第十章 招かれざる客
「入れるなって、どういうこと? なんでだめなんだよ」
眉をひそめながら問う悠に、バロンはいくぶん苛立った声音でこたえた。
「この家の意味をわかっておらんのか。この家はな、あるじが招き入れたものを拒むことはない。迷うたもの、帰り道をなくしたものを一度招きいれて、飯を食わせ、帰していく存在なんじゃ」
それは、今までの居間の様子から、悠にもうっすらと理解できていた。悠はゆっくりうなずいた。
「招くということは、相手に席を与えるということ。席を与えれば、どうなると思う?」
「客になるってこと?」
「客はなにをする?」
「うちでくつろぐ」
バロンは目を細めて鼻を鳴らした。
「悠が人様の家に上がってじぶんちのように過ごせるほど呑気な性格なのはわかった。じゃが、正解ではない」
悠はむくれた。
「じゃあ、どういうことなんだよ」
「この家で席を得たものは、家の中を観察するじゃろうが。家の内側をじっくり見る。見る者が見たらどこが弱点かわかる」
「弱点?」
バロンはうなずいた。
「この家は、招き入れたものをおせったいする。それを機能させている場の、弱点を折ってしまえば?」
悠は息をのんだ。
「……おせったいが止まってしまう」
バロンは深くうなずいた。
悠は首をかしげた。
「でもさ、相手は人間じゃないか。母さんの知り合いで、買い手側の関係者だよ。それに家を買う前に中を見たいというのって、普通に考えたら当然だし、家に入れないほうがおかしいよ」
バロンはキッと悠をにらんだ。
「ばかもん。普通に来るから怖いんじゃ。お前は世間を知らなすぎる。普通の仮面を被って、いい人のラベルを世間からもらって貼っている者ほど、恐ろしいものはないぞ。だれだって節分のような鬼の仮面をつけていたら仲よくしようともせんし、家に入れようとはせんだろう」
バロンは大きく息を吐いた。バロンの目の端に、うっすらと疲労の影がはりついている。
「バロン、大丈夫?」
悠はそっと手を伸ばし、バロンの頭を撫でた。
バロンはそれまでの苛立ちを薄めてされるがままになり、気持ちよさそうに目を細めた。
悠の手のひらにあたる黒毛は、少しごわごわしていた。バロンは明らかに弱っている。あの、異界をわたって寺に向かった翌日、バロンは姿を現さなかった。もしかしたら、顕現できなかったのかもしれない、という考えが、悠の心に浮かんだ。
「ねえ、バロン。もしかして、相当疲れているんじゃないの?」
撫で続けながら悠が尋ねると、バロンは片目だけ開けて悠を見た。
「ワシの力は、人間でいうと幼児並みなんじゃ。ワシの尻尾は一本しかなかろう。これがせめて、二本だったら、ここまで消耗はせん」
悠に見せるように尻尾を揺らしながら、バロンは言った。
「今夜のワシは、あまりここにおられん。だから、要点だけ伝える。黙って聞け。そして、守れ」
「弱ってても、バロンはバロンだね」
バロンはまた鼻をふん、と鳴らした。
「いいか。まず、外の門から庭までは入らせてもかまわん。あの門は、この世側の境居の境界の門じゃからの。じゃが、家の中には誰も何も入れるんじゃないぞ。玄関の敷居を一歩でも跨がせてはならん。おせったいをするな。茶も水も出してはならん。家の中の写真を追加で撮ってきてくれと言われても応じるな」
バロンはそこで悠の手をやんわりとどけ、居住まいを正して言った。
「なにより、『どうぞ』を言ってはならんぞ」
悠は目を瞬いた。
「そんなの、ただの言葉でしょ。それがいちばん大事なの?」
バロンは頷いた。
「この家の中では、ただの言葉では済まされん」
いつにない緊張感のこもった声に、悠は気圧されるように頷いた。
「わかったよ」
「わかったら、さっさと燈子に返信せい。ワシはもうすぐ消える」
悠はスマホを手に取り、先ほどの母のメッセージを出した。
『明後日、都合はどう?』の問いを見て、胸が軋んだ。
母はこの家から解放されたい。母が長年、この家のために苦しんできたことは事実だ。
この家を売れば、確かに母の心は楽になるだろう。
でも、宮瀬美凪が関わっている。
バロンは彼女の名前を見て、「入れてはならん」と言う。入れたら、この家のおせったいが、最悪、途切れてしまうだろう。それは、尾道を守ろうとした人たちの心を砕いてしまうことにつながる。
頼りになる館上は動けない。
「僕、止められるかな」
悠は返信を打ち込み始めた。
