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夜の波紋は、坂の上まで届く ――尾道の古い家で、見えない客におせったいをする――  作者: 飛絽じゅらん


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第十一章 成福寺に残ったもの

 まぶたに光を感じ、悠はゆっくりと目を開けた。昨夜はあまり眠れなかった。夜中に何度も目が覚めた。そのたびに、宮瀬がしゃがみ込んだ場所を思い出した。

浅い眠りのせいか、全身が重かった。

居間に降りて、カーテンを開けた。気持ちの良い朝の柔らかな光が入ってくるけれど、居間の空気はどことなく淀んでいた。

 なにより、なにかが薄れつつある。

 その感覚が、悠の沈んだ心に追い打ちをかけた。

 息苦しさを覚えて、窓を開けた。


 遠くで鳥がさえずっている。近所から、洗濯機の音や掃除機の音が悠の耳元に流れてきた。今まで聞き流してきた、当たり前と思っていた日常の生活音が、緩い風に乗って、悠と境居の居間を訪れている。

 家の内側は、昨夜よりも、なにかがどことなく遠くに行ってしまったように感じた。

 悠は濡れ縁に出て、サンダルを履いて、宮瀬が小石を拾った場所へ行った。地面に目をやる。

 ……ない。

 宮瀬が手に取ったあの黒い石の欠片のようなものが、どこにも見当たらない。あたりを見回してみる。地面には刈ったばかりなのに、また草の芽がでていた。その間をかき分けて探してみるが、やはり石の欠片は見つからなかった。


 悠は、初日に蹴った庭石の場所に行った。そこは、黒い石積みの一部が崩れ落ちたままになっていた。周辺に欠片が散らかっていた。

 あの日、石積みを蹴ったとき、石は思った以上に広く散っていたのかもしれない。

 雑草の根元や、門の脇の土に、小さな黒い欠片がいくつか紛れていた。

そのうちのひとつを、宮瀬は選んで拾ったのだ。

 庭にある石積みと周辺の欠片の色を見て、やはり宮瀬が見ていた欠片はここの石のものだと確信した。

 もう一度、門のあたりに戻って、今度は地面に膝をつけて探してみた。宮瀬が拾った石のあたりの地面に、よく見なければわからない程度の窪みがあった。それは、たしかに昨日までそこに石があったという痕跡だった。

 悠は窪みにそっと手を当てた。

 宮瀬さんは、確かに家には入らなかった。

 じぶんは、乞われても、水を出さなかった。「どうぞ」も言わなかった。


「だけど、あの人は、持って行ったんだ」


 この家のものを。

 この家の、一部を。


「入らずに、持って行ったんだ」


 悠の指が地面を抉り、ぎゅっと握り固められた。拳を地面に叩きつけた。

 あの日、じぶんはむしゃくしゃしていた。

 母の家の前までタクシーが入らないことを母は教えてくれなかったこと。 それで肩が抜けそうなほど重い荷物を両手に坂を上がることになったこと。

 不躾な訪問をした館上の対応、ご褒美プリンを一番おいしい状態で食べられなかったこと。

 苛立ち、庭の岩石を蹴って八つ当たりした。崩れるとは思わなかった石段は、脆く崩れた。

 その欠片が、門の近くにまで移動してしまった。

 宮瀬はそれを持ち帰った。


「あの人が持ち帰るほど、この石段には意味があったということ?」


 悠はもう一度、あの日を振り返った。石段を蹴ったとき、じぶんは何を思ったか。

 そうだ。あのあと、あたりの空気がどんよりとして……気持ち悪かった。

 悠は、あたりの気配にあらためて注意を払った。

 あの時感じた淀みは、いまもこの辺りを取り巻いていた。


「僕は、取り返しのつかないことをしたんだ……」


 崩れた石段を呆然と見た。


「どうしよう」


 声が震える。

 不安と恐怖が、全身を覆い始めた。視界が一段、暗くなった。何かに呑み込まれそうだ、と思ったとき、鳥が、ピィーッ、と鳴きながら悠の頭上を飛んで行った。


「あ……」


 さっきまでじぶんにまとわりつきそうになった気配が、引き潮のように後ずさっていった。悠はゆっくりと、空へ顔を向けた。

 鳥はまっすぐな線を描いて、澄んだ上空を飛んでいた。その姿はやがて、小さな点になった。

 微風が悠の頬を撫でていった。

 顔に受ける陽の温かさが、心地いい。

 悠は大きく深呼吸した。


「……そうだね。失敗したことは覆らない。だったら、これから何をするか、だよね」


 悠は居間に戻った。昨夜、出したままの黒籠が気になった。

 いつもなら、籠の中は、朝にはなくなっているか、少なくなっていた。

 今朝は、違った。

 小皿に置いていた、悠のお気に入りのクッキーが、湿気ていた。

 冷えても美味しいハトムギ茶は、湯飲み茶椀に注いだ時のまま残っていた。なにより、居間には、なにかが通っていった気配が感じられなかった。

「道が細くなっておる」と、バロンは言った。

 それを、目の前の皿や黒籠が現実として教えてくれた。


「通れるものが、通れなくなってきている。つまり、来たくても、来られないってことなんだ」


 おせったいが、不完全なものになった。


「それって、失敗したってことだよね」


 境居の家が守ってきたことを、じぶんが守れなくした。


「バロンに言われてとりあえず始めた。おばさんがやっていたらしいから、やってみた。だけど、やると決めたのは、僕だ」


 じぶんが夕食の皿を出さなければ、来られない存在がいる。じぶんの過ちで、来られなくなる存在がいる。

 悠は窓辺に戻り、窓を開けた。少しだけ、大きい声で、話し始めた。


「バロン、僕、わかったよ。迎え入れるって意味が。迎えるのと入れるのは、全然別の話なんだね」


 いまできることは、おせったいだ。だったら、精一杯のおせったいをしたい。

 悠は台所へ顔を向けた。

 よそゆきの顔をしていると感じた皿に、目がとまった。

 普段用の皿ではない、あの皿を使ったらいいかもしれない。祖母の承諾なしに使うのは少し気が引けた。だが、いま、使いたい。


「おばあさんも、許してくれるよね」


 大事な場面だからこそ、ちゃんとしたものを使う。人が、檜舞台に立つときに、スーツを着るのと同じだ。

 やれることが、一つ見つかった。

 次は、小石のことを確認することだ。夜まで待っていられない。

 悠はスマホで館上に連絡を入れた。


「なにかあったのか」


 電話に出た館上の声に、疲労の色が滲んでいた。心が痛んだが、今は後回しだ、と悠はじぶんを諫めた。


「昨日、宮瀬さんがうちの石の破片を持ち帰った。その夜のおせったいの皿が、半分しか減らなくなったんだ」

「どういうことだ」


 館上の声が、途端に鋭くなった。

 悠は、初日に庭の石段のようなものを蹴り崩したこと、宮瀬がそれを手に取って異様な目つきで見ていたこと、その夜からおせったいの道が細くなったとバロンが言ったことを話した。


