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夜の波紋は、坂の上まで届く ――尾道の古い家で、見えない客におせったいをする――  作者: 飛絽じゅらん


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第八章 成福寺の空白

 宵闇があたりに忍び込む頃、境居家では館上とバロンが居間のソファで悠の淹れるお茶を待っていた。二人の前には、腹持ちのよさそうなサンドイッチが置かれていた。両手をうずうずさせながら、バロンは台所でポットを傾けている悠に声をかけた。


「まだか! サンドイッチが逃げる」


 悠は顔も上げずに、


「サンドイッチに足はないよ」


 と、軽くあしらった。

 バロンは口元を波打たせるようにゆがめた。


「わかってて言っとるじゃろう!」

「おせったいぶん以外は減らないと思うよ、たぶん。おせったいに用意した食べ物以外、減ったことはなかったから」


 言いながら、お盆に四人前のカップを乗せて悠が窓際のソファにやって来た。

 二人の前、空席の前、そしてじぶんの前に紅茶のカップを置くと、悠はぽすりとソファに座り込んだ。本日のサンドイッチは、お総菜コーナーで割引シールが貼ってあったトンカツやサラダで作り、館上用にはエビカツを用意した。ソースはマヨネーズと中濃ソースを混ぜ、からしを隠し味に入れておいた。ワッフルメーカーがあればよかったがここにはなく、軽くトーストしたパンごとアルミホイルでつつみ、グリルで温めた。それだけで、パンから香ばしい小麦の香りが立ち上り、悠はにこにこになった。尾道の海岸通りには、おいしいベーカリーショップがあると、草刈り道具を貸してくれた人から聞いていて、さっそくそこに買いに行ったのだ。


「いただきまーす」

 バロンはさっそく大口をあ

けると、一口で食べ、咀嚼もそこそこにごくりと飲み込み、すかさず次へと手を伸ばした。今度は両手にひとつずつ握りしめ、二口で飲み込んでいった。

 バロンの豪快な食べっぷりを嫌そうな顔で見ていた館上は、


「おまえは、パク・ゴク、だな」


 と評した。

 悠は噴き出した。あまりに的確な表現だった。バロンはすました顔で返した。


「ワシの昼夜の体は、このおせったいでできておる。だから、食べる」

「ありがたみが感じられない食べ方だな」


 むしゃむしゃと食べるサンドイッチで頬を膨らませたバロンは、館上の嫌みなどどこ吹く風といった様子で、夢中になって食べている。


「館上さんも、つまんで」


 言いながら、悠はじぶんのサンドイッチにかぶりついた。

 館上は、紅茶を一口飲んで、軽く目を開いた。


「……悪くない」


 悠の顔が明るくなった。館上の「悪くない」は、「美味い」とほぼ同等ということを、この数日のやりとりでなんとなくわかってきた。


「ありがとう」


 悠は満面の笑みで、館上を見た。館上は少しだけ難しい顔になったのを誤魔化すように、館上のために用意したエビカツサンドを口にし、数回噛んだ。


「見た目より、いけるな」

「でしょう」


 悠は得意げな顔で、館上を見返した。


「悠は一人暮らしでもやっていけそうだな」

「え? 心配してくれてたの?」

「実家暮らししかしたことなかったんだろう。コンビニ食ばかり食べているかと」


 悠は笑った。


「母さんは働いているから、昼間はじぶんで作って食べていたんだ。といっても、こんなふうに少しだけ、手を加えて食べることが多かったから、自炊とまではいかなかったかな」

「それでもなんとかしようとしたんじゃな。偉いの」


 すでに食べ終わったバロンが、大きな赤い舌で口のまわりをひと舐めした。


「学食の量は、僕には多すぎてさ。残すのは忍びない。キャンパスの周辺の店もボリュームがあったんだ。コンビニ食が続くと飽きるし。で、じぶんでなんとかするようになった、というのもあったんだよね」

「だから小柄なのか」


 館上が納得した、という声でつぶやいた。


「今からでももう少し食べてみたらええ」


 バロンまで食べろと言いはじめ、悠は苦笑した。


「二人とも、無茶言うなあ。小さい頃から無理して食べようとすると、吐きそうになるんだよ。口がもういらないっていう感覚、わからないだろうけど」


 悠は二人に用意したぶんより少なめのサンドイッチをゆっくりと食べた。二人は、悠の食べる速度にあわせるように、ゆっくりと紅茶を飲んでいた。

 食事が終わるころ、おせったい用のサンドイッチと紅茶も空になっていた。悠は皿をすべて下げ、あらためて、四人分のお茶と果物を出した。


「では、作戦会議を始めようかのう」


 お腹をさすりながらのバロンの言葉に、館上は黒の鞄から、地図帳とパンフレットを取り出した。

 ローテーブルにそれぞれ広げて、とんとん、と主要な寺を指していった。


「済法寺は、印そのものを作る寺社とは少し違う。だが、西の端で、印に流れ込むものを受ける場所になっている。そこから東へ、持光寺、天寧寺、艮神社、と続く。済法寺では桃色の波打つ線が立ち上がって、途中で消えていた」