『明後日とのことだけど、まだ片づけている途中で、人に見せられないほど散らかってるから、外観だけで対応させてほしい。内見はもう少し後にさせてほしい』
メッセージを打つ手が少しだけ汗ばんだ。送信ボタンを押して、やれやれと思ったところで、着信のメロディが流れた。
母からだ。ボタンを押して、スマホを耳に当てると同時に、母の声が流れてきた。
「悠、何を考えているの。わたしはこの家を早く売りたいと何度も言ったわよね」
母の声は、怒りよりも焦燥感が滲んでいた。
「わかっているよ。だけど」
「だけどもなにもないのよ。買いたいって思ってくれる人がいる今がチャンスなのよ」
燈子は早口でまくし立てた。
「そもそもあなたに頼んだのは、その家を淡々と片づけてくれると思ったからよ。そうでなかったら、頼んだりしないわ」
頭を殴られたようだった。
母は、最初から、じぶんを母の手足のように使える便利な処理道具としてここへ送ったのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間、悠の心の奥が冷えた。
じぶんは、これまで母の言うことを尊重してきた。別に、反抗する理由がなかったからだ。それは、母に息子には反抗する意思がないと思わせたのか。
悠は奥歯をかみしめながらつぶやいた。
「僕って、母さんのいいように使える道具だったんだ」
「え? なに?」
悠はスマホを握りしめた。
「最初、母さんは、ここを見て来いって言ったんだよ」
震える声で、悠は続けた。
「だから、見たんだ。見たら、放っておけないものや、見ないふりができないものがあったんだよ。だから」
「また家の話をする気?」
母のとがった声がさえぎった。
「悠まで、わたしの母と同じことを言うのね」
悠は喉の奥に、重い塊を呑み込んだようだった。
「子どものころ、わたしは母に何度も、家の中に何かがいると訴えた。だけど母は、笑ってごまかすばっかりで、なにもしてくれなかった。悪さをしてないでしょうって。悪さをしていないから、わたしは怖くて気持ち悪いものを我慢させられ続けたの。それなのに、悠まで家になにかがあってそれを大事にしたいって、母と同じだわ。冗談じゃない」
刺すような母の声に、悠の心臓が冷えていく。
「聞いてよ。僕は、この家を売るなって言ってるんじゃない」
「あたりまえよ。あなたにはその権利はないわ」
権利がない、と言う言葉が、なぜか悠の心の奥深くに突き刺さった。
「……ただ、今回、人を入れるのは待ってくれって言っているんだ」
出てきた声は、じぶんでも驚くほど弱々しいものだった。
母は容赦なく強い声音で返してきた。
「片づけの最中は散らかっていたって当然だから気にすることじゃないでしょう」
「そうじゃなくて」
悠はもどかしげにスマホを握りしめ直した。
「宮瀬さんだけは、今はだめなんだ」
「……どういうことよ」
燈子の声が低くなった。
「彼女に見せたくないっていう理由はなんなのよ?」
悠はほぞをかんだ。この時点で、母に聞かせれば、なおのこと売却へ加速がついてしまう。
燈子は冷めた声で語った。
「あのね、美凪はわたしがこの家で困っているとき、親身になってくれた唯一の人なの。彼女がいなかったら、いまのわたしはいないわ。それほど信用している人なの。わたしはその家のことを思い出すたび、いまでも胸を抑え込まれるような感覚になるし、足元にまた得体のしれないものが当たるかもしれないという恐怖感が湧くの。あなたにはわからないでしょうけどね」
返す言葉がなかった。母の日記に書かれていた気持ちは、今もなお色褪せずに母の心の中に居座っているのだ。
宮瀬美凪は、たしかに正しいことを言っている。彼女と話をしたあと、悠にはどうしても相いれない感覚が残った。それを母に話しても理解されはしないだろう。それどころか、宮瀬の主張に諸手を挙げて賛成するに違いない。
「頼むよ、母さん」
心の中で渦巻くたくさんの色の思いに揺さぶられる中、絞り出した言葉だった。
スマホの向こうで、ため息が聞こえた。
「明後日の予定は変えないから。宮瀬さんには外だけでも見てもらいます。でも、これ以上の先延ばしは認めない」
突き放すような声だった。言葉の終わりとともに、通信の切れる音がした。
悠の全身から力が抜けた。
悠は耳に当てていたスマホをおろし、通話終了の文字をずっと見続けた。
「おい、うまくいったか」