「石積みのような塊が、庭にあったんだな。それは、黒の石か?」

「どうしてわかったの」


 スマホの向こうで、ため息が聞こえた。


「持っていかれたんだ。石にこめられた意味に気づいて、壊しにかかってきた」

「あの石積みに、意味があったってこと?」

「大ありだ。お前が壊した石積みは、いわゆる結界だったんだ」

「結界?」

「境居の家は、ちょうど境に立っているんだよ。立ち位置としては、絵虹に近い。だから、バロンがやって来られるし、おせったいもできた。その家に住む者になんの害もなく、いままで穏便にやって来られたのは、その石積みが壁となって、悪いものが入れないようにしていたんだよ」


 悠は、言葉が見つからなかった。


「うちは、バロンと通った異界と隣り合わせだったってこと?」

「そうなるだろうよ。あの特殊な崩れやすい黒い石は、普通の家の庭に置かれるものではない。その方面に詳しいものでないと知らない石なんだ。そもそも高価だしな。宮瀬が食いつく黒い石の欠片で、おせったいが止まったとなったら、そう考える方が筋が通る」


 館上が電話の向こうで唸った。


「境居の家は思っていた以上に特殊な立ち位置にあるぞ。石積みは、すべてを拒むようにはできていない。通していいものとそうではないものを分ける壁、と考えた方が辻褄が合う」


 館上が電話越しにため息をついた。


「門は、人間を入れるための境目だ。庭までは、この世の客として扱える。玄関の敷居は別だ。そこを跨がせれば、家の中に席を与えることになる。おせったいをする側に入れるかどうかの境目だ」


 館上は一度言葉を切った。


「だが、庭の石積みはさらに別だ。あれは異界側から来るものを選り分けるための壁だった。通していいものと、通してはならんものを分けていたんだ」

「だから、宮瀬さんは」


 悠の言葉はそこで途切れた。館上が引き継ぐ。


「……宮瀬は石が結界の役をしていたことを見破った。あの女なら、欠片からでも気配で読めるだろうよ。その欠片を持ち帰ることで、害のあるもののかわりに、結界を歪め、道を細くして、最終的には入れなくしていったんだ」

「そんな……。なんでそんなこと」

「宮瀬は、おれたちのような祓いをするわけではない。呪術を扱う者ではないはずだ。ましてや、バロンのように異界を渡る能力もない。ただな、壊れかけた場所だとか、古くなった理屈、ほころびかけた感情を見つけるのが異様に上手いんだ」


 宮瀬の涼し気な微笑が心に浮かんだ。あの理知的な瞳の奥で、彼女はいったいなにを考えていたのか。


「彼女は破壊する力そのものが強いわけではない。だから、綻びから根底を変えていく」

「宮瀬さんは、だったら、なにが強いの?」

「壊していいと思った場所の、いちばん弱い部分を見つけることだ」


 だから、欠片を持ち帰ったのか。

 悠の腹が、そこから冷えていった。


「悠、宮瀬は境居の家をどうあっても、今とは違うものに変えようとしている」


 石の欠片をじっと見ていた宮瀬の目は、どんよりとしていた。


「再生への願いというより、執念のような気がする」


 あのとき、じぶんはぞっとした。


「同感だ。あの女は、尾道のプロジェクトという大義名分のもとで、何かの復讐をしているように、おれは感じている」

「復讐ですか。いったいなんのためなんでしょうね」

「知らん。ともかく、おれは今夜、かならず尾道に行く。だが、おそらく遅れていくことになるはずだ」

「まだ、妨害が?」

「それもある。ただ、おれが本調子じゃない。力がぼやけている」

「どういうことですか」

「嵌められたんだ。出先で肉を食わされた」

「うわ」


 館上が喫茶絵虹で言っていた。肉を口にすれば力が鈍る、と。


「こうなったら師匠を巻き込む。というか、師匠を使ってなんとかする」


 館上の声に、力がこもっていた。こころなしか苛立ちが混ざっているようで、それが気力へと還元されているらしかった。


「本調子じゃないからこそ、しくじれない。かならず、今夜は尾道へ行って役を果たす」

「わかった。バロンと待ってるね」

「だからな、あの黒籠を持って成福寺に行け」

「え? あの籠? なんで?」

「行けばわかる」


 それで、館上との通信が切れてしまった。妨害は、もしかしたら電波にまで及んでいるのかもしれない。そう考えているじぶんに気がつき、口元を緩めた。

 今までの呑気な生活の中で途中で切れたら、電波の弱いところに移動したのかな、くらいにしか考えなかっただろう。それが、尾道に来て数日経っただけで、いろんな見方をするようになった。

 初めて、腹の底からじぶんはどうしたいのかを考えた。

 いまは悠に、力を貸してくれる人がいる。


「やれることをやるんだ」


 通話終了の画面を見て、悠はじぶんが少し元気になっているのを感じた。


「よし、まずはおせったいの準備だ」


 悠は、祖母が大切にしていたと思われる、よそゆきの皿を取り出した。黒籠の代わりには、それがふさわしいと思った。

 その上に、丁寧に個包装の和菓子を並べていく。おせったい用の夕食も用意した。今夜はいつ帰ってくるかわからない。だから、おにぎりと卵焼き、肉じゃがにした。これなら冷めてもおいしいはずだ。夕食の皿も、来客用と思われるセットのものを使った。箱に入っていたその食器類を取り出すとき、横にあった小箱も開けた。その中には、縫い目のそろった刺し子の布巾が入っていた。晒はしっかりした状態で、使っていないようにみえた。


「おばあさん、手先が器用だったんだな」


 刺し子の布巾は箱いっぱいに何枚も入っていて、それぞれが違う模様だった。

 皿はどれも素朴で、なんにでもあわせられるものだった。祖母は、気取らない、穏やかな生活をするのが好きだったのではないか、と悠は想像した。 祖母がどんな人だったか、正確にはわからない。それでも、台所や食器類、なにより一階のすっきりした空間を見て、祖母は静かに、大切なものを守ってきた人なのだと悠は感じた。


