第十二章 供えられるもの
突然、悠と影の塊の姿になったバロンを強風が襲った。
悠の背中にたたきつけるような風があたり、悠の上半身がぐらりと傾いた。風はそのまま、悠たちを中心にぐるぐると渦巻き、翻弄した。強風は目に入ると痛くて、悠はぎゅっと目を瞑った。その場に座り込み、バロンを抱え込むように上から被さり、風を凌ごうとした。
耳元で、風の音が鳴る。
体を持ち上げられそうになるのを必死で防いでいると、風音に紛れて、聞きなれた声がした。
「待たせたな」
悠は少しだけ顔をあげ、薄目を開けた。
目の前に、館上がいた。
強風に髪とシャツの襟を踊らせ、眉間にしわを寄せていた。
館上は片手をあげ、何かに合図を送るようにさっと、振り下ろした。
強風がおさまり、微風に変わった。
「お前は師匠がいないと好き放題だな」
館上は不機嫌そうな顔で、空へ目を向けた。
夜空よりも黒い、帯のようなものが蠢いていた。
その動きに呼応するかのように、まわりの景色が二重になっていく。
浄土寺の境内、花火大会を眺めに来ていた人たち、地面。
それらが、ビデオの画像を一時停止したように、ぼやけて見えるのだ。
なぜ、と思う小さな疑問は、手の中にある塊が揺れたことで塗りつぶされた。
「館上さん! バロンが!」
悠は立ち上がって館上のもとに走り寄った。近くに来て、悠は彼の顔色が悪いことに気がついた。そして、彼からにじみ出る雰囲気が、どこか鋭利で険しい。じっと彼を見ていたら、腹の底に恐怖心が沸き起こりそうで、近寄りがたいものになっていた。
「……何かあったんですか?」
「気にするな。師匠の無茶振りで体が追いついていないだけだ」
「それ、大丈夫ではないのでは」
「それよりバロンがなんだって」
話をそらされた気がしたが、悠には館上のことを助ける力はない。これ以上詮索をすることをやめ、抱きかかえた影の塊を館上に見せた。
「すまん。師匠のせいだ」
「どういうこと?」
「おれが肉を口にして力が鈍ったのは話したな。それを補強してもらおうと師匠を捕まえたんだが、師匠はその補強材にバロンを使おうとした。要するに、あと少しで祓うところだったんだ」
「そんな」
「元の姿になるには、少し時間が……待てよ」
館上は再び、空を仰いだ。
「おい! 力を貸せ!」
再び、うなり声をあげた突風が起きた。
さっきよりも強い風が館上と悠に巻きついた。悠はふらつき、前かがみになった。
「お前は! 師匠がいないと! 好き勝手するのか!」
強風が高速で巻きつき始めた。
「ちっ」
館上はポケットから独鈷杵を取り出し、何度か力強く横へ払った。それを縦に切ろうとしたとき、暴風が、ただの強風と呼べるほどには弱まった。
館上は空の一点をにらみつけた。
「黒龍よ、今度やったらどうなるか、わかっただろうな」
強風がやわらかい風になった。
館上が、独鈷杵でΩを描くと、館上の目線の先に、黒く長いものが現れた。
悠は目を瞬いた。
暗闇の空中に、何かがゆっくりとうねっていた。それが次第にじぶんたちに近づいてくる。
「あ、あれって」
絵や、アニメで見た龍に限りなく似ていた。干支の辰の絵にも、似ているようだった。だが、似て非なるものだ。
本物の龍は、架空の存在として描かれた時とは違い、恐ろしくて、逃げ出したくなる存在だった。圧倒的な存在感と言えばいいのか。じぶんの近くに存在しているだけで、圧迫感に押しつぶされそうだった。
「館上さん、あんな恐ろしいものを連れてきたんですか」
悠が抱きかかえている塊のバロンも、心なしか震えているようだった。
「おれが連れてきたんじゃない。黒龍がおれを連れてきたんだ。師匠が黒龍をおれに憑けたせいでな」
「無茶振りってそういう」
館上は頷いた。館上から感じる刺すような怖さは、もしかしたら、黒龍が憑いているせいかもしれない、と悠は推測した。
「黒龍、バロンの姿を元に戻せるか」
長い黒の帯のようなものが、大きくうねった。