 悠がうなずく。館上が続ける。


「なぜ切れるのかが不明だ。そもそもおれには、線が見えない」

「持光寺にはいつ行く?」


 バロンの問いに、館上は、


「いつでも行くが、悠がいないと確認はできない。できても、見えていないものをおれは修復できない」


 バロンは、「ふむ」とつぶやいた。そして考え込むようにうつむいたが、しばらくしてゆっくりと上げた顔には苦渋の色が現れていた。


「本当はいやじゃが……ワシが案内するしかあるまい」


 耳が心なしか、垂れていた。


「ワシがおれば、涼佑にも線が見えるようになるじゃろう。そうすれば、修復もできるんじゃないか」

「おれに? 悠でなく?」

「悠にその能力はないのを知っているじゃろう」

「ないのは祓う能力だろ」

「この子は、祓う側の人間ではない。修復する術も持っとらん。けど、ただの一般人でもない。境居の家を通して、向こうの記憶を受け取る。受け取ったものを、人につなぐ。それだけじゃ」


 館上は、ああ、とため息をつくような声を出した。目を細めたバロンは続けた。


「悠はたしかに勘もいいから、つい、そっちの力があるように見えるんじゃがな」

 館上は両手で顔を覆って、上を向いた。絶句しているのか、微かなうめき声が漏れ聞こえた。 

「なんか、ごめんね、館上さん」


 悠が申し訳なさそうに言うと、


「いや、絵虹に一人でも入っていけたから、つい思い込んでしまっただけだ」


 館上はなおも顔を覆ったままだ。

 バロンはにやりとした。


「あそこは能力者でなくても店が認めたら入れるからなあ」

「聞こうと思ってたんだけど、あのお店って、どういうところなの?」


 悠はバロンに顔を向けた。

 バロンは髭を撫でながら、


「あそこは、あの世とこの世の境にある店なんじゃ」


 突拍子もない答えに、悠は目を丸くした。


「どうしてそういうことに?」

「詠子の願いがそうさせたんじゃよ」


 館上はうなずいて、


「あの魔女の思念が場所と結びついたんだ」


 と続けた。バロンの目が光った。


「知っていたのか、涼佑。あれを覚えておる者はもういないから、いわれなど知る者はいないと思っていたんじゃが」

「おれは視える側だからな。毎回、店の戸口で過去を見返し続ける人間の目や縋ろうとする手が視えている」


 館上はようやく顔から手をどけると、カップを片手で掴んで残りの液体を一気にあおるように飲み干した。


「彼女の向こうに、少なからぬ霊の気配を感じる。それが、答えだろう」


 バロンがうなずく。


「詠子はあの世に戻っていない霊を戻したい。同時に、これ以上、じぶんで命を絶つような者を出さないように、あの店を構えておる」

「え、町中なのに?」


 館上が答えた。


「尾道も、海を埋め立てて拡張してきたんだ。昔の地形の話だ」

「なるほど」


 悠は大きく頷いた。それから、朝陽が悠にくぎを刺した理由に、得心がいった。そして、店自体が、ひとの命を軽視するような人物ではないひとを選んでいる、ということだろう、と悠は考えた。

 だが、それだとなぜ詠子がそこまでしようとするのか、理由が軽いように思えた。


「詠子さんに、悲しい過去でもあったの?」


 バロンはぎょっとした。


「わかるのか」

「なんとなく」


 今度は館上がバロンに質問した。


「どういうことだ」


 バロンは館上にちらりと目をやり、悠へ戻した。


「あの場所は境なんじゃ。特にあの世と薄い膜で隔たっておる、と言ったらいいかのう。じゃから、迷い霊が漂うところじゃった。詠子は、この場所で二度と会えないと思っていた存在に触れたんじゃ。霊を慰めるために、この店を開いた。詠子は若かったころ、喫茶店を経営しようとしていたくらいじゃからな」

「店が、彼女を店主に選んだのか」


 バロンはうなずいた。


「あの店には意思がある。店主は詠子でなくても良かったろうが、店は彼女を選んだ。何らかの契約はあったんじゃないかのう。詠子はそれを承知で、役を引き受けた。詠子の年齢を聞いてみろ、空恐ろしくなるぞ」

「住職の言ってた山姥説……」

「言うな」


 館上には珍しく、動揺した声だった。バロンは含み笑いをした。


「それ以上、考えない方がいいこともあるわい」


 バロンは肩をすくめて見せた。


「腹ごしらえもしたし、いまから持光寺に行ってみようかの」


 バロンの言葉に、館上ははっとして、いつもの強い目になった。


「歩いていくには、少し暗いぞ」

「その点は心配するな。考えがある」


 バロンがすい、と二人の前に立ち、境居の家を後にした。

 バロンを先頭に、静かに下っていく。


「ここから、明るくなるからのう」


 そう言うと、バロンはどこからかステッキを取り出した。いつの間にか、頭にはシルクハットを被っている。燕尾服と合わせると、バロンはまるで古い映画にでてくる紳士のようだった。

 ステッキを掲げ、ぐるぐると大きな円を描き始めた。

 ステッキの軌道に、灰色の煙が現れる。それがあたりに立ち込めてきたころ、


「もういいぞ」


 と言って、バロンが再び歩き始めた。

 煙を突き破るようにして、前へ進んでいく。足元の石畳に道をつくる民家の明かりが落ちてきた。

 周りを見回すと、いつもと違った様子の家が立ち並んでいた。よく見ると、家と家の間が、昼間よりも開いていて、明かりも白ではなく、柔らかいオレンジ色だった。そのオレンジの光は、窓の向こうでゆらゆらと揺れていた。