バロンの声に、悠はのろのろと顔をあげた。
バロンの体が、なんとなくしぼんで見えた。
悠は力なくうなずいた。
「ならいい。明後日をとにかく乗り切ることじゃ」
バロンは眠たげにあくびをした。
「そろそろワシは帰ろうかの」
よっこらしょ、ローテーブルに手をついて立ち上がった。
その拍子に、黒籠がことり、と揺れた。
それを見て悠は、思い出した。
籠の写真だ。
「バロン、見てほしいものがあるんだけど」
目をこするバロンに、スマホの写真画像を見せた。そこには、陽の光を反射させた中に映った「三」のようなものと、意味不明の形をしたものがあった。
バロンの目が、くわっと開いた。
「これはどこで撮った?」
さっきまでのだるそうな声が消えている。
「この部屋だよ。この、黒籠」
バロンは、詰められていたお菓子がなくなった籠を持ち上げ、目をすがめてあちこちをなめるように見た。それから、すんすん、と鼻を近づけた。
「……古いな」
バロンは黒籠を丁寧な所作でローテーブルに置いた。
「どういうこと? おばあさんたちのものより古いってこと?」
バロンは頷いて、腕を組んだ。
「匂いが独特なんじゃ。……そう、遠く向こうに、線香の香りがする」
「ここ、仏壇はなかったよね」
「ということは、やはり……うむむ」
バロンは目を閉じて首をひねり、またうなった。
「焦らさないでよ」
「そう急かすな。これは、軽い気持ちで口にしていいことではないからのう」
バロンは両手で籠を持ち上げ、裏底を見た。
「やはりか」
うなずき、籠をローテーブルに置くと、悠へ目を向けた。
「これは、もしかしたら成福寺に由来するものかもしれん」
「由来するって、お寺のものってこと? なんでそう思ったの」
「この、ひっかき傷に見える『三』は、もしかしたら、寺紋だったかもしれん。この寺は常称寺の末寺じゃった。だが、寺紋とは断定はできん。成福寺がみっつに分かれて残ったことを示すようにも見える」
悠は相槌を打った。
「それからこの変形文字は、おそらく梵字じゃろう」
「梵字って?」
「要するに、これは仏や菩薩を象徴する文字じゃ。薬師如来をあらわすものなら、たいてい、ベイと読む」
ちなみに、こっちが上じゃ、と悠の写真の下部を指した。
「反対から撮ったか」
悠は苦笑いした。
「知らんもんはそうなるのもしかたない」
そういうものか、と悠は思ったところへ、
「お前は本当に、こういうジャンルに興味をもたんかったんじゃのう」
半ば呆れを乗せた声でバロンが言った。
「ゲームできてたら、他はどうでもよかったからね」
親に言われたことをやり、塾に通い、周りが頷く程度の学力をつける時間以外は、ほとんどゲームしかやってこなかった。外にでかけてまで遊ぶクラスメイト達を眺めて、じぶんはさっさと家に戻った。ネットはゲームの攻略に関係するものを中心に見るだけだった。熱を注いだものと言えば、ゲームの実況解説動画の主が面白い人だからと、その人の動画を追っかけたくらいだ。
だから、母にいいように扱われたのだ。
先ほどの母とのやりとりで、悠の十代は、苦いものに塗り替えられてしまった。
母が悪いのではない。じぶんが、なにも考えずに暮らしていただけだ。だれにも拳を向けることのできない、閉じた苦しみは、母の十代の苦しみとは別の色をしたものだけど、母と同じように、じぶんの人生に影を落とし、問いかけるものになるかもしれない。
ただ、母と違う点があるとすれば、じぶんはその陰を、見つめ続ける胆力を、この尾道でつけさせてもらえているということだ。
「僕には、バロンも館上さんもいるからね」
「何の話じゃ」
悠は微笑して、なんでもない、と首を振った。
「この写真の記号みたいなものの由来がわかってすっきりしたよ」
と、告げた悠に、バロンは目を剥いた。
「お前はどうしてそう楽観的なんだ。これは重大な発見なんだぞ」
きょとんとする悠に、バロンは続けた。
「ええか。『三』にはおそらくいろんな意味が重ねられていると思ったほうがいい。成福寺の本尊は薬師如来。稲荷は艮神社。名前は薬師通り。それらは成福寺から三か所に散った。名前はどこに行ったか、わかった。じゃが、役目はどこへ行った? なぜ、成福寺跡の周辺から、この家に線が延びている?」
悠の背筋が、ぞくりとした。
バロンの翡翠の目がまっすぐ悠を捉えた。
