。
撮った画像を拡大した。光を反射した表面の奥から、三、という文字がうっすら見えた。
「ほかに何かあるかも」
悠は籠のお菓子を全部取り出し、窓際に持って行って、陽を当てながら、ぐるぐる回して見た。
今度は、籠の裏に、何かの模様みたいなものが見えた。
「ログイン時に出てくる画像認証の変形文字に見える……。G? 1? ワ? K?」
明治時代ごろに、ネットはなかったから、変形文字など関係ないのはわかっているが、悠のなかであてはまるものと言ったらそれくらいだった。
考えても答えは出ないので、それも写真を撮っておくことにした。
「こういうものは、バロンか館上さんに任せよう」
少し、元気が出てきた。
母のための写真を、二階の部屋も併せて数枚撮った。そのあと、少しだけ腹にものを入れ、家を出た。午前中の柔らかな日差しに照らされた境居の家は、屋根瓦に陽を受けて、品のよさそうな佇まいに見えた。悠はそれを写真に収め、母にまとめて送った。そのあと、玄関と門の鍵を閉め、出発した。
昨日、館上から行ってみろと言われた常称寺に行こうと思った。
「近いから、薬師堂通りも歩いてみるか」
昨日、たくさん歩いたせいか、足が少しだけ、筋肉痛になっていた。運動不足は、若さだけでは補えないらしい。
「レンタサイクル、しようかな」
料金を考えると、やはり躊躇した。一日だけではおわりそうになかったからだ。
「歩くと、いろんな店を見られるもんね」
じぶんに言い聞かせ、坂を下って行った。
「スマホの地図で見ると、ここを曲がって」
昨日、市役所に行ったので、その周辺に見覚えがあった。これならもうすぐ旧尾道市街のざっくりした地理が頭に入りそうだ。
国道二号線を渡り、目的の通りへ向かった。常称寺を先にした方が効率は良さそうだが、悠は、なんとなく薬師如来像があったはずの成福寺の場所を先に見たかった。
少しだけ枝道を歩いて、十四日元町の薬師堂通りに入った。
「ここ、二号線の北側から続いている石見銀山街道とつながっているんだよね。歴史を感じる……」
今となっては、のんびりとした雰囲気の地区だけれど、昔はきっと、活気があったに違いない。そう思わせるなにかが、ここにはあった。
悠は深く息を吸った。
じぶんの実家は、住宅街にある。食事処もあるが、同じような戸建ての家が整然と並んでいるだけだ。けれど、ここの家は一軒ずつ表情が違った。古びていても、人の手が入っている。閉じているようで、どこか外へ開いている。
悠は体のこわばりがほどけていくように感じた。
当時の様子を想像しながら、悠はきょろきょろとあたりを見まわした。南下しているうちに、悠は左手の空中に、桃色の線が立ち上がっているのが見えた。
それは、線というより、点に近かった。空が青だったから、見えたといってもいいくらい、か細く、頼りない線の切れ端だった。
「ここ、成福寺周辺だったんだ」
資料では、どのあたりかまでは確認できなかった。だが、名残りはたしかにあった。土地を掘り返していたら、鳥居が出てきた、という記述はあった。それがどこだかは悠にはわからない。それでも、土地は記憶している。
「すごいや」
悠は頬が緩むのを感じた。
桃色の破線がどこから出ているのか、確認しようとして近づいてみた。そうすると、切れ切れの点のようなものが霧散した。
「ここ、という一点だけでなく、土地全体から出ているものが桃色になっていくんだ。たぶんそうだ」
悠は上を見ながらつぶやいた。
昔、ここで人々は祈りをささげていた。寄進をしたのは、この町に根づいた人々だった。薬師如来像に、きっと病気の平癒だけでなく、港から出る船に乗る家族の無事を祈ったに違いない。食べ物や着るものなど、生活の苦しみがないように、祈った人もいただろう。そしてなにより、家族の無事の感謝を捧げていたはずだ。その思いは、手に取ることも見ることもできないけれど、ないことにはならない。