そこに頭部があるな、というのがなんとなくわかったくらいだったものが、徐々にその容貌を現し始めた。
帯の部分が、三日月型の銀の筋を纏い始めた。背に、三角形に似た突起が並び現れる。数股に分かれた二本の角に、大きな鼻、その下に長いひげを左右にたくわえた顔面に、金色の大きな目がぎょろりと動いて悠を見た。
悠は思わず、後ずさった。
黒龍は悠から目を離さず、空中でうねり、漂っている。
悠の背中に冷や汗が伝った。恐怖心よりも、もっと深い何かが、心に広がっていく。蛇に睨まれた蛙って、今のじぶんのことを言うのではないか。悠はごくりと唾をのんだ。
硬直して、体が動かなかった。目をそらすこともできない。
黒龍と悠が、互いの目を覗き込む。
悠のすべてを見透かすような金色の龍の目が、悠に何かを必死に訴えているように見えた。
「……もしかして、おせったいしてほしいの?」
半信半疑で、口にしてみた。
黒龍はちょん、首を縦に振った。そのしぐさは見た目とちぐはぐで、ユーモラスでかわいらしい、と悠は思った。
「でも、黒龍のおせったいにお菓子って、違う気がする」
悠がつぶやくと、
「黒龍は天神界の存在だから、奉納が正しい」
「え……神様だったんだ」
黒龍は二度、小さく頷き、その場で体を大きくうねらせた。人間の会話がわかるらしい。悠のこわばった体の感覚が、少しずつ戻ってくるのを感じた。
館上は苛立たしげな声で、
「こいつは元々は蛇だ。卵一パックでも奉納すれば十分だろう」
館上の言葉に、悠は顔を曇らせた。
「卵は持ってきていない。いまからどこかに買いに行くにしても、お店は閉まっているんじゃないかな。どうしよう」
うろたえる悠の近くに寄ってきた黒龍は、目の前でくるりと回転した。
「卵がいいの?」
どうやって用意しようかと悩む悠の後ろで、ことん、という聞きなれた音がした。黒籠が揺れたのだ。目を向けると同時に、ぽん、とはじける音して、黒籠がぐっと大きくなった。その中に、スーパーに売られているような卵が一パック、斜めに置かれていた。
「黒籠が……」
驚く悠に、上空の黒龍が近づいた。はっとした悠のすぐ脇に、黒龍の顔があった。黒龍から生まれる微風は、近くに来ると微風ではなく、緩い風になった。
悠は驚いて上体をそらした。一瞬、黒龍の全身が黒い微粒子に包まれた。その後すぐに元に戻り、黒龍は再び上空にとどまった。
その場で黒龍は二度、三度と回転を始めた。館上が眉をひそめた。
「おい、図々しくないか」
黒龍は再び、二回、体を回した。
「あと二パック、追加してくれと言っている。……高級卵でなくていいからな」
館上の言葉が終わらないうちに、黒籠から、ぽぽん、という音とともに、先ほどと同じ卵のパックが二つ、現れた。
黒籠の側面の一部が、微かに発光した。不思議に思って目を凝らして見ると、うっすらと「三」の文字が浮き上がっていた。
バロンが言っていた、成福寺由来かもしれないという、傷のような痕だ。
黒籠は、必要な供物を察して、用意してくれたのかもしれない。それは、尋常の力だけではない気がした。
「薬師如来さまの手助けだったりして」
悠のつぶやきに、
「案外、そうかもしれんぞ。薬師如来と黒龍には水という共通項があるし、そもそも黒龍は薬師如来を守護する存在ともいわれているからな」
「成福寺のご本尊様が、黒龍にぼくたちを助けなさいって言ってくれてるみたいだね」
黒籠そのものが卵を生んだのではない。成福寺で受け取ったおせったいの力を、黒龍に必要な形へ変えたのだと、悠には感じられた。
「少しは言うことを聞いてくれるといいが」
館上と話をしている間に、黒龍は黒籠に近づき、卵パックごと黒い粒子を纏わせ、あっという間に卵をパッケージごと平らげた。
「パッケージは体に悪いんじゃないかな」
悠がつぶやくと、上空に戻った黒龍はぎょろりと目を動かし、体を震わせた。
黒籠の近くで、プラスチックの擦れる音がした。