「おばあさんはここで、壁に守られて、おせったいをしていたんだね」


 きっと祖母は、それを無意識に理解していたのではないか。だから、現実の人間も、むやみに家に上がらせなかったように思えた。


「おばあさんはきっと、ちゃんと区別していたんだ」


 よそゆきの皿は、どこも欠けていなかった。来客用の皿の箱も傷んでいないことから、そんなに使われてはいないとわかった。

 祖母は、なんでも入れることはしなかった。だから、姿の見えないバロンも、ちゃんと区別したうえで、家にいることを許したのだ。ただし、母を怖がらせたバロンには怒った。


「ぼくも、それができるようになるんだ」


 悠は口元を引き締めた。

 食器をいいものにしたし、どうせならと、今まで以上の大ぶりの急須を出してきて、濃い目にたっぷりと作っておいた。

 夕方になった。悠は、窓のカーテンを引き、玄関にしっかりと鍵をかけた。

 出発前、館上に言われた黒籠をリュックに入れた。リュックの中には、菓子と水を入れた。そのあと少し考え、菓子のほかにおにぎりを作り、厚手の皿を入れた。

リュックの中身だけを見れば、まるでピクニックに行くみたいだな、と気づいて悠はくすりと笑った。


「そんな浮かれた気分にはなれないけどね」


 重いリュックを背負った。悠の気持ちも、重くなった。当然だ、と悠はじぶんに言い聞かせた。これからやろうとしていることは、遊びではないのだ。

 悠は足の向くまま、庭にまわった。そこから、ゆっくりと夕闇が濃くなっていく景色をしばらく眺めた。家の明かりがだんだんはっきりと見えてくる。いつもと変わりのない風景だ。湿り気を帯びてきた空気が、微かに揺れたような気配がした。振り向くと、濃い闇色のなかから、バロンが現れた。

 バロンは、昨日より少し大きくなっていた。だが、まだ翡翠色の目には、初めて会った時ほどの強さが戻っていなかった。

 バロンの目は、崩れた石積みに向けられていた。


「庭までは、この世の客に見せてもええ場所じゃと思っとった。敷居を越えさせんことばかり考えとったんじゃ」


 バロンは低く唸った。


「けど、あの欠片はただの庭石じゃなかった。境居の家と異界を仕分ける壁の欠片じゃった。あれを持っていかれた時点で、庭の外へ、壁の切れ端を渡したのと同じことになったんじゃ」


 二人の間に、沈黙が落ちた。

 悠は、もう一度、崩れた石積みに目を向けた。

 バロンはちらりと悠のリュックに目をやった。


「……黒籠を持ち出したのか」

「うん、館上さんが持って行けって」

「あいつは危険回避能力に長けておるのう」


 バロンが口元を曲げた。


「どういう意味?」

「いろんな意味があるが、悠への安全策をとった、ということじゃのう」

「ぼくへの安全?」

「今夜、決着をつけるためでもある」


 バロンは目を細めて笑った。さて、まずは成福寺のあったあたりへ移動するかのう」

 そう言って、ステッキを取り出そうとしたバロンに、悠は声をかけた。


「待って。まだ宵だから歩いていくよ」


 バロンは片耳をピクリと動かした。


「ワシがこの格好で外を歩けるわけなかろう」

「だったら、普通の猫になれば? ぼくがだっこして歩いていくよ」


 バロンの尻尾がぴしりと地面を打った。


「なんじゃと。ワシに猫の真似をしろと?」

「バロンは猫じゃん」

「ワシは猫ではない! 偉大な存在じゃ」

「はいはい、偉大な存在の猫なんだよね」

「悠!」


 悠は苦笑した。噛みつきそうな表情をしていても、以前ほどの大きさに戻っていないバロンでは、おっかなさもふてぶてしさも感じないのだ。


「バロンはまだ、本調子じゃないんでしょ。体力は温存した方がいいと思うよ」

「くぅっ。悠から正論攻撃を受けるとは!」


 悠は両手を広げた。


「ほら、遠慮しないで」

「あっち向いてろ」


 言われた通りに、悠はくるりとバロンに背を向けた。背後で気配が揺れた。もういいの、と声をかけようとしたところに、足元になにかがすり寄った。

 真っ黒な毛に、前足の先だけが白い猫がいた。


「バロン、おいで」


 悠はしゃがんでバロンを抱きかかえようとした。バロンはその手をよけ、ぴょんとジャンプして悠の肩に登った。


「え、肩に乗せて移動しろって?」


 バロンは見かけより重量があった。


「キャップを被るべき?」


 側にいるのは黄色ではなく、黒の猫だ。


「余計なことはせんでいい」


 不機嫌そうな声だった。


「うわ、しゃべるんだ」

「当たり前じゃ。にゃんとでも鳴くと思ったか」

「思った」


 バロンが尻尾で悠の後頭を勢いよく叩いた。


「痛いって」


 顔をしかめる悠に、バロンは冷たく言い放った。


「早う出発せい」


 悠はなれない肩の重みに気を使いながら、門へと歩いて行った。よくよく考えてみれば、猫を散歩に連れ出すなど、聞いたことがなかったな、と思ったが、気にするのをやめた。

 ゆっくりと歩いて坂道を下りていく。細い道を挟む家々の窓から、明かりが漏れて、悠の足元を薄く照らした。


 昼間は観光地になるこの細い道は、夜になるとまったく別の顔になる。

 昼間は時の流れをゆっくりに感じさせ、訪れた人に、

「ゆっくりして行きんさい」

 と言っているように感じさせる。実際、人々は自分のペースを守りながら、訪れた人をもてなしている、と悠には感じられた。そして、夜になると、人々は自分の暮らしに目を向ける町になる。一部の観光客相手の店でない限り、尾道の夜は早いのだ。等身大の姿で人を迎え入れる人々だからこそ、訪れた人のこわばった心が緩んで、居心地のよい場所になっている。悠は国道沿いを歩きながら、そう思った。


 歩いていると思った以上に、肩に乗ったバロンは注目を浴びた。見知らぬ人でも、すれ違いざまに、「かわいい」とか、「賢い猫ちゃんね」とか、目を細めて声をかけてきた。その都度、悠はにこっとして、「どうも」と言って別れた。

 それが良かったのか、バロンは薬師堂通りに来る頃には、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。

 肩の上で、きょろきょろとあたりを見回したバロンは、


「あの隅へ行け」


 と、悠を誘導した。人目につかないような、物陰だった。


「ここから、ワシの異界へ入っていく」

「館上さんは?」

「あいつなら、この辺りに来たところで合図を送ってくるはずじゃ」

「そんなに簡単にできるの?」

「涼佑はとっくにワシの気配を覚えておるじゃろう。だったら、ワシを想起し念じれば、あれの力がワシに届く」

「二人に共通する世界って、すごいものなんだなとしか言えないよ」


 バロンは音もなく地面に飛び降りると、猫の姿から、直立歩行の猫の姿になった。


「涼佑は祓う力で、ワシは祓われる危険察知能力で、わかるということじゃ。なにもすごくはない。むしろ、ワシの身の危険の方が大きいわ。ワシが痛い思いをするんじゃろうしな」