「この籠は成福寺のものかもしれん。あるいは、成福寺がなくなったあと、この家がそこの代わりになるために、そうなったのかもしれん」
「なんでそうなったの」
「そこまではワシにもわからん」
バロンは口を曲げた。
「ただのう、ものというものは、人が使い続ければ、それまでただの器でも、そのままではいられないものじゃ。それは、わかるだろう?」
悠は、頭の中をひっかきまわして昔話を思い出した。たしか、ものを使い込んだら、魂が宿る、だったか。
この家でおせったいに使われる器としてずっと使われていた黒籠は、いつのまにか、ここを訪れるものたちの目印にもなっていた、ということかもしれない。客間にあったからといって、客間だけのものではなかったのだろう。居間でも客間でも、客を迎える場所に置かれることで、黒籠は役目を果たしていたのだ。そうすると、訪問者たちの思いが籠に役目をもたせたということになるのだろうか。だとしたら、それは、なにを意味するのだろうか。その答えにあと少しで届きそうだけれど、悠の中では言葉にならなかった。
悠はそっと黒籠を手に取った。室内の照明を受けて、艶のある表面の一部が白く反射した。
「きっとこれ、漆塗だよね、バロン」
返事がなかった。
「バロン?」
バロンの姿はなかった。さっきまで座っていたソファには、かすかなくぼみができていた。
「帰っちゃったんだね」
急に、居間が広く感じた。
昨夜と同じ、心細さが悠の足元に這い寄ってきた。
悠はスマホで、館上を呼び出した。数コールのあと、館上が出た。
「どうした」
「あのね」
悠は黒籠にあった印と、バロンの話をした後、明後日の内見の話をした。
「あの女か!」
忌々しそうな声だった。
「高校生だった宮瀬は、一度、師匠に祓いを頼みに来たことがある。あの時、彼女は友人を救いたいと言っていた。それがおそらく、悠の母親だったんだ」
「なんで、母さんだとわかるの?」
「境居の家に執着している。アドバイザーがなぜ境居の家を直に見たがる? 十代だった宮瀬は、師匠は役立たずだから、自分でなんとかすると息巻いて帰っていった。それを、果たそうとしているに違いない」
「そんな、赤の他人の、しかも相当昔の話なのに」
「その点は同意する。だが、あの女にはその理屈は通らない。潰すと言ったら潰す。何年経っていようとな」
悠の脳裏に、昼間、質問者に宮瀬の柔和な笑顔で答えている姿が浮かんだ。
「いいか、明後日は絶対にあの女に敷居を跨がせるな」
「それはバロンにも言われた。家に入れるなって」
「当然だな。言っておくが、玄関だけじゃないぞ。窓からのぞきこませてもだめだ。写真も断れというのはそういうことだ。濡れ縁に座らせてくれと言ってきても断れよ」
「わかった。窓にはカーテンを引いておくよ」
「それからな」
館上はそこで言葉を切り、一段低い声に変わった。
「決して『どうぞ』と言うな。これが一番重要だ。わかるか」
「館上さんも、その言葉に注意しろっていうんだね」
「も、ということはバロンにも言われたか」
「うん。同じことを言ってた」
「それだけ、重要なことだ。理由は聞いたか」
「それはまだ。籠の話をしていたら、いつの間にか消えていた」
「籠?」
悠は写真を転送した。バロンに言われたことを館上に話すと、
「これで、境居の家が代わりをしていた理由が深くなったな」
しみじみとした声だった。
「ただ単に、おせったいをしていたから、だけではなかったということだ。いったいだれが、こんな途方もないことを引き受けようと決めたんだろうな」
悠も、そこは相槌を打った。
先ほどの、言葉にならなかった答えが心の奥から湧き上がってきた。
「今思ったんだけど、聞いてくれる?」
「なんだ」
「はじめは、この家って、おせったいをすることで、片蓮華印の要のような役目をしているって思っていたんだけど、要そのものじゃなくて、成福寺が抜けたところを、この家が支えていたってことだよね」
「無理やり、かもしれん」
「その線もあるんだ」
悠はうなった。
館上はそれはそうと、と話を続けた。
「昨日、母親に写真を送ったと言ったな。居間や客間、籠、敷居は写したか」
「写してません。二階の空き部屋と外観だけです。居間は、なんとなく写したくなくて」
「なら、まだましだ」
「よかった」
「ともかく」
館上は声を改めて、言った。