 歩き続けていると、昼間には見たことのない横道があった。周りの家も、トタンで出来たものではなく、木造の土壁へと変わっていき、窓ガラスも障子になっていった。


「こっちじゃ」


 先頭に立ったバロンが振り返った。

 館上も周囲をきょろきょろと見回していたらしく、すこし離れたバロンの後を足早に追った。悠もそれにならった。

 細い道はうねうねと続き、バロンは巨体にもかかわらず、そこを身軽に進んでいく。

 悠は辻ごとに、祠や石仏が祀られていることに気がついた。

 その石仏も、輪郭がくっきりとしていて、顔立ちまで見てとれた。その前に、お花やお水がお供えされていて、町の人たちに大切にされていることがうかがえた。


「ここ、どこ?」


 悠はバロンにたずねた。どうみても、いつもと様子が違う。夜の気配も、空気の匂いもいつもとは違う。

 遠くに、子どものはしゃぐ声と、それを窘める母親の声が聞こえた。

 バロンはステッキを石畳にあてながら答えた。


「ここは、昔々の尾道じゃ。ほれ、あっちの隅で、七輪で魚を焼いておる。ああ、たまらん」

 いまにも涎をたらしそうなバロンが、ふらふらとステッキで示したほうへと歩いていきかけた。

「おい。持光寺はどうした」


 館上の低い声に、バロンははっとなって、首を二、三度振った。


「あぶないあぶない。道を外れると、帰って来られなくなるところじゃった」

「物騒だな」

「ワシの力でここに来られても、外れると元には戻れん。だから、ワシから離れるなよ」

「それは先に言っておいてよ」

 悠が抗議すると、館上もうなずいた。

「ここは、異界じゃ。生身の人間では入ることのできない次元とでも言っておこうかの。じゃけん、ワシのそばにおれ」

「ほかに気をつけることは?」


 バロンは名残惜しそうに、焼き魚の臭いのする方向を見ながら、


「ワシがいいと言わないかぎり、見えているものに触らないことじゃ」

「うわっと」


 悠は傾いた花を直そうと、祠に手を伸ばしかけたのを慌ててひっこめた。


「バロン! そういうことは最初に言ってくれよ」


 悠がぷりぷりしながら言うと、バロンは、


「他にはないから安心せい」


 と、返した。

 三人は、窓から漏れる明かりを頼りに、道を進んだ。

 少しして、バロンはまたステッキで渦を描き、煙幕の中を進んだ。

 その煙が途切れたところで、目の前に大きな石でできた入口のようなものが現れた。かたかなのコの字を伏せたような形状だ。


「持光寺の石門じゃ」


 数段の階段をあがり、その石門を間近に見上げた。

 大きくて、分厚い石の壁が組み合わされていて、天井の石もしっかりと厚みがある。いったい何枚の石板で出来ているのだろうかと、悠は見上げながら想像した。


「これは延命門と言われててな、この巨石から出るエネルギーで、延命増長のご利益があるそうじゃ」

「へえ」


 石門をくぐってみえる前方の建物が本堂だと、館上が話した。

 悠はゆっくりと周囲を見回した。

 次いで、空を見上げる。

 本堂から、桃色の波が、立ちのぼっていた。綺麗な線が、ゆったりと空を渡っていて、悠はその美しさに見とれた。その線も、やはりところどころ途切れている。

 桃色の波が向かうのは、西と東北のようだ、と悠は感じた。その方向からも波が押し寄せ、交じり合うと南下していた。

 悠はそれを指さしながら館上に伝えた。

 最初、館上は難しい顔でじっと空を見つめていた。


「バロン、見えたか」


 館上が言うと、バロンは頷いた。


「涼佑は見えんのか」


 館上はさらに難しい顔になり、空中に目を凝らした。


「やはり、わしだけでは足りんか。悠、お前が見ている場所へ館上をつなげ」

「ええ、そんなこと言われてもどうやったらいいかわからないよ」


 悠は戸惑った。だが、館上が焦っているのを見て、こちらまでもどかしくなった。


「あっち」


 そう言いながら館上の肩を叩き、綺麗に重なる線を指さした。館上は、悠の手が置かれた肩から、体温だけでなく、暖かいなにかが広がっていくことに気がつき、微かに眉を動かした。館上は最初、悠の能力かと思った。だがすぐにその考えを打ち消した。人の能力によるものなら、こんな異質な感じはしない。

 これは、悠がつながっている場所の力だ。


「あっちだと、よく見えませんか?」


 館上は悠に言われた方向へ目をむけ、あっと声をあげた。


「……見える! 本当に、桃色なんだな!」


 館上は頬を少し上気させて、線を追って、あちこちへと首を巡らせた。


「さっきまで見えなかったところに、線があるのがわかるぞ。すごいな。悠はこれをずっと見ていたのか」


 悠には、館上が呆けたように眺める気持ちが分かった。あの桃色の線は、内側から発光していて、それがきらめきながら波を発して、かなり距離のある隣の線へと渡っているのだ。その波の間隔が、本来ならもっと狭いはずなのに、ところどころ途切れ消えていて、そこが寂寥に見えて、悠には心が痛む気持ちになるのだ。