「だったら、ここで館上さんを待っていたほうがよくない?」

「そうもいかん」


 バロンが暗くなった空を見上げた。


「館上は来る。ワシらは先に移動して、やれることをやるんじゃ」


 バロンはステッキを高く掲げ、以前の渦巻きとは違う、何かの文様を描き始めた。ステッキの先が動くと、その後に飛行機雲のような白い線が生まれていく。

 白の線は薄く発光し、線と交わったところから、ぱちぱちと光がはじけるように光った。


「ワシから離れるなよ」


 見たことのない文様は、バロンがステッキで大きな円を描いたことで巨大化した。

 ぐんぐん空へ伸びていく文様は、やがて大きな観音開きの扉になった。悠が見上げても、終わりが見えないほどの高さだった。

 明らかに、線の修復のために通った空間とは違うものだと、悠にもわかった。それは、容易な気持ちで入っていいところではないということだ。

 バロンがステッキをちょんちょん、と二度あてた。

 扉は音もなく、左右に開いた。

 扉の向こうは、真っ暗だ。

 絵虹の入口より、闇色が濃い。扉から零れてくる得体のしれない気配に、悠の腹の底がざわついた。


「行くぞ。覚悟はいいな」


 背中の黒籠がずしりと重みを増したように感じた。悠はしっかりとうなずいた。

 バロンは満足そうに、にやりと笑った。

 バロンが真っ暗な空間に身を入れたあと、悠は一呼吸おいて、後を追った。

 絵虹では、暗闇の周りに人の目や手があった。ここにはそれはないけれど、それよりも根源的な恐ろしさを感じた。それが、一歩目をためらわせた。


 真っ暗闇だと思っていた空間は、次の瞬間、尾道の街並みに変わっていた。

 二号線沿いにあった、空き地と思われていた場所に、家が建っていた。

 宮瀬が数人を前にして説明していた、移動させたという祠が、そこにあった。

 辻ごとに、かわいらしい祠や石仏があった。着物を着た子どもたちが、その前を通り過ぎようとして引き返し、しゃがんで手を合わせ、にっこりして去っていった。

 着物の裾をからげて足早に歩く男たちが、口々に「船が着いたぞ」、「待ってた荷が来たぞ」とうれしそうに叫んでいた。

 悠の鼻先に、塩の臭いが漂った。

 改めて見た祠に、ろうそくの炎が揺らいでいた。供えられた黄色い花が、かすかに揺れた。


「荷を降ろせ」

「荷車をまわせ」


 遠くで、男たちが叫んでいた。

 空気がちがう、と悠は思った。

 今までの尾道で嗅いでいた空気は、こんなに潮の香りはしなかった。まるで、すぐそばに海岸線があるみたいだ。

 そう思った悠は、はっとあたりを見回した。

 バロンの姿が見えない。


「バロン!」


 悠が叫んだとたん、さっきまであった祠や、潮の香りが消えた。


『ワシから離れたら、二度と元の世界には帰れない』


 バロンの言葉が頭をよぎった。


「バロン! どこにいるの!」


 叫びながら、あたりを何度も見回す。

 足が震えて、動けなかった。

 腹が冷え、萎えそうになった。

 リュックが、くい、と後ろに引っ張られた。


「え?」


 悠は後ろに首を巡らせたが、誰もいなかった。だが、リュックは、くい、と後ろに引っ張られた。それで、悠ははっと気がついた。

「……違う。リュックの中が、後ろに行こうとしているんだ」

 黒籠だ。

 悠は直感した。

 黒籠が、道を教えてくれている。

 悠は背中のリュックを前にもってきて、抱えるようにした。リュックはくいくい、と悠の足を前に進めさせた。悠はその力に方向を委ねた。






 館上は、薄暗くなってきた山のふもと近くで、師匠と対峙していた。ここは師匠の所有する土地で、あたりに人の気配はなく、ただ、異様な圧だけが、その場にかかっていた。

 師匠は片手に実体のない、苔色をしたエネルギー体を掴んでいた。その苔色の所々が、薄い緑色に発光して、翡翠のように見えた。

 館上は、師匠のとぼけた顔を睨んだままだ。


「まさか、異界にいるバロンの一部を、ここの境界から引きずり出したんじゃないでしょうね」


 師匠の口元が、かすかに緩んだ。

 正解か。館上は小さく舌を打った。


「お前の鈍った力の足しにするには、これが一番なじみやすいと言うのに、なぜ拒む」

「そいつは、バロンは印を完全に修復するために必要なんです」

「だから? お前の頼みを聞くために、わしがわざわざ境界に来て捕まえた。ありがたく受け取れ」


 師匠は、ぐぐ、とエネルギー体を握っている手に力を込めた。小柄で細身の体のどこにそんな力があるのか、と驚くほどの気の気配が、師匠から放たれた。


「お断りします! ほかの方法を考えてください!」


 館上は押し殺した声で叫びながら、師匠の手を掴もうとした。師匠はそれをひょいと避け、ふん、と鼻を鳴らした。


「それが本当の理由なら、異界渡りのための呪法をやればいいだろう。それに、こいつは」


 と言って、握ったエネルギー体に目を向け、


「こいつは十分すぎるほど、おせったいを受けてきた。もう居座る理由もないはずだ」


 師匠は、苔色から濁った深緑へ変色していく塊に目を向けると、


「いいかげん、本来のいくべきところへ行ったらどうだ」


 そうだろう、とエネルギー体に話しかけた。


 エネルギー体は、苦しそうに小さくうねり、きゅっと窄んでしまった。


「ほれ、本人もわかっておる」


 師匠は薄く笑うと、手に力を込めた。小さく球体になったエネルギー体は一部が小さな球体を作り始め、元の球体から離れ始めた。だが、元の球体が必死に小さな球体を包み込もうとしてうごめき、一つの突起を作って館上に伸ばそうとしているように見えた。

 バロンの意思だ。館上は直感した。

 バロンは、命乞いをしているのではない。悠を、守ろうとしている。

 館上は、自分の勘が正しいと、理由なしにはっきりと確信した。


「……バロンは、道を知っている。おそらく悠はいま、たった一人で異界にいる。そこから悠をこっちに連れ戻す役目がある。いま、ここで切り離したら、成福寺の中で悠は孤立し、帰って来られないかもしれないんです」


 館上はもう一度、師匠の手にある球体を払おうとした。師匠はまた、軽々と身をかわした。


「それに!」


 館上は、ほしいものを大人にお預けされた子供のように、師匠の手にすがろうと躍起になった。


「おれは、バロンを使い潰すことはできません!」


 館上は怒った顔で師匠をにらみつけ、今までと全く違う、容赦のない手つきで師匠に襲いかかった。

 師匠はばっ、と後ろへ大きく跳躍した。館上の両手が、空を切っておろされ、上体が前のめりになったところで踏みとどまった。


「涼佑は、たくさんのものを手に持ち過ぎる。だから、いつまでたっても独鈷杵なのだ。ひとつに絞れば、三鈷杵でも五鈷杵でも扱える器だと、何遍も言っておろうが」


 館上は、うつむき、両手をぐっと握りしめた。


「……おれは、今のままでいい」


 小さな声だった。拳が、小さく震え始めた。


「おれは、自分が守ると決めたものを守れるなら、独鈷杵でかまわない」


 ゆっくりと、館上は顔をあげ、師匠の目を見た。

 師匠はため息をついた。


「いつまで甘いことを言っている。お前は、あの出来事で学んだはずだろうが」


 言われて、館上は眉の傷痕に手をやった。


「……師匠を見殺しにして一人前と言われたくありません」


 師匠は眉をしかめた。放つ圧が、少し低くなった。


「この仕事に私情をはさむと命取りになると、いいかげん学べ」


 師匠はため息をついた。館上に向かって空いた手を突き出すと、手のひらに力を込めはじめた。そのまま空中に大きく、「Ω」を描く。


 師匠は、普通の修法をあまり使わない。幼少期のころから、人の見えないものを見ていたせいか、周囲が気がつく頃には独特の線を描いて、見えないものを祓っていた。

 師匠の描く模様は、そのまま、その存在を現すことが多い。


「師匠! それはやめてくれ……」


 言い終わらないうちに、師匠は描き終え、にたりと笑って手を降ろした。エネルギー体を掴んでいた手を大きく振って、球体を空中に放り上げた。球体は、上空に挙げられる途中で、ふっと気配がなくなった。