「バロンの言っていた方針に賛成だ。内見は延期し、外観のみの確認で済ませろ。写真も撮るな。鍵も見せたり触らせるな。写真を撮られてスペアを作られることも考慮しろ。紹介者は、そうだな、家の所有者なしに中へは入れられないとでも言っておけ。当面しのげるだろう。それからな」
「まだあるの」
「ある。あの女と議論はするな」
「議論? するかなあ」
「あいつの常套手段だ。あれはいつももっともらしいことを言って、じぶんが得意とする舞台に引きずり込む。正論にはなにも勝てない。だから、あくまでも売却のための作業中で無理だと言い張れ。作業、役所の手続きで通せ。くれぐれも、感情で動くなよ」
館上の指摘に、悠は宮瀬との会話を思い出した。あの時の宙に浮いた感情が蘇った。
「わかった」
悠は誓いの言葉のように、館上へ返した。
翌朝、悠はいつもより早起きした。宮瀬の訪問が明日だと思うと、落ち着かなかった。
身支度を済ませてすぐ、家じゅうの掃除をした。食欲がなかったからだ。
トイレ掃除も、台所も、ピカピカにした。家の中が済んだら、玄関の掃除をした。それから、念入りに敷居を拭いた。そこまでやって、無理やりだったが簡単な朝食にした。味はしなかった。
いつも使っているローテーブルを拭いた。籠を手にして、しばらく悩んだ。家にあげるつもりはない。だが、万が一、上がられたときにこの籠を見られたらまずいような気がした。
悠は少し考えて、大ぶりの布巾で巻いて、四隅を籠の内側に折り込み、そのうえにお菓子を詰め込んだ。こうすれば、普通の入れ物に見える。
じぶんの朝ご飯しか作っていなかったことを思い出し、おせったい用の皿を用意した。それをローテーブルに運び置いた。見られたら、じぶん用だと言えばいい。
そのあと、窓を拭き、敷居を拭き、濡れ縁を拭いた。
「外から入れる場所は、掃除できたかな」
悠は続けて、祖父母が残してくれた皿を洗い始めた。食器棚にあった、よそゆきの顔をしていると思った皿だ。丁寧に洗って、一枚一枚、そっと扱った。そうしていると、横に祖母が一緒に立って片づけをしてくれているような気持ちになった。
「おばあさん、本当はこういうことを母さんとしたかったんだろうな」
しみじみした気持ちで、悠は皿を洗っていった。
食器かごがいっぱいになったところで、悠は手を止めた。
ふと思い立ち、玄関に足を向けた。たたきに、扉の曇りガラス越しに差し込む日の光が落ちていた。
「この家は、拒むために建っているわけじゃなくて、訪問者を迎え入れるためにあるんだな」
拒絶するなら、外の様子なんて、見えなくていい。入る者の気配を感じ取る必要などないからだ。
「この家は、外を拒んでいない。だから、守るためには鍵だけでは足りないんだ。だから、僕は迎え入れる者を、間違えちゃいけない」
居間に戻って、水を飲んだ。おなかはすかないけれど、喉だけはやたらと乾いた。
昼前に、宮瀬から直接、悠のスマホに連絡が入った。母が番号を教えたのだろう。
「突然ごめんなさいね。先日お目にかかりました、宮瀬美凪です。お母さまから、直接あなたに連絡をしてほしいと頼まれました。今、お時間はよろしいでしょうか」
優しくやわらかな口調だった。バロンや館上たちからの警告がなければ、悠はきっと弾んだ声で返していただろう。
スマホを持つ悠の手が、じんわりと汗ばみ始めた。
「おひとりで片づけをされていると伺いました。大変でしょう。ものが少ない家であろうと、家具のような物理的にかさばったり重いものもあれば、故人を偲ぶものという、品物の重さでは測れない思いも片づける対象になりますもの。なかなかはかどらないのも、無理はないかと存じます」
その言葉は、悠の心の底にあった、疎遠な祖父母への思慕へと刺さった。
「そうなんです。これはもしかしたら、母に遺していたんじゃないかと思うものとか、処分に悩みます」
「それは当然のお気持ちかと」
「ありがとうございます」
母にも言われなかった言葉を、宮瀬は次々と悠に与えていった。
「わずかな時間で一軒まるごと整理するのは、ひとりでは難しいものです。業者に頼むにしても、遺品整理は業者を選ばなくてはなりません。選んでも、見積もりを数社にとってもらい、比較検討をしていくとなると、時間はかかります。悠さんは、よくやっていらっしゃると思いますよ」
胸が詰まった。どうしてこの人は、ここまで理解してくれるのだろう。
「それで、明日の件ですが」
その言葉で、悠ははっとなった。