そういった思いはきっと、時間なんて関係ないのではないか。
「時間の流れがゆっくりに感じる」
悠はあらためて、静かなあたりを見まわした。
そこで、桃色の線が一本だけ、違う方向へ向けられていることに気がついた。
「……もしかして、うち?」
まさかね、と悠は首を振った。
次は、常称寺に行って確かめたい。
悠はまた、スマホの画面を操作した。常称寺は、ここから近い場所にあった。長江口交差点から国道二号線を渡り、右に折れて国道沿いを歩いていく。左手に、山陽本線が国道と並走していて、その向こうに民家や駐車場があったが、おそらく家が建っていただろうと思われるところは、更地になっていた。
片道一車線の道路は、日差しを受けて明るい色に満ちていた。二百メートルは歩いただろうか。左手に、寺が見えていて、最初に見えたのが福善寺、次が常称寺だ。
右手に病院、左手に、線路を渡って、寺への道があった。悠はその道を進んだ。
線路を渡ってすぐ左手が、観音堂で、右手前方に、鐘撞堂があった。正面が、本堂のようだ。木造阿弥陀如来立像があるのは、きっとこの中だろう。
そこは、国道のすぐ近くにあるのに、なんだか外の通りの音が小さくなったようだった。まるで、見えない膜で、音が和らいだような感覚だった。
墓参りに来られていると思われる人に、薬師如来像はどこにあるかを尋ねたが、その人は首を傾げ、
「ようわからんが、本堂の奥に大切にしまわれとるんかもしれん。だいじなもんじゃろうから」
それもそうだな、と悠は納得した。
大切なのは、ここから桃色の線が出ているかどうかだ。
悠は、上空を見上げた。
目を凝らすと、はるか上空に、桃色のひかりが見えた。
その光は、遠くで細い線となり、北からの線とつながっていた。
この常称寺に向かって、南西からも破線が伸びていた。きっと、成福寺のあった町からだ。
悠は確信した。
きっと、ここに薬師如来像はあるだろう、と。
じっとそこに佇んでいると、なんとなく、十四日元町で感じた、懐かしい感覚がここでも感じられた。
ここから感じるのは、帰りたいとか、悲しいとか、そういうものではなかった。移されたものが、新しい場所で静かに座りなおしている。でも、元居た場所へ向けての思いを一筋、残している。悠にはそんなふうに感じた。
「館上さん。ここに来るように言ってくれて、正解でした」
悠は青空でつながる細い桃色の線を見ながらつぶやいた。悠の声は、境内の静けさの中に、散っていった。
本堂を改めて見る。悠が知っている寺とは雰囲気が違っていたので、スマホで調べてみた。鐘撞堂こそ江戸時代だが、本堂と観音堂は、室町時代のものだという。きっと、寺社を写真で見ただけだったら、その重みを感じなかっただろう。悠はまじまじと、本堂を見た。この場は、時が積み重なっている。この静けさは、時の流れが生み出したものかもしれない。
悠は本堂に目礼をして、踵を返した。途中のこぢんまりとした観音堂にも、頭を下げた。
「そういや、このお寺の門、なかったな」
再びスマホで検索した。
「うわ」
大門は、国道二号線をまたいだ南に、民家に囲まれたところにあるという。
「このお寺は、もともとはもっと広かったんだ」
桃色の線は、立ち上がっている。
「土地の広さじゃないんだ」
悠はスマホの画面を閉じた。
お昼は、近くにあったお好み焼きの店で済ませた。クレープ状に広げた生地の上にキャベツを乗せて焼く、広島特有の焼き方が目の前で見られ、悠は食い入るように見つめた。豚玉にいか天入りのお好み焼きは絶品だった。悠は、広島のお好み焼きのソースが気に入り、帰り道に買って帰ろう、と決めた。