 館上の体が、水にぬれた服を着ているような感覚になった。

 よろけた拍子に、膝を折りそうになるのを、なんとかこらえた。

 体の内側から、なにかが這って移動しているようだ。

 館上はこみあげる吐き気に口元を押さえ、なんとか抑えた。


「お前へのつけはこれで払ったからな」


 師匠は、地面に倒していた自転車を立てると、またがった。

 館上は不快感に顔をゆがめ、恨めし気に師匠をにらんだ。


「なにも黒龍を憑けなくてもいいでしょう。あれは、制御が厄介なのに」


 と、こぼした。


「厄介なものほど、お前には向いている。お前の甘さが、黒龍を柔軟にさばく力に変わればいい」


 自転車をこぎ始めようとする師匠に、館上は早口で尋ねた。


「バロンは、どこへ」

「あいつか。さっきまでいたところだろうよ。おのれの命より気にかけていた何かがあったようだからな」

「まさか、境界越しに引っ張ってきたんじゃなくて、異界にいたところを捕まえたんですか!」


 師匠は目線を上に向けた。


「たぶん、そうだろう。境界から奥に入らんとだめかと思っていたが、浅いところで捕まえられた」


 師匠はこの周辺にある境界を利用して、異界の存在を引きずり出すのを得意としている。今回もそうやって、バロンを捕まえたと思っていたが、もっとたちが悪い。片足とはいえ異界に入って、直接手元にバロンを引き寄せたのだ。

 師匠を罵ってやりたい衝動に駆られるが、その声すら、今の館上には出せない。館上は歯噛みしながら、師匠をにらみつけることしかできなかった。

 師匠は、じゃあな、と言って、錆びた自転車をこぎながら去っていった。


「相変わらず規格外の害だ……。くそ、体が重い。早く、尾道に向かわねばならないのに」


 館上は、のろのろと、歩き始めた。






 悠は、寺の境内に立っていた。目の前には、本堂と思しき建物があり、その前には、平台にたくさんの菓子やおにぎりのようなものが並べられている。平台の向こうには、着物に割烹着を着た、四十代くらいの女性が二人、立っていた。平台の横に、和紙に墨で、「成福寺おせったい」と書かれた紙が板に貼りつけられていた。


「ここが成福寺……」


 悠は改めて、境内を見回した。澄んだ青空の下にある境内は、暖かく清々しい気で満ちていた。


「ここはきっと、みんなに愛されていたんだ」


 悠のそばを、なにかが通って行った。目を向けても、なにもなかった。

 平台の前に、数人の子どもたちがいて、女性たちに話しかけていた。


「よう来たね」


 子どもたちは口々に、


「おせったい、ください」

「お大師さん、お参りしました」


 と言って、女の人たちから紙包みを受け取った。

 子どもたちは歓声を上げ、肩から斜め掛けにした袋に紙包みをしまうと、門へと駆け出した。

 本堂のわきには、小さなお大師像が祀られていた。成福寺は薬師如来を本尊としていたはずだが、この境内では、お大師さんにも手を合わせるらしい。

 子どもたちはしゃがんで小さな手を合わせると、すぐに平台へ駆け寄った。


「おせったい、お願いします」

「お参りしました」


 と早口でしゃべった。


「気をつけてまわりなさいよ」


 女の人はにこにこしながら、子どもたちの目線の先にある菓子を懐紙に包んで渡した。


「……本物のおせったいだ」


 悠はその場に立ち尽くし、次々と子どもたちが御接待を受ける姿を見送った。

 平台にある菓子は手作りらしい。少し歪んだお饅頭やせんべいなどが、俵に握られたおにぎりと一緒に置かれていた。

 脇には、小ぶりの湯飲み茶わんと、大きな急須が置かれていた。

 素朴な、それでいて、心のこもったおせったいだ、と悠は思った。

 子どもたちの訪れが一区切りついたらしい、境内が静かになった。

 平台についていた女の人が、悠を見た。


「あら、どこから来んさったん? ハイカラな格好じゃね」


 と、笑いながら声をかけた。

 悠はどきりとした。ここは異空間で、現実ではないから、てっきり向こうにはじぶんの姿は見えないと思っていたのだ。


「あ、あの」


 何と答えたらいいのか。まさか、別の世界から、などと答えるわけにもいかない。まして、おそらく、彼女の時代より後の令和から、と言っても頭がおかしいと思われる。

 だが、嘘はつきたくない。

 女の人は、にこにこしながら悠の返事を待っている。


「ぼく、東から来たんです」


 女の人は、ぱっと顔を輝かせた。


「あら、東京? どうりでこの辺では見ない洋装だと思うたわ」


 隣の女の人と、顔を合わせ、はしゃぎ始めた。


「散髪もよう似合っとるねえ」

「角刈りじゃない人、はじめて見たわ」


 こっちへおいで、と手招きされた。


「東京の話をしてちょうだい」

「何か食べる? これ、わたしがつくったお饅頭よ。よかったら食べて」


 じぶんの母親くらいの世代の人に挟まれ、饅頭を鼻先に突きつけられ、悠はたじろいだ。


「あの、ぼくもお大師さんにお参りしてからにします……」


 笑顔を顔にはりつけ、後ずさりした。


「まあ、律儀ねえ」


 悠はそそくさと石仏の前に移動した。子どもたちと同じようにしゃがみ、手を合わせた。

 午後の日差しが、悠を照らす。

 目を閉じて手を合わせていると、心が落ち着いていくのがわかった。心が静かになると、腹に力が入った。

 悠は平台で待っている女の人たちのもとに行くと、


「ぼくもおせったいをお手伝いさせてください」


 と言って、リュックを降ろした。

 中から黒籠を取り出し、平台の隅に置く。


「その籠、どこかで見たような気がする」

 ひとりの女の人がつぶやいた。


「そういえば」


 ほかの人も、頬に手を当て、ううん、と唸る。

 悠は黒籠に、持ってきた和菓子を詰め始めた。個包装の小ぶりの饅頭は、二段になって、おさまった。


「まあ、かわいらしい」

「ひとつ、食べてみます?」


 悠はパッケージに残った饅頭を彼女たちに差し出した。


「あら、いいの?」


 二人はさっと手を伸ばし、饅頭をつまみ上げ、さっそく口に放り込んだ。口々に、美味しい、甘い、食べたことない味、と言って喜んだ。


「ほかにもありますよ」


 悠は紙皿を取り出し、個包装のクッキーを並べ始めた。別の紙皿にはせんべいと、あられを乗せた。もう一枚には、色とりどりのキャンディをパッケージから直接、ざらざらと流し入れた。