「外観だけとのことでしたが、売却となると、やはり水回りですとか、梁、床の状態など、外から見ただけでは傷み具合がわからないところを見て確認しておく必要が出てきます」
宮瀬の言うことは、まさに正論だった。じぶんでも、家を買うとまではいかなくても、借りようとする所は、中の状態をしっかりじぶんの目で確かめたいと思う。
「そうですね」
悠は相槌を打った。
宮瀬は話を続けた。
「境居邸を潰したいというわけではないのです。誰も住まないまま放置される家は傷みが進みます。それは、故人にとっても、遺族にとっても、望まないことだと思うのです」
「はい」
「空き家となった家を、再生させる。それが、わたしのライフワークなのです。誰も住まなくなった家に、新しい役目を持たせる。それは、尾道にもプラスに働くと思いませんか」
その通りだ。それが、本当に、尾道にも、先祖代々、この地に住んでいる人のためなら。
悠は、スマホを握り直した。
「あの、お伺いしたいことがあります」
「なんでしょう」
「新しい役目とおっしゃいましたが、それは誰が決めるんですか」
スマホのむこうが、静かになった。一瞬の間だった。
宮瀬は、先ほどと同じ静かで柔らかな口調で返してきた。
「それは、残るものが決めることになります」
「残るものって、だれですか」
「残るものは人であったり、ものであったりでしょう。少なくとも、手放し去る側ではありません」
「僕が決められないってことですか。残しておきたいものがあるという願いは、聞き入れられないんですか」
「残れないものまで抱えていたら、いつまでたっても再生はできないでしょう。重たいものをずっと抱えたまま古い船に乗っていたら、その船はいつか沈没するでしょう。尾道も同じことです。不要な重さを抱えていたら、尾道という船は沈んでしまう可能性が大きい。そう思いませんか」
その後、悠はじぶんがなんと返したのか、はっきりと覚えていなかった。ただ、宮瀬からいろいろな言い回しで内見を求められても、「できません」と一本調子で断ったことだけは、覚えていた。
結局、その日は、家の中を整えるだけで終わった。
そして翌朝、宮瀬がやって来る、内見の日を迎えた。悠は朝早くから、庭の草むしりをしていた。背中に感じる日差しが少し強くなってきたと思っていたら、門の外から声をかけられた。見ると、宮瀬が門越しに、手を振っていた。
悠は慌てて、立ち上がった。
「お時間よりも早めに訪問してごめんなさいね」
口元に微笑をたたえ、少し困ったような表情を浮かべた宮瀬は、両手を合わせて悠を拝むようなしぐさをした。髪を後ろで一つに結わえ、白のブラウスに紺のスラックスを合わせ、足元は黒のスニーカーだった。坂の町と呼ばれる尾道を歩きなれたいでたちだった。
「近くまで来たので、ずうずうしくも参りました」
約束の時間には、あと二時間ほどあった。それで庭の手入れを少し進めておこうとしていたところだった。
不意打ちの訪問に、悠は心が揺れた。中に入れないように、万全な用意をしようと思っていたのが、ふいになったのだ。
なにより、心の準備ができていない。
バロンもいない。館上も、尾道には来られない。
心拍数があがっていく。
「せめて、外観だけでも見ておきたいので、今からお願いできるかしら」
「……外観、だけなら」
悠はゆっくりと門を開けた。地面が見えるようになった庭に、宮瀬はゆっくりと入った。
庭をぐるりと見まわし、家の全体をじっくりと見ていく。
「素敵な外装ですね。趣味の良い方が建てられて、それから丁寧に住まわれた家だと感じます」
親族の家を褒められて、悪い気はしなかった。
褒めながらも、宮瀬はじっと家を見回している。その目は、家の外観を丹念に観察しているというより、どこか粗を探しているようだ、と悠には感じた。
「あの、うちの中には、入ってもらえませんので」
悠の言葉に、宮瀬は顔を向け、にこりとした。
「ええ。お母さまからお話は伺っています。無理強いはいたしません」
でも、と宮瀬は続けた。
「燈子さんはこの家にずいぶんと苦しい思いをさせられていました。それは、古いものを守るということに重きを置いてしまったが故の、燈子さんが被った傷です。ここは」
そう言って、宮瀬は境居の家と庭を手で示し、
「ここにある記憶は、美しいものばかりではないということです」
宮瀬の言うとおりだった。
悠はうなずくしかなかった。