「……なるほど。修復する場所が分かったぞ」


 言うなり、館上はすたすたと暗闇を歩きだした。

 本堂ではなく、境内の片隅だった。そこだけ、闇が深い。

 悠が「待って」と、追いかけようとすると、


「そこにいろ。見ないほうがいい」


 と、館上が止めた。


「バロンから離れちゃ危ないよ」

「ああそれなら」


 と、バロンが悠に目を向けた。


「道のりは悠たちの世界とは別だが、ここは、元の世界だから大丈夫じゃ」

「早く言ってよ」


 悠が口を尖らせた。


「そういうことだからな」


 そう言って、館上は胸の前で両手を組み、悠たちに背を向けた。

 悠にはそれが、館上とじぶんとのあいだの隔絶に見えた。

 館上はそのまま、低い声でなにかをつぶやき始めた。

 館上の背中を見ながら、バロンが悠に話しかけた。


「悠が見たとしても、悪い気は起こさないと涼佑もわかっておる。だが、あいつはじぶんの手元を人に見せないと決めているんじゃ。悪く思わんでやってくれ」


 悠はバロンにうなずいた。


「さっきのは、職業倫理からだったと?」

「あいつもいつか、そうする理由を話してくれるじゃろう」

「バロンは館上さんのことに詳しいね」

「ワシの脅威になる存在のことを知っておくのは重要じゃろ」

「なるほど、敵を知れ、だったんだ」


 バロンはうなずいた。

 館上が突然、腹に響く声を出した。悠には何と言ったのかわからないが、バロンが毛を逆立て、びくっと飛び上がったことで、見えない存在への力のある言葉だと察した。

 そして、それは正解だったらしい。


「涼佑、ちっとはワシの存在も考慮しろ!」


 尻尾を地面にピシピシ叩きつけながら、バロンが叫んだ。

 涼佑は振り返り、端然たる面持ちで、悠たちのもとに引き返した。


「ほら、持光寺からの線は直ったぞ」


 言われて、悠とバロンは振り仰いだ。

 空に描かれる桃色の線が、綺麗に波打ち、次の波へと渡っている。その間隔は、本来のものだと、悠は確信した。


「綺麗」

「そうだな」


 館上が、静かに答えた。


「このまま、直していこう」


 悠と館上がバロンを見た。バロンは、

「よかろうて」

 と言って、ステッキを高く掲げて、渦を描き始めた。


 悠には、こころなしか、ステッキの高さが低く感じた。後ろから見えるはずのバロンの突き出た腹も、出発したときより、小さく感じた。

 悠の微かな違和感が形になる前に、バロンが煙幕が張られたところへ入っていく。二人は後に続いた。

 次の道は、にぎやかだった。どこからともなく、「どっこさーどっこさー、よいよいよいよい」という男衆の声が聞こえてきた。一緒に、しゃらんしゃらんと鈴の音と、低い太鼓の音が聞こえてきた。

 音があちこちから聞こえてきた。悠はきょろきょろと見回した。


「あっ」


 悠は頭上に、法被姿の男たちが神輿を担いで練り歩く行列を見つけた。

 神輿のそばには、赤い面や白い面をつけた者たちがいる。手には、輪切りにしたものを串刺しにしたような棒や、竹でできた棒を持っていた。彼らは周囲の人々をぽんぽんと叩いたり、軽く突いたりしてまわっている。

 父親に抱かれていた幼児が、赤い面の者に頭を叩かれ、わんわん泣き出した。


「そりゃ、怖いよな」


 悠がつぶやいた。


「あれは尾道ベッチャー祭じゃの」


 バロンが悠と同じように上を見ながら言った。


「尾道の祭りじゃ。ショーキーたちが持っておるササラという棒で頭を叩かれたら、賢くなると言われておる。お前も、十一月にあるお祭りで叩いてもらったらええんじゃないか」


 くすくす笑うバロンに、悠は横目でにらんだ。


「ほれ、あっちからも神輿がきたぞ」


 バロンが指さす方向から、同じ囃子と太鼓の音が聞こえてきた。一行は、今度は横向きで進んできた。かと思えば、反対方向から、やはり、横向きの神輿の一行が掛け声とともに現れた。