午後も遅くなって、悠は次の艮神社へ向かった。
艮神社のほうへ近づくにつれ、桃色の線が少し濃くなった。それだけではない。赤みを帯びた、細い糸のようなものが、その桃色の線に絡んでいる。
「蓮華の花びらとは違う」
もっと細く、すばしこく、ほどけそうでほどけない糸だった。
長江口を過ぎ、千光寺ロープウェイ乗り場を目指す。線路を渡って、右手に喫茶店を見ながら、ロープウェイ乗り場の横に、鳥居があった。そこを進むと、大きな門がある。そこから神社が見えた。脇に、割れてしまったのか、顔のない狛犬がいた。上空を、ロープウェイが走っていく。仰ぎ見ていたら、視界の隅に、濃い緑が入った。境内に立つ、樹齢九百年といわれる楠だ。
成福寺にあった稲荷は、いまは艮神社の境内社の一つとして祀られている。拝殿の脇を奥へ回ると、巨石のそばに赤い鳥居が見えた。その場の上空から、赤い線が立ち上がり、桃色の線に絡まりながら、よく見ると、南へと伸びていた。
「あれって、成福寺のあったほう?」
目を凝らせば、本当に微かだが、常称寺へと延びかけた線もあった。
赤い線は、なんだか縋っているように見えた。
「ここに、移されてきた道を、覚えているの? 一緒にいた像のことも、覚えているの?」
悠の声が少しだけ震えた。
悠はスマホを取り出し、メモアプリを立ち上げ、頭に浮かんだことを整理した。
成福寺跡=薬師堂通り付近
本尊=常称寺
稲荷=艮神社・赤い線
名前=薬師堂通り、薬師堂小路、薬師堂浜
印の線=成福寺から崩れる
境居家=まだ不明
「ばらばらに、残っているんだ」
悠は心の中で、つぶやいた。成福寺は、なくなったんじゃない。
「たぶん、ばらばらにされた。そして、今も、存在している」
ここで、じぶんの記入した内容を見返し、目がとまった。
境居家を入れたメモ。
「なんで、この言葉を入れようと思ったんだっけ」
じぶんでもわからなかった。
艮神社をあとにして、悠はまた、薬師堂通りへ足を向けた。
日が傾き、少しずつ、オレンジ色が濃くなる時刻だった。
そのなかで、弱いけれど少しだけ発光した桃色の線が空を渡っている。だが、波になる前に散ってしまっている。
桃色の線が一本だけ、境居の家の方角へ伸びていた。よく見たら、途中から地面に近いところを、頼りなく、境居の方へ向かっている。思い違いかもしれないと、スマホで地図を見た。だが、指し示す方角は、やはり、境居のある方向だった。
「……うち? なぜ?」
言った瞬間、全身から血の気が引いた。
成福寺の跡から、境居家へ。
そんな線が、どうして伸びているのか。
悠は冷たくなった指先で、館上の番号に電話した。今度は、すぐに出てくれた。悠は、今日わかったことを、つっかえながら話した。
「館上さん、成福寺跡から、うちのほうへ線が伸びてる」
電話の向こうが、しんとした。
「何と言った?」
「成福寺の跡から、境居家のほうへ。空じゃなくて、地面に近いところを、細く伸びてる。地面にも線があるなんて、上空ばかり見てたから気づきもしなかった」
「……まずいな」
「まずいって、どういうこと」
「お前の家が、代わりにされている」
悠は言葉を失う。
「代わりって、何の」
「成福寺だ」
悠は、言葉に詰まった。館上が、話を続ける。
「詳しいことは、バロンに聞け。あいつの方が、この家のことを知っている」
「館上さん」
「悪い。こっちも長くは話せない。いいか、家を手放す話は、まだ返事をするな」
「わかった」
「こっちも、いよいよ妨害がひどくなって、仕事もあるのに尾道に入ることもできやしない。時間だ。もう切る」
そう言って、館上は電話を切った。
悠はぼんやりとスマホの通話終了の画面を見続けた。
バロンに聞けと言われても、バロンはゆうべ、やってこなかった。
今夜は現れる、とは限らない。