 菓子袋を開けるたび、彼女たちは黄色い歓声をあげた。

 とっておきのプチチョコレートケーキを並べた頃には、彼女たちは頬を紅潮させその場でぴょんぴょん跳ねていた。


「なんて素敵なの」

「見たことないものばっかり」

「おひとつ、どうですか」


 悠が声をかけると、二人は涙ぐんでいて、悠はぎょっとした。


「あの、ほかにもありますから」


 声をかけるが、二人は無言で何度もうなずき、悠の差し出すクッキーをゆっくりかみしめるように食べ始めた。


「この風味はなに? 食べたことがない」

「わたしも。こんなん、はじめて」


 二人は少しずつ、削るように食べていった。

 たしかに、令和の技術で作られた菓子は、この時代では考えられないほど美味しいと思うだろう。だけど、と悠は思う。悠は、先ほど勧められた饅頭を手に取り、一口食べた。


「この、手作りのお饅頭は、ぼくには美味しいもので、価値のあるものなんですよ」


 饅頭は、素朴な味だった。その一方で、このおせったいのために、人が時間を割いて作った、心のこもったおせったいの品なのだ。それが、市販の大量生産された菓子より劣るなどとは、悠には思えなかった。じぶんは、ただおせったいのためにと思って買ってきたものだ。


「市販品しか差し出せなくて、恥ずかしいです」


 悠が苦笑しながら言うと、女の人たちは首を横に振った。


「そんなこと、言っちゃだめだよ。こんな滅多に食べられないものをまっすぐに差し出せるあんたの心が入った品だよ。わたしらにとっちゃ、一生、口に入れるどころか、目にすることもないようなものなんだからね」


 ねえ、と彼女たちは目を合わせて頷いた。


「そう言ってもらえると、うれしいです」


 悠が照れ笑いをしていると、門から、元気な子供たちの声が聞こえてきた。


「ほら、次のおせったいだよ」


 悠は頷き、子どもたちが石仏の前で手を合わせる姿を見て、微笑んだ。


「おせったい、ください」


 と、駆け寄って来た子どもたちの顔は、傑作だった。最初は、おにぎりや手作りの饅頭に目を向けた。だが、白い紙皿へ目をやったとたん、ぎょっとなった。目を大きく開き、その場で固まったのだ。その後、目をこする子、何度も瞬きする子、女の人と菓子へ何度も顔を往復させる子が、一様に縮こまったのだ。

 しばらくして、ひとりの男の子が小さな声で、


「あのう、これ、おせったいでもらっていい?」


 と尋ねた。

 女の人は、悠をちらりと見た。

 悠は、元気よく頷いた。


「どれが欲しい?」

「ぜんぶ!」


 だよねえ、と悠は心の中で苦笑した。


「ひとりひとつなんだよ」


 女の人が、男の子をたしなめた。その子は、この世の終わりのような顔になった。


「ごめんね、ここの決まりみたいだから」


 悠は彼の前にしゃがみ、目線を合わせた。

 彼は、悔しそうな顔をしていたが、悠の言葉に、ぱっと表情を変え、


「なら、母ちゃんと半分こできるもんがいい」

「だったら、これかな」


 悠はプチチョコレートケーキを指さした。


「それください」


 悠は男の子の手に、そっと包みを置いた。男の子は顔を輝かせ、大切そうにきんちゃく袋に仕舞った。

 走り去っていく子どもたちの背中に、悠は、お母さんと楽しんでね、と心の中で声をかけた。

 その後、次々と子どもたちの集団がやってきた。


「いつもはこんなに来ないのに」


 とひとりが言うと、


「それはあれよ、ここのお菓子のことを聞いた子がやって来ているんだよ」


 と、もう一人が返した。


「確かに。わたしだって、ここに来るわ。どれも美味しいもん」


 二人は楽しそうに笑った。

 悠の菓子は少しずつ減っていった。子どもたちが真剣に悩んでお菓子を選ぶ姿はほほえましかった。ひと段落ついたときに、悠はあることに気がついた。

 黒籠の饅頭を、誰も選ばなかったのだ。

 その時は、偶然かと思った。

 次の集団が来た時、悠は黒籠の饅頭を選ぶ子がいるか、注意した。誰も選ばなかった。次の子も、そうだった。

 饅頭より、洋菓子に目が行くのかと思った。だが、せんべいもあられも売れていくのだ。


「なんでだろう」

「なにがだい」


 女の人に聞かれ、悠は話した。


「ああそれ」


 彼女はくすりと笑った。


「籠に入っているものは、お客さん用だと、家で言われているからだよ」


「みかんを入れるような籠なのに?」

「黒い籠だろう? 普段用は、色なんかついていない、家でこしらえた、かんたんなものなんだよ」

「そうなんだ……」


 理由はわかった。でも、黒籠を引っ込めるのは、違うと悠は思った。

 その時、黒籠がことりと音を立てた。はっとした悠は、黒籠へ目を向けた。

 饅頭が一つ、減っていた。


「……来た」


 悠の全身に、心地よい衝撃が走った。

 楽しくおせったいをしていてうっかり忘れそうになっていたが、ここはバロンに連れてこられた異界なのだ。


「ぼくは、おせったいをするために、黒籠にここへ連れて来られたんだ」


 だったら、リュックの中の菓子やおにぎりは、この黒籠に入れなくてはならない。


「子どもたちに渡せないのか」


 悠のつぶやきの後、黒籠が、またことりと音を立てた。

 饅頭が、またひとつ減っていた。くすり、と誰かが笑う気配がした。あたりを見回すが、二人の女の人と悠のほかに、だれもいない。

 だが、たしかに、平台の向こうに、小さな子どものような気配がしたのだ。

 くすくす笑う微かな声が、悠のそばで聞こえた。きょろきょろと見回すが、やはり誰もいない。

 気配は黒籠の近くに移った。黒籠が、となりのクッキーの皿に傾いた。黒籠の中の饅頭が零れ落ちた。籠はそのまま、皿の上のクッキーを、ブルドーザーのようにすくいあげる動きをした。