「この空間に上下はないのか」


 館上が言った。


「ワシが地面、と決めたところは地面になるが、ほかのところはそこの誰かが地面と決めたところが地面じゃ。こことは違う。あの行列は、ほかの次元のものだから、触れんぞ」

「こっちは向こうには見えていないのか」

「うむ。そもそも、同じ時間にいないからの」

「じゃあ、なんで僕たちには見えるの」

「そりゃあ、ワシが偉いからじゃ」


 バロンがにやりと笑った。いつもならふてぶてしく見える笑い顔のはずが、悠にはなぜか見られたくないものを隠す煙幕のように思えた。

 次に来たのは、天寧寺だった。


「今度、昼間に来るといい。細い参道で、山陽本線の線路をくぐるところがある。滅多に見られない風景の一つじゃと思うぞ」

「へえ、面白そう」


 三人は、本堂の前に立っていた。


「あっちが羅漢堂じゃ」


 指さす方には、白いどっしりとしたお堂があった。


「あいにく、今は見学はできんがな」


 悠は空を見上げて、


「あれ、本堂ともう一か所、近くから桃色の線が立ち上がってる」


 悠は本堂の向こうを指さした。


「ああ。三重塔じゃろう」


 バロンが答えた。


「行ってみるか。あっちの方が弱そうだ」


 館上の言葉通り、桃色の線は、本堂のものより細く、波が渡るうちに切れてしまうのは、向こうのほうだった。


「たぶん、三重塔から、一気に修復できると思う」


 館上の言葉に、バロンはステッキをひょいと動かした。

 次の瞬間、三人は、およそ二十メートルほどの三重塔の前に立っていた。


「立派な塔だね。夜なのに、よく見える」


 悠の言葉に、


「そりゃあ、ワシの目が見せているからの」


 と、バロンが髭を引っ張りながらこたえた。


「え! 夜目が利いてるの」

「当然じゃろ。元の空間じゃが、近くにいる者へワシの力を貸し与えることは短時間ならできる」

「便利」

「そうそう、貸さんがな。ワシが疲れるし」


 悠とバロンが話している間、館上は二人に背を向けて、持光寺と同じように修復を始めた。

 最後の一声に、またバロンが飛び跳ねた。

 バロンが館上を睨みつけるが、館上はすましたままで、どうやら改める気はないらしい。


「あれはワシらのような存在を祓うときにも使う音じゃろ。勘弁してくれ」

「余計な知識を持つからびくつくんだ。見ろ、悠は平気だろう」

「別の次元を通るから見えるようになったくせに、ちょっとはワシのために工夫せい」

「無理だ。あれが必要なんだから」


 憤懣やるかたない様子で、バロンは尻尾を何度もぴしぴしと地面に叩きつけた。


「だから、案内役は嫌だったんじゃ……」


 ぶちぶち文句を言うバロンに、悠は、


「これが済んだらうちで夜食を作るよ」


 と、慰めた。

 バロンは少しだけ明るい顔になったが、複雑な顔になった。


「生きて帰るよう、祈ってくれ」

「大げさだなあ」


 悠はあきれた。だが、バロンはいつもよりしゃべらないし、どことなく弱々しく、毛の艶もない。どうやら館上の発声に、参っているらしい。悠はそう思った。


「わかったよ。何もなく、家に帰ろうね」


 悠は館上の隣に立って、空を見上げた。桃色の線は、天寧寺の本堂から立ち上がる線と、三重塔からの線が一つになって、一層輝きを増しながら、次の寺から描かれる線に合流していった。


「綺麗だねえ」


 悠は感嘆した。

 天寧寺の三重塔からは、尾道がよく見渡せた。

 桃色の線が、波打ちながら次の線へ渡っていく。その軌跡は、うっすらと桃色の光が残っていた。

 悠は、それがある形に見えた。


「これ、蓮華の花みたい」


 悠の何気ない言葉に、館上がはっとした。

 ポケットから畳んだ紙を広げて、「そうか」とつぶやく。

 悠が覗き込む。それは、観光ガイドマップだった。館上は地図の寺の位置をなぞり、上空を見た。


「これは、片蓮華の印だ」


 館上が説明した。


「主要な寺社を結んでできる印だ。この印は、人に安らぎを与える。……慈悲の心で、この町を包み守ろうとしたのか」


 館上の声に、感嘆の色があった。

 悠は空に描かれる桃色の花びらを見上げた。

 異界から見ないとどんな印かははっきりとは分からない、と以前、館上は話していた。


「異界から見ていないのに、何の印かがわかったんだね」

「バロンの目を一時的に借りているからだろうな」


 館上は空を見上げたまま、答えた。


「ものすごいスケールだよね。誰が考えたんだろう」

「わからん。だが、寄進した者たちだけの考えではなかったろう」


 二人は肩を並べて、空に描かれる半円の蓮華を眺めた。


「おい。時間がない。次に行くぞ」


 バロンの催促に、二人ははっとなった。


「次は、艮神社だ」


 バロンがステッキを持ち上げた。

 そうやって、三人で艮神社、千光寺、大山寺、御袖天満宮、西國寺、浄土寺、海龍寺とまわっていった。


 悠には、尾道の夜空に半分だけ開いた蓮華が、ようやく一つの呼吸を取り戻したように見えた。

 すべてを修復し終えた時には、とっくに日付が変わっていた。


「今夜は、ここまでだな」


 館上はそう言うと、近くの駐車場に止めてあった車で帰っていった。


「タフだなあ」


 悠は疲労感を滲ませた声でつぶやいた。


「悠がひ弱すぎると思うぞ」


 バロンはあくびをしながら言った。いつも食べるときはもっと大きな口を開けるのに、あくびのときは小さく見えた。


「バロン、ステッキで家の前に送ってよ」


 悠が両手で拝むように言った。


「……今夜だけだぞ」


 バロンは、ステッキを振りかざした。その姿は、とても小さく見えた。




 次の日、悠は奇妙なことに気づいた。

 昨夜、あれだけ綺麗な半円の蓮華が描かれていたのに、また、波が途中でほどけてしまっているのだ。


「すべて修復したはずなのに」


 悠は戸惑った。原因はなんなのか。

 手元にある、観光マップを引っ張り出した。

 顔をしかめて紙を両手にもち、しばらくにらめっこをした。

 そして、「あ」と声を発して、二階の母の部屋にあった物差しとペンをとってきて、やおらマップの上に線を引き始めた。


「蓮華の花なんだから、こことここを結んで、花びらにして……」


 悠は、引いた線が、一か所で交差することに気づいた。観光マップには、なにも描かれていない。当然、昨日修復で訪れた寺社もなかった。


「ここ、なにがあるんだろう」


 悠はスマホで尾道の地図を出した。


「スケールが違うからわからない」


 苛立った声で、スマホの画面を閉じた。


「バロン!」


 空中に向かって、呼びかけた。

 返答はない。


「やっぱり、夜になるまで待たないとだめか」


 そこではっとして、


「館上さんに連絡してみよう」


 と、再びスマホを取り上げた。教えられた番号で、コールするが、留守番電話になっていた。仕事中で出られないのかもしれない。悠はしかたなく、要件を吹き込んで、通話を終了した。