「いつまでも、古い記憶に縛られる必要はありません。住む人のいない家も、誰も手入れしない祠も、残された人だけを縛ることがある。からめとっている糸をほどき、境居家を終わらせる。それもまた、この家の供養になると思いませんか」
尾道を知る者の、圧倒的な力を帯びた言葉だった。その通りだと、悠も思った。だが。
「守るべきものも、あると思います」
か細い声だった。
「ずっと大切にしていたものを、守りたいと願うものがいるのなら、それを大切にしていけばいいんじゃないですか」
「燈子さんを苦しめたまま?」
悠は息をのんだ。
「たしかに、燈子さんはある意味、この地で守られていたかもしれません。だけど、それが幸福につながるとは限らない」
宮瀬は言葉を重ねた。
「燈子さんは、だから、ここからずっと出ていきたかったんです」
宮瀬は足元を指さしながら言った。
「あなたがいま、守ろうとしているものって、果たして燈子さんを、お母さまを、守っているの? 守りたいものを救えたとして、それはお母さまを救っているといえるの?」
「母は、救いたいと思っています」
「だったら」
「でも、なにも考えずに母が怖がったものを含めてぜんぶ壊すのは、話が違うと思っています」
宮瀬の奥二重の柔和な目元が、ひきつった。
「なにも、なかったことにするつもりはないのよ。ただ、終わらせるだけ」
何かを押し殺すような声だった。視線は鋭く、ぴたりと悠の目を捉えて離さなかった。
宮瀬の声に乗せられていた色はなんなのか。悠の背中がぞくりとした。
思わず手を握りしめた。昼の日差しの下にいるというのに、手先が冷えていた。
宮瀬はそこで、ふっと、目元を緩めた。
「少し、喉が渇いてしまいました。お水を一杯、いただけないかしら」
悠は口元をきつく結んだ。反射的に、「いいですよ」と、言ってしまいそうだったのだ。
昼の日差しの中、喉が渇くのは自然だ。訪ねてきた人に、水の一杯くらいは用意する。それが、礼儀だろう。
――茶も水も、出すな。
バロンの声が、脳裏に蘇った。
「だめかしら?」
宮瀬が首を傾けて、にこりとした。
本当に喉が渇いているのだろう。ハンカチを取り出し、首元を拭っていた。脱水症状が出る前に、水分補給はしておきたいのは、当然だ。
お水、一杯くらい、人として。
悠が口を開きかけたとき、庭へ通じる窓の奥から、ことりと布に包まれたものが動く音がした。続いて、窓辺近くに、誰かが近寄ってくる気配がした。カーテン越しに、こちらを見ているような視線も。
悠の周りを纏っていた膜が、ぱちんとはじけた感覚が走った。
悠はびくりと体をはねさせ、窓へ目をむけた。微かにレースのカーテンが揺れている。
「ごめんなさい。お水は、出せません。かわりに、坂の下の自販機で買ってきます。ちょっと待っててもらえますか」
宮瀬は微笑みながら、ゆっくりと首を振った。
「それにはおよびません。……、あなた、しっかりしていらっしゃるのね」
「すみません」
悠は頭を下げた。
「意思をしっかりもっているところなんて、燈子さんそっくりですね」
その言葉に、悠は複雑な気持ちになった。以前のじぶんなら、うれしく思ったかもしれない。だが、今となっては、それはいいことだけとは、思えなかった。
そろそろお暇しますという宮瀬の言葉に、悠は心からほっとした。表情にでないように自制をしながら、彼女のうしろをついて行こうとした。
そのとき、
「……あら」
宮瀬は門のそばにしゃがみ込んだ。悠が声をかける間もなく、黒い小石をつまみ上げた。
悠はその色の石に見覚えがあった。
たしか、ここに来た日、館上に対する苛立ちをぶつけるように、庭の隅にあった石積みを蹴った。そのときに壊れ落ちた、あの欠片では。
まさか。
庭の隅にあったはずの、あの欠片が、門のそばまで来るはずはない。悠は心に立ち上る不安を否定した。
宮瀬は目の近くで、ためつすがめつ眺めている。
だが、その目は、凝視というより、どこかぼんやりとした、遠くの、ベールの向こうを見るような目だった。
目の奥が、濁っている。悠の腹の奥がぞわりと捻じれた。
「崩れて、いますね」
宮瀬の口元が、かすかに吊り上がる。
「古い家は、こういうところから、傷みが出てくるものです」
悠にはどこか、喜色の含まれた声に聞こえた。
「門は、傾いていないと思います」