悠は重い溜息をつき、スマホを切った。一気に、気持ちが沈んでいくようだった。
それでも。
「帰らなくちゃ。夕ご飯のおせったい、しなきゃ」
バロンが来るかもしれない。来なくても、おせったい分は、用意しなくちゃいけない。
悠は棒のようになった足で、近くのスーパーへ向かった。
夜になった。悠は、重い気持ちのまま、じぶんとバロンと、おせったいの夕食を用意した。
ローテーブルに並べ、ソファにどかりと座り、体を倒した。
一気に疲れが体を覆って、起き上がれそうになかった。
横目で見上げる居間の天井を、今までは古いけど味がある、くらいしか思っていなかった。館上の話を聞いた今、この家を、ただの祖父母の家、という目で見ることはできない。室内の明かりまで、違って見えた。
スーパーの袋を下げて帰ってきたとき、境居の家は、坂の途中で、いつものように黙って待っていた。
古びた瓦。
少し歪んだ戸。
草を刈っても抜いても、すぐに緑が顔を出す庭。
ただの古い家だと思っていた。
母が嫌っている、祖父母の残した、悠が片づけることになった家。
けれど、そうではなかった。
この家は、ずっと何かを受け止めていたのだ。
悠が少し磨いて綺麗にした台所は、おせったいを用意する場所だった。
祖父母が使っていた器は、それを乗せるものだった。
大きな客間は、それこそ、ふいのおせったいの客のための空間だったのだろう。
館上が乗りこんできた玄関も、バロンを呼んだ窓も、おせったいを置くこのローテーブルも、籠も、すべて、寺でしていたこととおなじじゃないか。
「ここ、家じゃなかったってこと?」
言って、すぐに違うと思った。
家ではある。
けれど、家だけではなかった。
「どうした、元気がないな」
窓の外から聞きなれた声がした。悠はがばっと体を起こした。
窓際に、黒い影があった。
悠は急いで窓を開けた。
「バロン!」
バロンは耳を両手で抑えた。
「大声出すな。頭に響く」
「……頭って、頭痛? 猫にも頭痛ってあるの」
「あるに決まっとろうが。ワシをなんだと思っとる」
室内の明かりに照らされたバロンは、言葉とは裏腹にいつものふてぶてしさがなく、どこか元気がなかった。自慢の黒毛に艶はなく、子どもくらいの大きさだった体は、幼稚園児よりも小さく、燕尾服を着て直立していなければ、ただの大きな猫、といった姿だった。
悠は、バロンに会えたらたくさん聞きたいことや言いたいことがあった。目の前の小さく弱々しいバロンに、いま、悠は言えないと思った。バロンの話が先だ。
「中に入って、バロン。夕ご飯を一緒に食べよう」
悠はにっこり笑って、バロンを招き入れた。
しおしおと、バロンが入ってきて、いつものソファに座った。以前はどすん、とふてぶてしく座っていたのに、今日はちょこん、といった様子だった。あまりにくたびれた姿に、悠は尋ねた。
「なにがあったの」
バロンの耳がへにょりと垂れた。
「ワシも、まだまだ未熟じゃということよ」
ふい、とバロンは目を横にそらした。
「らしくないこと言わないでよ」
「どういう意味じゃ」
口元をへの字にして、バロンは悠へ目をむけた。不満そうな顔をしているのだろうが、幼児サイズのバロンがそんな表情をすると、どこかかわいく見えるな、と悠は思ったが、口には出さない。
「バロンって、謙虚なんて言葉を知らないみたいに、いつでもふんぞり返って威張っているじゃん」
「ワシは偉いからの。ただ、それとこれとは話が別じゃ」
バロンは髭をいじりながら答えた。同時に、目の前の食事に、鼻をぴくぴく動かした。バロンの目が、きらりと光る。どうやら、食欲はいつもの通りらしい。
「ごはん、冷めちゃったから温め直すね」
悠はさっと立ち上がり、皿を台所へ持っていった。手際よく温め直し、再び、バロンの前に並べた。