「何かできることはないかな」


 悠はいてもたってもいられず、外へ飛び出した。

 見慣れてきた細道を下っていく。宮瀬と会話した辻に出たとき、うっすらと地面に残った四角い痕から、頼りない桃色の線がもの言いたげに、切れ切れに立ちのぼっているのが見えた。

 悠の心に、なにかがかちりと合わさった感覚が起きた。

 だが、それがなんなのかは、言葉にはならない。

 ないものにしてはいけないなにかだ。見なかったことにしてはいけないなにかなのだ。


「バロンがいてくれたらいいのに。……そうか、猫の細道だ」


 悠はリュックの中に入れて置いた観光マップを取り出した。猫道へのルートを確認する。

 焦る気持ちは消えなくて、悠は先を急いだ。

 マップで確認したところ、昨日訪れた天寧寺の裏手から行けることがわかった。


「こっちのはず」


 悠は辻で曲がり、坂を上がり始めた。

 昼間に見る三重塔は、静かに佇んでいて、訪れる者を受け入れてくれる、やわらかな存在だった。


「これ、別名海雲塔って言うんだって」


 二人連れの観光客が、ガイド本を片手に見上げていた。悠も三重塔を見上げた。桃色の線が、綺麗に空へと向かっていた。波を描いて空中を渡ろうとするが、ところどころで切れていた。


「ここもだ……」


 悠は歯噛みした。


「バロンを探そう」


 悠は先へ向かった。三重塔の裏手の石段を急ぐ。途中、ちょこんと赤い帽子をかぶった石像が祀られていた。悠は石像に小さく会釈をして、通っていった。


「ここは、守られているんだ」


 二百メートルほどの猫の細道には、福石猫と呼ばれる、小石に描かれた猫が点在している。

 細い石段は、ほとんど一人分の幅しかない。向こうからやってくる人とすれ違うのは、まさに一期一会という言葉がふさわしい。そして、あちこちに大小のころんとした石に描かれた猫たちも、そうだ。愛嬌のある、大きな目の仔もいれば、つぶらな瞳の猫もいる。それぞれ個性的な猫たちだった。

 彼らはそこに佇んでいる。じっと、訪問者を見守っている。

 尾道を見守っている。

 彼らは古くからそこにいたわけではないけれど、描いた人、訪れた人、この地で生きる人のぬくもりを抱いてそこにいる。

 悠は、猫たちを見て、たまらなく懐かしいような寂しいような気持ちになった。

 バロンが、いない。


「どこにいるんだよ」


 地図にある、尾道イーハトーヴへ足を向けた。細い道で、ゆったり昼寝しているかもしれないと思ったのだ。

 梟の館という喫茶店は、道の途中にポツンとあった。閉め切った格子戸の左手のドアが開けられていて、店の様子がうかがえた。猫の置物がたくさん置かれている、猫好きにはたまらない空間だと悠は思った。入ってみたいと思ったが、いまはバロンを探すのが先だ、とじぶんを戒めた。

 ブチ猫が、ゆったりと細道を歩いていた。


「きみ、黒毛のふてぶてしい猫がどこにいるか知らない?」


 悠の声に、ちらりと視線をあげたが、その猫は知らんふりして歩き去った。

 悠はその道をきょろきょろしながら進んでいった。

 どこかにいるような気がしたのだ。だが、見かけた猫はどれも黒い猫ではなかった。


「どこに行ったんだよ」


 ますます焦燥感が募っていき、悠はもう一度、館上のスマホを鳴らした。館上はなおも留守電で、悠は無言で切った。

 スマホを持った腕をだらりとさげて、悠はため息をついた。

 悠のスマホが急に振動し、着信音を鳴らし始めた。


「うわっ」


 びっくりしてスマホを投げ出しそうになった悠は、空いていた手でスマホを押さえた。

 発信者は、母だ。仕事中の昼間にかけてくるのは珍しい。


「母さん?」

「悠、境居の家は片づいた?」


 苛立った声だった。悠は顔をしかめた。そんなに進んでいないと答えたら、その理由を聞かれる。だからと言って、大法螺を言うと自分の首を絞める。


「車の入らない家なんだから、そんなに簡単にはいかないよ。もう少し時間がいるよ」


 やんわりと返した悠に、母は、


「あの家、売れそうなのよ。さっさと売却したいから、あと一週間くらいで何とかしなさい。業者に頼んでもいいから」

「庭の雑草処理もあるし、かなり追加料金をとられると思うよ?」

「何社かに見積もり取らせて。妥当な金額がわかるから、それで業者を選びなさい。どうしても困ったら、わたしも見るから」

「もうすこし、余裕をもらえない? 僕にとっては祖父母の家だから、丁寧に扱いたいんだよ」

「アルバム程度でじゅうぶんでしょ。がらくたをこっちに持って帰られても置く場所はないんだから」


 とりつく島もなかった。


「たのむから、せめて今月いっぱいはみてよ。お願い」


 一週間以上、二週間未満の日数だった。

 スマホの向こうで、母のため息が聞こえた。


「しかたないわね。それ以上は待たないから」


 ぶつり、と音がした。悠は、虚ろになったスマホの画面を見るともなしに眺めた。


「……時間がない」


 こうなったら、自力でやるしかない。悠はスマホ画面を切り替え、マップを呼び出した。目的地を入力する。マップ上にフラグが立った。悠は勢いよく駆け出した。




 悠が息を弾ませながら着いたところは、尾道市役所だった。

 じぶんが住む市役所より小さいのに、案内窓口がどこにあるのかわからずあたりを見回した。悠が困っているのに気がついた白髪交じりの男の人が、声をかけてくれた。悠が尋ねると、あっちだよ、と指さして教えてくれた。悠は礼を言って、案内窓口に近づいて、観光マップを広げ、線の交わったところを指で押さえて尋ねた。