 悠は、小さく叫んだ。

 気配が何を求めていたのかわかったのだ。


「ごめん、饅頭しかないのが不満なんだね」


 境居の家なら、皿にのせたものでも区別なくなくなっていた。だが、ここは境内で、皿のものは子どもたちのもの、籠は来客用、つまり、「かれら」のものと区別されるのだ。

 悠はいそいでクッキーやキャンディを黒籠に入れ始めた。女の人たちは訝しそうに見ていたが、何も言ってこなかった。悠は黒籠から溢れそうになりながらも、一通り入れた。

 くすくす笑っていた気配が、うれしそうな気配に変わり、さっそくクッキーをひとつ、消して去っていった。

 それからすぐ、次はキャンディがなくなった。あられも、せんべいもなくなった。悠はそのたびに、そっと継ぎ足した。

 くすくす笑う気配は、ひとつではなくなり、たくさんの気配が、平台の前でぐるぐる楽しそうに円を描いているような感じだった。

 女の人も、子どもたちも、なぜか黒籠に目を向けなかった。

 悠は、持ってきた水筒を開けて、平台に用意されていた湯呑み茶碗につぎ、黒籠のそばに置いた。もしかしたら、これなら飲んでくれるかもしれないと思ったのだ。茶碗を置くと、すぐに湯気が大きく揺れた。茶の量が、減っていた。


「やっぱり」


 悠は嬉しくなった。

 子どもたちへのおせったいもやりながら、黒籠にも気を遣う。

 忙しいのに、心は充実していた。

 楽しい、と悠は心から思った。日が傾いて、あと少しで夕方になろうとしていた。

 悠はここまで、おせったいに集中するふりをして、考えないようにしていたことがあった。

 バロンだ。


 彼とはぐれてしまい、黒籠に導かれてここに来た。おせったいをした。でも、これが元の世界の印の修復につながるのかどうか、悠にはわからない。

 じぶんにできることをする。決めたときは、それが何かわからなかった。

 いまは、正解かどうかはわからないけれど、ここに立って、やろうと決めたことをした。それを疑うことを、悠はしたくなかった。

 バロンがいなければ、元の世界に帰ることができない。このまま、ずっとここにいることになるのかもしれない。

 そう考えると、足元から底なし沼に飲まれていくような感覚に陥りそうになり、あわてて頭を振った。

「バロンはきっと、ぼくを見つけに来る」

 悠が拳を握ったとき、その手を微かに撫でる気配がした。目を向けても、なにもない。

 先ほどの、楽しそうにしていた気配が、悠の意識を引き戻してくれたように感じた。


「……おせったいだ」


 悠は両手で小さくじぶんの頬を叩いた。横で、女の人が笑った。


「気合がはいっとるねえ」


 悠はにっこり笑って、「はい」と元気よく返した。

 おせったいは、来る者を拒まない。そして、来た者を元気にする。そして、母親と半分こすると言ったあの子のように、他者を思う心を育てる。

 黒籠が示すように、おなじ平台に菓子はあるけれど、人とそうでないものを一緒にしすぎず、離し過ぎず、もてなし、通していく。

 悠の内側で、なにかがはじけた。


「そうか」


 悠は空を仰いだ。薄い青の空が、少しだけ、夕日の色に染まり始めていた。


「境居の家は、成福寺の代わりじゃないんだ。縮小版なんだ」


 当て木、という言葉から、犠牲になっているように感じた。そうじゃなくて、この寺で子どもたちや、人ではないものに心を向けるのと同じように、必要な存在に開き、招き入れ、送り出していただけなのだ。それが、外側から見れば当て木に見えるだけなのだ。


「失われた成福寺のおせったいが、黒籠を通して境居でされていたんだ」


 それが、印の支えになった。


「黒籠は、それをぼくに知らせたかったんだね」


 目を向けると、黒籠の中の菓子は残り少なくなっていた。悠はリュックから追加の饅頭やクッキーを取り出し、ていねいに詰めた。


「……ん?」


 悠は黒籠を手にとって、目の高さに上げた。

 裏を見て、横を見て、上から見た。両手で、側面を撫でた。最後に、両手で黒籠を包み込むように持ってみた。


「なんだか、少し、大きくなってない?」


 黒漆も、以前より艶が出ているような気がした。


「どういうこと?」


 悠のつぶやきに呼応するかのように、黒籠はまた少し、大きくなった。手に持っていたから、間違いようがない。

 黒籠から、小さく、ちゃぷん、と水の跳ねる音がした。

 悠の鼻先に、潮の香りが漂い始めた。水音は、次第に大きくなり、海岸に打ち寄せる波の音へと変化した。

 悠は黒籠を覗き込んだ。

 あるはずの饅頭はなく、底なしの闇の色が広がっていた。

 悠はぎょっとして黒籠を落としそうになった。だが、黒籠は悠の手にぴたりと貼りついたように動かない。

 黒籠の中の闇が中から立ち上り始めた。悠の目の前で扇形に広がり、悠の周りを取り囲んだ。

 悠が悲鳴を上げる間もなかった。真っ暗な空間は悠を包み込み、悠を奈落の底に落としていった。

 悠は高所から落下する感覚に、声にならない悲鳴を上げた。

 ふいに、体に重力がかかった。

 どぉん、と腹に響く音が、悠の頭上から落ちてきた。





 奈落の底に落ちていく感覚は、すぐになくなった。

 悠の両足は、地面を捉えている。

 少し、上下感覚がマヒした感じがして、悠は小さく頭を振った。

 パパン、という小さな音がして、視界の端に、オレンジ色の光が走った。

目を向けると、木立の切れ間から、遠くに小さな花火が上がっていた。


「ここ、どこ?」


 あたりを見回して、どうやら山道の途中に立っているらしいことがわかった。下に降りていくより、もう少し上に行ったほうが、位置を把握しやすいかもしれない。

 山道を、黒籠を片手に上がり始めた。

 それで、じぶんがリュックを背負っていることに気がついた。


「こんな気の利いたことをしてくれたのは、だれなんだろうね」


 悠は苦笑して、黒籠をリュックにしまおうとした。黒籠は、急にリュックの口より大きくなった。


「……もしかして、中に入るのを拒否してる?」


 悠がリュックの口を閉じると、黒籠は先ほどの大きさに戻った。


「ぼくが転げて地面に落としても、文句を言わないでよ」


 手の中の黒籠に、何も変化はなかった。了承したらしいと解釈した悠は、細い山道を上り始めた。

 どぉん、と音がした。少し遅れて、パパン、と小さな音とともに、夜空の低い位置に小さなオレンジの花が半分現れた。

 花火と花火の間隔が、悠の知っている花火大会よりも大きい。


「昔の花火だもんな」


 山道を上がると、木立の間からしか見えなかった花火が、よく見えるようになった。

 眼下には、家から漏れる明かりが点在していた。オレンジ色の花が、また、半分だけ夜空に咲いた。花火の近くの屋根瓦に、オレンジの光が散らされた。

 オレンジの花びらが筋になり、夜空に溶けていく。

 どぉん、という音にわずかに遅れて、悠の腹に振動が伝わった。

 花火の色は、悠の知っているものと違って、オレンジだけだった。夜空に現れる花も、大輪ではなく、半円にも満たないものだった。

 それでも、花火の打ち上げの音を聞くと、心がそわそわする。

 黒籠を片手に、山道を歩いていくと、現れたのは見覚えのある、浄土寺だった。


「バロンに連れてきてもらっててよかった」


 周辺の岩場に、先客がたくさんいることに気がついた。近くの住人なのだろうか、老人や子どもたちが親と手をつなぎ、口元をほころばせていた。中には浴衣を着崩し、小さな椅子に座って楽しんでいる人もいた。夜には黒い帯にも見える尾道水道と、そこに上がる花火をみんなで静かに見つめていた。