「どうぞ」
バロンは手を合わせ、箸をとった。だが、いつものようにがつがつとは食べない。少しずつ食べるバロンに、悠は心が痛んだ。
「あのね、バロン」
悠は上目遣いにバロンを見た。
バロンは、箸を止めず、ちらりと目を向け、うなずいた。
悠は、成福寺から家へ線が伸びていることを話した。
バロンは最後まで黙って悠の話を聞くと、箸を置いて、悠を見た。
「気づいたか」
悠は驚いた。
「知ってたの?」
思わず、声が大きくなった。
バロンはまた耳を押さえながら答えた。
「知らんふりをしていただけじゃ」
「どうして言ってくれなかったんだよ」
バロンは目を細めた。
「言えば、おぬしはこの家に縛られる」
悠ははっと身をこわばらせた。
「成福寺が消えたあと、印は完全には死なんかった。薬師は移され、稲荷も移され。名前は道に残った。じゃが、寺が担っていたものは、それだけでは足りん」
「足りないぶんを、この家が受けた?」
「そうじゃ。この家は成福寺が抜けた跡に添えられた、当て木のようなものじゃ」
「当て木?」
「当て木いうても、寺の全部を背負うとるわけじゃなかろう。どこを支えとるかまでは、わしにもまだ見えん」
バロンはそこで、お茶を一口飲んだ。
「折れた骨に添える木じゃ。骨そのものではない。じゃけんど、添えねば骨は曲がったままになる」
「なるほど」
「境居の家は、昔から見えんものに飯を出してきた。まようもの、帰れんもの、腹をすかせたもの。そういうのを、ここで一度休ませ、山へ、海へ、夜へ帰してきた」
「それって、寺、みたいだね」
バロンは頷いた。
「そう。寺ほど大きくはない。だが、役目は似ておる」
悠も箸を置き、手元に目を落とした。
「母さんは、この家を売るつもりなんだ」
バロンは黙った。
そして、置いた箸をとり、また食べ始めた。
静かに、食べる気配がした。
バロンは一通り食べると、ぽつりとつぶやいた。
「売るなとは言わん」
悠は顔をあげた。
「言わないの?」
バロンは首を振った。
「言えるわけがなかろう。ここは、おぬしらの家じゃろう。人の世のものを、人でないものの都合で縛るわけにはいかんl。少なくとも、ワシはそう思っとる」
バロンは続けた。
「じゃが、何も知らずに手放せば、あとで取り返しがつかん」
悠の脳裏に、母の顔が浮かんだ。
売れば、母は自由になる。
売らなければ、母はまたこの家に縛られる。
けれど、売れば、この家に縛られていたものたちは、どこへ行くのだろう。
悠は、答えの出ない家を抱えたまま、いつのまにか空になっていた三人目のおせったいの皿を見つめた。
「売らない」、とは悠には言えなかった。言えば、母を裏切る気がする。でも、「売る」とも言えない。
ローテーブルに置いてあったスマホがメッセージの着信を告げた。
「母さんだ」
スマホを取り上げた手に、しびれのようなものが走った。
『買い手側の人が、一度家を見たいそうです。明後日、都合はどう?』
嫌な予感がする。
メッセージを追う。
母のメッセージには、買い手側の資料が添付されていた。法人名の下に、小さく「紹介者」とある。
そこに、見覚えのある名前があった。
宮瀬美凪。
悠はスマホを握ったまま、窓の外を見た。
夜の尾道の上で、桃色の花びらが、またひとつ、ほどけていた。
「あの人が、ここに来る」
悠の震えた声に、バロンが耳をピクリと動かした。
「あの人?」
「母さんを知っているっていう人」
「誰のことだ」
悠はスマホの画面を見下ろした。
「宮瀬美凪さん」
バロンの翡翠色の目が光った。
「悠」
バロンが、低く呼んだ。
「その女を、この家に入れるな」
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