悠は門を軋みもなく開閉させ、ぴたりと隙間なく閉めた。ほら、と宮瀬に顔を向けたとき、彼女はポケットから手を出しているところだった。そのポケットから、先ほど使っていたハンカチの端がのぞいていた。
「そうですね」
宮瀬は微笑し、門を出て行った。
悠はぺこりと頭を下げて、見送った。
夜になり、ローテーブルの前のソファに、バロンが現れた。悠はあらかじめ夕食の皿を並べ、ソファにぐったりと伏せっていた。
「悠、どうだった」
バロンはさっそく箸を持ち上げた。
「いただきます」
バロンは悠の返事を待たず、食べ始めた。昨日より、すこし体が大きくなったバロンは、翡翠の目をきらきらさせて、大口をあけてカツオのたたきを食べ始めた。
「うまい。ショウガが最高。新玉ねぎも最高。ワシ、最高」
むしゃむしゃ食べ始めたバロンを見て、悠はうれしくなった。
「バロンは、こうでなくちゃ」
「悠も食べろ。うまいぞ」
よっこらしょ、と体を起こし、悠は箸をとった。少し横になったとはいえ、早朝からの掃除に、不意打ちの宮瀬との対決をした体は、まだ重かった。
「とりあえず、中には入れなかったし、水も出さなかったよ」
バロンはうんうん、とうなずいた。
「上出来じゃ。ようやった」
「ありがとう」
ねぎらいの言葉は、思った以上に心にしみた。
二人が夕食を平らげ、デザートのスイカを食べるころになって、バロンが毛を逆立てた。
「……道が、細くなっている」
バロンは三つ目の夕食の皿を指さした。皿の上には、半分ほど残っていた。
「いつもなら、空になっているのに」
得体のしれない不快感が、足元から上がってくる。
「入れなかったのに、なんでこんなことに」
「わからん」
バロンの瞳孔が細くなった。
「入れなかったのに、どうしてか、見られたんじゃろうな」
「そんなことができるの?」
「できるわけないと思ったから、中に入れなんだ。じゃが、宮瀬美凪という女は、中を見なくても、家の弱点を見つけ、そこを壊してきた」
昼間の宮瀬の言葉が、悠の心に浮かんだ。
『からめとっている糸をほどき、境居家を終わらせる』
あれは、そういうことだったのか。
「あの人は、本気で、この家を、壊そうとしているんだ」
悠は閉めていたカーテンを開けた。乱暴な手つきで窓を開け、濡れ縁に出た。
「……ここまで来てない。桃色の線が、途中で切れてる」
悠の脳裏に、昼間の光景がよみがえった。
「そういえば、宮瀬さんは、門のそばに落ちていた黒い小石を拾ってた」
「庭の小石じゃと?」
悠は、庭の石積みを蹴ったこと、その欠片が、どういうわけか、門のところまで転がっていたらしいことを話した。
「あの女は石ころからでも、操れるのか。本来は、外門から庭先までなら、安全だったはずなのにのう」
バロンが悠の横に立ち、目をすがめた。
「まずいことになった」
バロンはそこで居間を振り返った。半分減ったおせったいの皿がことりと小さく揺れた。
「じゃが、まだ当て木はへし折られていない」
再び夜空を二人で見上げる。
艮神社からの赤い糸が、時折、引っ張られるように波を打っている。成福寺から延びる線は、途中で捻じれ、細っていた。
遠くの常称寺から来ていた細い線は、ここまで届いていない。
「なんでだよ」
悠は泣きたくなった。
「ちゃんと、中に入れなかったのに。何も出さなかったし、どうぞって言わなかった」
うつむく悠に、バロンがそっと手を当てた。
「今日のところは、入れない、招待しない、ができたんじゃ。それでいい」
「……いいとは思えないよ」
「まだ、おせったいは途切れておらん」
「そうだけど。なんだか悔しいよ」
「宮瀬が一枚上手だった。それだけじゃ」
うん、と悠はうなずいた。
「じゃが、これ以上は許されん。あれは、次は確実にこの家を壊しに来る。それも、外からな」
バロンは続けた。
「じゃから、迎えるべきものを、先に迎えよう」
「誰を迎えるの?」
バロンはそこで、にやりと笑った。
「成福寺に残ったもの、じゃ」
悠はバロンの双眸が、きらりと光るのを見た。
「悠、明日の夜、成福寺へ行く。館上も強制招集じゃ」
悠は首を傾げた。
「成福寺は、残ってないじゃん」
バロンは爪をにょきっと出した指で、ちっちっ、と横に振った。
「ないから、行くんよ」
悠は顔をしかめた。
悠の背後の夜空が、いつもより深いまなざしで、尾道を見下ろしていた。
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