黒籠のわきに、三パック分のパッケージが綺麗に重ねて積まれていた。
「良かった」
小さく微笑した悠に、
「悠は変なところで世話焼きだな」
館上は苦笑し、機嫌よく宙を漂う黒龍へ目を向けた。
「奉納したんだ。次は、バロンの体を戻せ」
黒龍は館上に近づき、勢いよく脇を通過した。風圧で、館上の髪が叩きつけられるように靡いた。館上は、その風圧にまったく動じることなく、ただ目を細めただけだった。
悠はそばにいたわけではないのに、その風に体をぐらつかせ、館上の普通ではない胆力を感じた。
黒龍はそのまま上空へ一気に駆け上がり、大きく旋回を始めた。
黒龍の周りに、漆黒の空間が広がっていく。
墨を流すように黒に染まっていく中、鈍い銀色の線で描かれた建物が現れた。
成福寺だ。
境内にあった、あの平台も、おせったいを受けに来た子どもたちも、祀られたお大師像も、すべてが銀の線で描かれ、そこに立ち上がっていった。
その向こうに、悠たちがいた浄土寺の本堂や、花火を楽しみに来た人たちも描かれていく。この場と、ここにはない場が重なって描かれていく。
空から、子どもたちの声が聞こえてきた。
「おせったい、ください」
「お参りしてきました」
朗らかな声が、それに応える。
「気をつけて、回っておいで」
子どもたちの走り去る音、くすくす笑う声。
別の方向に、見たことのあるローテーブルの上に、見覚えのあるよそゆきの皿を置いている風景が現れた。皿の上に、小ぶりのかりんとうがよそわれていく。脇には、黒籠が置かれ、そこには笹の葉にくるまれたものが、皺の入った指先で、丁寧に入れられていた。
「忍さん……?」
湯飲み茶碗に、お茶が注がれる音がする。
漆黒の空に、瑠璃色の光の筋が扇形に広がっていき、片蓮華に変わった。
「薬師如来の色だ」
館上がつぶやいた。
「片蓮華印は、山側の守りだ。だが、尾道は山だけでできていない。海への感謝、船の無事を願う心、住吉への祈り。そういうものが重なって、ようやく本来の守りになるんだろう」
黒龍が瑠璃色の光の下を滑らかに滑っていく。その姿は、澄んだ水中を泳いでいるように見えた。
瑠璃色の光の片蓮華は、要にあたるところは黒色のものが留められていた。
「あれは、黒籠だ」
館上の言葉に、悠は頷いた。
「境居の家は要そのものではなかったんだよね。成福寺が抜けたところを、知らないうちに支える当て木になっていた」
「そうだ。それを、家に入らず壊そうとして、宮瀬はあの欠片を持ち帰ったんだ。あの女ひとりの力じゃない。黒石の欠片が、境居の庭とこっち側をつないでいる」
館上は顔をしかめた。
「そこに燈子さんと、この家の記憶が絡んで、ああいう形になっているんだ。おれに肉を食わせるように手を回して、中からではなく外側から、壊しにかかっている」
館上は続けた。
「本来の要は成福寺だった。境居の家は、その代わりに無理やり要にされたんじゃない。失われた成福寺のおせったいだけを、黒籠を通して小さく受け継いでいたんだ」
悠はまた頷いた。
「まずは、バロンだ。頼むぞ、黒龍」
気持ちよさそうに空中を泳いでいた黒龍は、直角に勢いよく天へ上り始めた。瑠璃色の光が、黒龍の後を追うように纏いつく。
高度を上げたところで、今度は一気に下降を始めた。その反動で、瑠璃色の粒子が扇形に広がっていく。
悠の手の中のバロンが、ぶるりと震えた。塊は悠の手から離れて上昇し始めた。
「……来るぞ」
館上のつぶやきの後、黒い影の塊は、瑠璃色の粒子に囲まれた。粒子はくるくると回り始め、少しして、ほどけた。
粒子が散った後には、くたびれた顔をしたバロンが直立していた。
「バロン!」
悠はバロンに駆け寄って、反動のままに抱きついた。バロンは悠ごと後ろによろけた。二人で倒れそうになったところを、館上が後ろから押しとどめた。
「今のおれに物理的な体力まで使わせるな」
館上の声に安堵の色がこもっていた。