「ここが、実際にはどのあたりか調べたいんです。たぶん、このあたりに歴史的な建物があったと思うんです。どこに行ったらわかりますか?」


 年若い受付の女性は、肩にかかる髪をすべらし、そうですね、と少し首を傾げて、


「それでしたら、文化振興課か、中央図書館の郷土資料のほうですね」


 と答えた。

 悠はお礼を言って、文化振興課へ足を向けた。

 そこで対応してくれたのは、すらりとした若い男性だった。悠が出した観光マップに、


「なるほど」


 とうなずきながら、現在の実測の尾道地図を出してきた。


「なかなか、難しいものですよね」


 地図上を指でたどりながら職員がつぶやく。

 そこへ、奥のデスクから眼鏡をかけた白髪の、小柄な職員が出てきた。


「私も拝見しましょうか」


 そう言って、悠の観光マップと現在の地図を見比べた。しばらく交互に眺めた後、おそらくですが、と前置きして、


「ここは十四日元町、ではないでしょうか」

「どうしてわかるんです?」


 最初に対応した若い職員が言った。年配の職員は、彼をちらりと見て、マップに目を落とした。


「この方の持参したマップの線が、観光スポットの寺社から伸びているでしょう。実際の地図の計測とは違う。ということは、お探しの点にあたるところも、そういう建造物になるかもしれない。そして、いちばん気になるのが、このあたりに薬師堂通りという名前の通りがあるということです」

「そこに、なにかあったんですか?」


 悠が尋ねると、職員は、困ったような顔になった。


「それはここでは明言いたしかねます。詳しくは、中央図書館の郷土資料を当たられることをお勧めします」


 悠は唇をかんだ。職員として、不正確なことを言えないのはわかるが、推測でも教えてくれれば十分なヒントになったはずだった。


「わかりました。ありがとうございました」


 悠は頭を軽く下げ、立ち去った。次は、図書館だ。再びスマホで検索する。意外にも近くにある。


「自転車、レンタルしようかな」


 足が棒になり始めた。だが、止まるわけにはいかない。

 緩い坂を上がって着いたのは、かわいらしい建物だった。

 中に入り、受付へ直行した。用件を言うと、対応してもらえた。


「この辺りにあると思いますよ」


 悠は書架から、古地図・市史・展示解説資料などの、めぼしいものを抜き出した。

 地図がなかなか見つからず、再び、司書に尋ねた。


「これでしょうかね」


 男性司書が出してくれた古地図を受け取り、悠は机に置いて丹念に調べた。

 ヒントは、十四日元町だ。

 関連図書と、地図を頼りに、悠は目を走らせた。

 小一時間が経ったころ、悠は小さく叫んだ。

 見つけたのは、「成福寺」の文字だった。


『成福寺(薬師堂・稲荷社)跡』とあった。十四日元町の薬師堂通り付近のようだった。つまり、現在で言うと、長江口から南下して商店街を過ぎた、海岸側へ下る通りのあたりだ。

「寺として残っていない。だけど、薬師堂小路、薬師堂浜という地名に、残っている」

 成福寺は、18世紀に商家などの個人から町内有志のグループが寄進者だった。薬師開帳に寄せられた寄進目録まで残っていた。見れば、金銭だけでなく、餅や幕などの供物や物品もあったようだ。


「つまり、一部の権力者だけの寺じゃなくて、町の人たちの信仰と寄進に支えられていた寺ってことだと思う」


 この薬師堂通りは、石見銀山通りという名の通りとつながっている。島根県の石見銀山からもたらされた銀鉱石や銀地金が街道で運ばれ、海路で大阪まで運ばれたと書かれてあった。


「地名があるということは、位置を残しているってことだよね」


 悠の心に、小さな明りが灯った。

 存在はしないが、位置があるから印の中心として働いている。だが、完全ではない。

 成福寺は、時期は不明だが、廃寺になっていた。

 その文を見た悠は、文字を追いながら、だんだん胸が苦しくなってきた。

 成福寺は消えたのではない。

 消された後も、名前だけで、道だけで、町の人の記憶だけで、まだそこに踏みとどまっている。

 悠は唇を噛み、先を読んだ。

 本尊であった薬師如来像は、本寺である常称寺へ移され、稲荷は艮神社へ移されたとあった。建物自体は、市街地の変化の中で消えてしまったのかもしれない。


「什器や木材とか瓦とか、せめて、御檀家さんたちのもとに渡っていたらいいと思うな」


 成福寺は、明治の神仏分離の流れの中で、廃寺になったのかもしれない。はっきりとした時期は、この資料だけではわからない。けれど、尾道の印はその頃からずっと、こうして不完全のまま、守護を続けていたのではないだろうか。