 椅子に腰かけていた白髪の男性がつぶやいた。


「今年も無事に、花火が見られた。神様に、わしらのお礼の気持ちが届くとええなあ」

「そうですよ。俺たち船乗りも、海の上を障りなく渡れたことを、神様に感謝してますから」


 近くにいた、子ども連れの男が、老人に笑顔でこたえた。

 悠は気がついた。


「これ、住吉の花火大会、だね?」


 ね、と黒籠に悠が話しかけると、黒籠は小さく震えた。


「違っていたら、きっとまた大きくなるよね」


 手に、また振動が伝わった。どうやら、正解らしい。

 悠は花火を背に、浄土寺へ足を向けた。

 住吉の花火大会は、元は、神様に人々の感謝を表すための、祭りの一部だ。決して、ただの花火大会ではない。

 尾道の人たちは、見えない存在に、心を向けることを忘れない。祈りをささげることを、忘れない。それは、昔から、悠が生きている現代にも、連綿と受け継がれているものだ。

 境内に入り、本堂の前に来た。隅に、小さく、シートを敷いた。そこにハンカチを敷き、その上に黒籠を置いた。リュックの中に残っていた饅頭を黒籠に敷き詰めた。水筒のお茶をカップに注ぎ、黒籠の横に置く。


「浄土寺に来たんだ。きっとおせったいをしろってことだ」


 悠の内側に、確信があった。成福寺でしたことを、ここでもする。それは何を意味するのかは、悠にはまだわからない。でも、やらないという選択肢はなかった。

 ほどなくして、黒籠が、かすかに動いた。カップから立ち上っていた湯気がふわふわと揺れ動いた。

 おせったいが、始まった。

 悠はそっと、黒籠にクッキーも足した。

 元より大きくなった黒籠は、たくさんの菓子を入れても、まだ余裕がある。悠は中の菓子が切れないように、菓子を足していった。

 少しして、成福寺で感じたような気配が漂い始めた。

 ここの気配は、くすくす笑うものではなく、静かに微笑むような、あたたかなイメージだった。

 やわらかく、ゆったりとした気配は、悠の前にしばらく佇んで、静かに去っていった。それが、何度も繰り返された。

 悠には、それが彼らなりにお礼を伝えているように感じた。言葉はないけれど、それだけで、悠は嬉しかった。

 薄暗い中でのおせったいは、周辺の人たちの目を引くこともなく、静かに続けられた。


「住吉神社って、もとは浄土寺にあったんだよね。ということは、今夜は山での祈りと、海での祈りになって、尾道の人々を包み込むことになるんじゃないかな」


 悠はじぶんの言葉に、心が震えた。


「これが、本当の印の守護なんじゃないかな」


 片蓮華印だけではなく、ここにはもっと大きな守りがあるのではないか。悠はそんな気持ちになった。

 黒籠に、少し多めに菓子をつぎ足し、花火がよく見える場所へ移動した。花火を眺めている人たちの近くで、花火を打ち上げる、低い音を体で受け止めた。腹に響くその音が、心地よかった。悠は彼らと一緒に小さなオレンジ色の花を見た。

 花火の下の、黒い帯が、ゆらりとうねった。

 最初、それは大きな波だと悠は思った。

 悠の見ている波は、徐々にうねりを広げ、一定の間隔を保って、曲線を描き始めた。


「生きものみたい」


 うねりは、銀色の光の粒を纏い始めた。

 なにかが、立ち上がろうとしているようだった。

 固唾をのんで見守っていた悠の足元に、すり、となにかが当たった。その感触に、悠は覚えがあった。

 足元には、黒い影の塊があった。猫のシルエットのようで、猫ではなかった。だが、気配を悠は知っている。


「悠、籠の中がそろそろ空になる。早う足せ」


 弱々しい、小さな声だった。

 それで十分だった。いつもの燕尾服姿でなくても、バロンはバロンだ。

 バロンが、じぶんのもとに来てくれた。どんな姿かたちであれ、悠を見捨てることなく、来てくれたのだ。悠は胸がいっぱいになった。


「うん、ありがとう、バロン」


 泣きそうになるのをこらえながら、悠は黒い影のバロンに笑顔を見せた。

 ためらうことなく黒の影の塊を抱え上げ、悠は小走りで黒籠のもとへ急いで戻った。

 リュックの中から大粒のキャンディの袋を取り出し封を開け、そのまま中へ流し込んだ。


「これで当分、もつと思うよ」


 悠はキャンディの包みを開けて、黒い塊に差し出した。袋の中のキャンディはすぐになくなった。


「んまい。はちみつ飴か」

「正解。元気出るでしょ」


 悠は黒籠のそばに腰を下ろして、影の塊になったバロンを撫で始めた。


「おまえ、普通は、影には触れんとは思わんのか」


 二つ目の飴を袋ごと消しながら、黒の塊が呆れ声で言った。


「だってバロンでしょ。猫は撫でられると元気になるよね」

「ワシは猫ではないと何遍言ったら……」


 はあ、というわざとらしい溜息が聞こえたが、悠は無視して塊を両手でわしゃわしゃと撫でた。


「よせ、そんなに激しく撫でたら、お前が疲れるぞ」

「ぼくは今、最高に嬉しくてテンションマックスなんだ!」


 悠は塊を両手で抱え、頬ずりをした。ぐりぐりと顔面を塊に埋める勢いで擦り続けた。


「どうしたんだ、悠。ワシがおらん間になんかあったんか」


 顔を塊に押しつけたまま、悠は小さく鼻をすすり、またぐりぐりと顔を押しつけ始めた。

 異界でバロンとはぐれて、怖かった。バロンも館上も、じぶんを見つけられないのではないかという考えにとり憑かれそうになった。恐怖で心が壊れそうになるたびに、必死で堪えた。

 どうしてじぶんを置いていなくなったの、と叫びたかった。だが、口から出てきた言葉は、違った。


「成福寺でおせったいを地元の人としてきただけだよ。それで、次にここにきて、おせったいをしている。ちゃんと、できることをしてただけだよ」


 普通に話すつもりだった。でも、出てきた声は震えていた。


「……そうか。ようやった。偉いのう」


 帰ってきたバロンの声は、いつになく穏やかだった。

 花火の打ち上げられる音が、二人のもとに届いた。遠くに、オレンジの花が咲き、細い筋になって夜の空へ消えていった。



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