「うん。ごめん」
悠はバロンから離れて、笑顔で返した。
「ワシもまだ本調子じゃないんだからな」
弱々しい声でバロンも悠をたしなめた。抱きついてわかったが、バロンの体は、前よりも小さく、放っておいたら消えてなくなりそうに感じた。
「無理もない。今はおとなしくしておけ」
「涼佑に労わられるのは気色悪いもんじゃのう」
「師匠の不始末は弟子が拭うもんだからな」
それは普通、逆では、と悠は思ったが、館上が真顔だったので、黙っておくことにした。多分、館上さんたちの関係はそうなんだろう。
上空に描かれていた瑠璃色の片蓮華は消えてしまい、漆黒の空が広がっていた。
黒龍が体をうねらせた。遠くの上空へ行ったかと思うと、また館上たちの上に戻ってくる。それを何度か繰り返し、黒龍は強風を起こした。
「あっちを見ろっていうのか」
館上の言葉に、強風が止んだ。
ここは浄土寺だが、同時に成福寺の影もある。浄土寺の銀の輪郭よりも、成福寺のそれの方が、悠たちには濃くはっきりと見える。
「ここが成福寺としたら、あっちの方向は」
館上の言葉に、悠は息をのんだ。
「境居の家がある方向です」
館上が口元を引き結んだ。
「来るぞ」
何が、と問う必要はなかった。
紫色の線が伸びてきた。なにかをより合わせたような形状で、それは縄を連想させた。その縄目は歪で、じっと見ている者を不快にさせるものだった。
ただの、紫色をした線ではない。
「あれは、宮瀬の念の生み出した線だ」
決して細くはない。だが、縄目のその線が絡まり両端を引っ張ると、線に絡まれたものは、容易に二つに分断されるにちがいない。
「理論の刃だ」
館上が眉をピクリと動かした。
紫の線が悠たちにまっすぐ伸びてくる。
館上が独鈷杵を構えた。バロンが、ふらつく体で悠の前に立つ。悠が咎めると、
「あの女の目当ては悠じゃ」
「でもバロン」
館上が続けた。
「悠だけじゃない。この成福寺も壊しに来たんだ。片蓮華印を消滅させるためにな」
「じゃろうな」
「なまじ素養のある素人が本気になると、厄介なものだな」
闇色の空が、重くなった。紫の線は、まっすぐに悠へ向かってくる。
館上の独鈷杵が空を切った。
紫の線が散った。砕かれたかと思ったのも一瞬で、線はまた一本に戻った。線は館上の近くで、わっかになった。
館上は重心を低くした。
紫の輪に、白い指をした両手が添えられた。親指と小指に糸が掛けられ、中指で反対の手の糸をすくいあった。手前から三本目の糸を、親指でとる。奥から三番目の糸を、今度は小指でとる。前にかかっている糸を親指でとり、小指にかかっている糸を親指でとる。小指の糸を外す。
白い指はするすると、迷いなく糸をすくってははずし、はずしてはすくっていった。
「あやとりだ……」
悠がつぶやいた。
「忍が燈子にようやっとった。あれは、ひとりあやとりじゃ」
「お袋が昔見せてくれた、あれか」
悠にも、おぼろげな記憶があった。
幼いころ、母がビニール紐の切れ端を使って、悠に見せてくれた。指を器用に動かし、
「梯子よ」
「亀」
「ゴム」
と、いろんな形に変化させていったのだ。それを見るのが面白くて、何度もせがんだ。
「おそらく、宮瀬があやとりを選んだわけじゃなかろう」
バロンが目を細めた。
「あの女の念が、燈子とこの家の記憶を材料にして、いちばん絡め取りやすい形を取ったんじゃろう」
上空に浮かぶ、大きな白い手は、いま、飛行機を作っていた。たしか、後三つで終わりだったはずだ。終わりはただの結ばれた紐になる。そうなることが、悠にはなぜか恐ろしいものに思えた。だが、止め方を思いつかない。上空のあやとりは、飛行機が終わり、次へと移っている。
悠の前に立っていたバロンが、地面に膝をついた。
バロンの体に、紫の糸が絡みついていた。
「いつのまに」
悠たちのまわりは、紫の線が何重にも巻かれていた。
「糸に封じられたか」