「不完全だけど、守りは続けられていた。それは、当時の人々が心を向けていたからだ」


 あちこちにある、石仏や小さな祠が、それを物語っている。


「寄港地なら、外からの信仰も入ってきたかもしれないし。なら、情報や知識も入ってきていてもおかしくはない」


 だから、この印を思いついたのかもしれない。


「いったい、誰なんだろうな。こんなスケールの大きい仕掛けを考え、施した人って」


 悠は改めて、感心した。

 稲荷社と薬師如来像は、本来の位置からそんなに遠くない常称寺と艮神社へ移されていたのもよかったのかもしれない。

 ただ、なぜ廃寺になったのか、これだけの資料ではわからなかった。理由はともかく、存在しないという現実に対処するしかない。


「ここまでを一気に調べたんだ。僕、褒められてもいいんじゃないかな」


 悠は資料室の椅子に沈み込んでしまった。

 静かな図書館の中で、悠のスマホの着信音が鳴った。利用者たちの視線が一斉に悠へ向けられた。

 びくっとして、悠は反射的に立ち上がり、リュックとともに速足で外に出た。


「悠、なにがあった」


 館上だ。悠の顔がぱっと明るくなった。


「あのね」


 悠はこれまで調べたことを館上に早口でまくしたてた。


「バロンがいないのは、石になって猫道で寝てるか、どっかの家でえさをあたえられているからかもしれないから、夜まで心配するのはやめておけ。それと、おれは当分、身動きが取れなくなったから、悠とバロンで動いてほしい」


 館上の声に疲労が滲んでいた。


「来られないの? どうして?」


「相談事が立て込んでいるんだ。急に増えやがった。福山の人間で、尾道に勤務しているとか、遊びに行ってからおかしくなったとか、そういう者ばかりだ。におうだろ」


 スマホを握る悠の指先がすっと温度を失う。


「それって、僕らが修復したせい?」

「そんなわけあるか」


 館上が一蹴した。


「故意の妨害だ。おれに修復させないようにしているやつがいるということだ。……これで、この印の綻びが自然ではなく、人の手による悪意によるものだとわかった。それだけでも前進だな」

「でも」


 館上は低い声で笑った。


「上等だ。おれたちの仕事を増やすだけでなく、尾道の印を壊そうというやつと、必ず決着をつけてやる。悠、頼むぞ」

「ええっ、頼むって僕に何ができるんだよ」

「まずは、常称寺と艮神社へ行ってこい。悠ならご本尊を見たらなにか感じるはずだ。それと、薬師堂通りを歩いて行けよ」

「僕、今日はものすごい距離を歩いているんだけど」

「尾道のレンタサイクルを使え。三時間で三千円。一日五千円だ」

「……買おうかなあ」

「好きにしろ」


 通話を終えた悠は、資料室へ戻った。机の上の資料を片づけると、成福寺があったと思われる場所へ行ってみることにした。


「でもなあ、これから引き返して歩くのか……」


 悠は明日はレンタサイクルを頼ろう、と決意した。


「こんなとき、バロンがいてくれたら、歩く距離を短縮できたのに」


 時間が惜しくて、途中で、おにぎりを買って、お茶で流し込んでお昼代わりにした。

 あと少しで目的地だが、あたりは民家や食事処ばかりだった。だが、桃色の線が場所を告げている。

 片蓮華印をつくるその線は、なにもないところから崩れていっていた。


「やっぱり……」


 悠は唇をかんだ。

 これを見て、バロンなら、何と言うだろうか。

 いない者に頼っても仕方がない。じぶんも疲れ果てて頭が働かない。悠は重だるくなった足を引きずるようにして、境居の家に帰っていった。


 夜、重い足をなだめながら店に寄って買い込んできたお菓子を籠一杯に詰め、バロンが来るのを待った。バロンも夕食を食べるだろうと思って、おせったい分を含めて三人分、用意した。夜の七時を過ぎ、八時になっても、バロンは現れなかった。

 悠は、黒く重い塊を呑み込んだような気持ちになった。

 どうしていいかわからず、居間の窓を開けて、外を見た。初めてみた時と同じ、旧尾道の夜景が見えた。うっすらと、桃色の花びらが見える。


「バロン!」


 悠の声が夜空に溶けていく。


「晩ご飯ができてるよ! 一緒に食べよう!」


 夜の気配は静かなまま、悠の声を散らしていった。

 悠は窓を開けたまま、バロンが今にも姿を現すのではないかと、待った。

 夜の風は少し寒く、やがて悠の指先から体温を奪っていった。

 悠は肩を落とし、窓を閉めた。レースのカーテンと、厚手のカーテンを閉めた。


「だれもいないなんて、初めてだ」


 悠はローテーブルの上に並べたままの夕ご飯を見た。

 いつものように、三人前、作っておいた。

 どの皿も、手つかずだった。

 悠はのろのろと、手をあげ箸を取った。


「いただきます」


 力のない声だった。静まり返った居間で、箸を動かし食べる夕ご飯はもそもそとして、味気なかった。

 ゆっくりと食べたにもかかわらず、食事が終わるまでバロンはやってこなかった。

 おせったいの皿の中だけが、きれいに片づいていた。

 バロンがいなくても、この家にいるかぎり、おせったいは続けていかなくてはいけない。

 では、この家が売却されたら?

 次の主に、この家のルールを知らせて、続けてくれるように頼む? それでその人は快諾してくれる?


「どうしたらいいんだろう」


 悠はソファに突っ伏した。

 頭も体も、動かない。

 悠は目を閉じて、世界のすべてから逃げ出した。

 

 


  

 



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