気配はなかった。禍々しさのない紫の糸は、蜘蛛の巣に降り立った獲物を待ち構えていた蜘蛛のようだった。
正論には人を警戒させる色がついていない。
「バロン!」
悠がバロンに触れようとした。
「ワシに触るな」
バロンが苦しそうに呻いた。
「なんで、バロンだけ」
「異界の存在だからだ」
館上が答えた。
「見ろ」
促されて顔をあげた悠の視界には、闇の空にひしめく、たくさんの気配が映った。
「あのあやとりで、異界のエネルギーを吸い取っているんだ。それが、成福寺を消滅させる力になる。境居のある方角から来たのは、あの欠片を起点にして、異界に侵入するためだ」
バロンに巻きついた糸が、紫色と漆黒で縒り合されていく。バロンの姿が、再び影になり始めた。
「バロン」
悠は紫と黒の糸に手をかけた。
「よせ!」
バロンを巻いている糸から枝が伸び、悠の手を覆った。
そこから、一気に紫と黒の糸に悠の体が包まれる。悠の視界が糸で埋まっていく。それが、悠にはどこか現実離れした、ほかの誰かの出来事のように見えた。
悲鳴を上げる暇もなかった。
真っ暗な世界になった。空気を吸うこともできない。
悠の頭が真っ白になった。
そのとき、どこからともなく半透明の、ほの白く細長い紙切れのようなものがひらりと悠の視界をよぎった。
気がついたときには、目の前に館上の悲壮な形相の一部が見えた。残りは、ぼやけて見えない。
「あれ?」
悠は顔に張りついたものをとろうとした。それに触れた途端、白いものは悠の鼻先で、黒いミミズの這ったようなものに変わった。それはゆらりとひと揺れして、消えていった。
黒のうねった線に見覚えがあった。
朝陽の言葉が蘇る。
『三枚の御札は、これから起きることへの身代わりかもしれない』
「これだったんだ」
「命拾いしたな、悠。札そのものが飛んできたんじゃない。あれは、和尚が預かった札に残っていた効力の写しだ。こっち側で、身代わりとして働いたんだろう。無事にここから帰ったら、和尚に礼を言っとけ」
安堵した表情で、館上が言った。
「もう一枚の札は、あれだ」
上空でひとりあやとりをしていたはずの手が、止まっていた。両手のちょうど真ん中で、黒龍が糸を口でくわえていたのだ。
黒龍のそばに、一枚の半透明な御札がひらひらとただよい、文字と紙に分かれて消えていった。
バロンのそばにも、一枚の御札が落ちていた。これも、滲んだ文字と紙切れが分離して、消えていった。
バロンは糸に巻きつかれているが、今以上に薄れてはいない。ぎりぎりで、止められているようだった。
「ぼくが、バロンを助けようと手を伸ばしたから?」
「おそらくな。悠をこれ以上危険な状況に置かないための措置だろう。本当に、三枚の御札に助けられたな」
館上の言葉に悠はうなずいた。だが、館上は落ち着かない様子だった。
遠くに、宮瀬の声がした。
『残しても、誰も守れない。古いものはその場を譲らないと、新しいものは生まれない。なぜ、いつまでも古いものに拘るの』
『燈子を閉じ込めたのは、あの家だけじゃない。この町の古い守りそのものよ』
『人間ではないものに対して、人間以上になぜ心を砕かなくてはならないの。生きている人間こそが一番に尊重されるべきよ』
宮瀬の怒りと悲しさが、悠のもとに押し寄せた。
彼女の言うことは、確かに正しい。だけど、人は理論で割り切れる存在ではない。
人はどこか歪で、矛盾している。人間でない存在も、きっとそうなのだ。だからこそ、悠にはどちらも手放せない。
「ぼくには、確かに祓う力はないのかもしれません。でも、忘れないでいることはできます」
「忘れないのは、苦しい記憶だからよ」
黒龍の口で止められていた糸から、細い枝が伸び始めた。細い枝は伸びたところで、枝分かれした。枝分かれした先で、また分かれ、それらが重なり合って網状になった。
紫の網は、バロンを巻いている糸から伸びてきた糸と溶け合った。
「ぐ、ぬぬ」
バロンが呻いた。バロンの姿が、影になり、実体になったかと思うと、また影になり、薄い実体になった。
「バロン!」
このままでは、バロンは消えてしまう。
悠は館上に叫んだ。
「なんとかして!」
館上は、眉をしかめ、悠を睨んだ。唇をかみしめ、独鈷杵を握る手が、震えていた。
顔色が土気色だった。
「館上さん……」
館上が、悠から目をそらした。
それで、悠は気がついた。館上は、決断に迫られているのだ。
上空で止まっているあやとりの糸は、少しずつ、太くなっている。あやとりが最後まで進まなくても、宮瀬は次の手段に出るつもりなのかもしれない。紫の糸が太くなるにつれて、成福寺を描く銀の線が滲み始めた。
バロンの存在が、宮瀬に力を与えているとしか、考えられなかった。
宮瀬も、館上の師匠も、なぜ平気で目的のために命を消滅させようとするのだろうか。悠の腹に、怒りが湧いた。
館上は目をそらしたまま、独鈷杵を胸の前で構えた。
「やめてよ」
悠の口からこぼれてきたのは、小さな声だった。
「祓わないでよ」
悠は館上の腕をつかんだ。
「バロンは、いい子だよ。バロンは、ぼくに家を売るなとは言えないって、ぼくたち人間の生活を尊重してくれたんだよ。異界ではぐれたぼくを探し当ててくれた。今もこうして、ぼくを守ろうとしてくれたんだ。異界の存在だからって、もう、異物じゃないんだ。境居の家が認めた、橋渡しの存在なんだ。そんな存在の命を消滅させてまで守るものって、なんなんだよ」
悠はあやとりに顔を向け、叫んだ。
「どっちか一つだけを残してもう片方をなかったことにするなんて、おかしいよ。どっちもあったから、今があるんでしょ。そこから見える景色を、本当は望んでいるんじゃないの? ねえ、宮瀬さん!」
白い手が、びくりと震えた。
「館上さん、バロンごと切れば宮瀬さんの攻撃の力が弱まって、対処しやすいんだろうって、ぼくにもわかる。だけど、バロンはぼくの友人なんだ。大切な存在なんだよ、館上さんと同じくらいに」
館上が、ゆっくりと土気色の顔を悠に向けた。
「祓う側の理屈で見れば、バロンは異界の滞留物だ。だが、この家と悠の側から見れば、境を渡すための橋だ」
館上は低く息を吐いた。
「祓ったほうが早い。だから、長くは持たんぞ」
館上は、独鈷杵の構えを変えた。館上から、柔らかな波を感じた。
悠はしっかりとうなずくと、黒籠を見た。
じぶんにできることをすると、決めた。その心は、異界に来て、さらに強まった。
ここで、おせったいをする。
「黒籠、頼んだよ」
リュックにあった、最後の菓子を取り出した。チーズケーキだ。絵虹で持ち帰った、あのチーズケーキの足元にも及ばない。けれど、実家にいたときに、ヨーグルトにはちみつやレモン汁をいれて適当に作ったことがあった。その日、母は珍しく残業をして帰ってきた。疲労感を滲ませた母に、夕食後のデザートとして出した。スプーンで一口食べた母は、幸せそうなため息をついた。母の表情がゆっくりとほどけていった様子は、今でも覚えている。
そのケーキを、小さなカップに入れて、ラップで包んで持ってきた。数は少ないけれど、悠の心を込めてつくったものだ。
大きくなった黒籠に、すべてのカップが置かれた。悠は、元のハンカチの上にそっと置いた。
「どうぞ」
悠の声に、空気が震えた。宮瀬に向ける「どうぞ」とは違う。これは、ここへ来るべきものに差し出すための言葉だ。
くすくす笑う声が近づいてきて、悠の周りをくるくるまわった。この気配には、覚えがあった。
黒籠の中のカップが、一つ消えた。
銀色の稜線で描かれた世界に、オレンジ色の明かりがひとつ、灯った。
静かな気配が黒籠に近寄り、カップが消えた。
オレンジ色の明かりが、二つ、三つと灯った。それから、オレンジの小さな明かりは、あちこちに灯り、暗闇の世界が暖かな色に染め変えられ始めた。
明かりがたくさん集まったところに、線が現れた。その線がゆっくりと弧を描き始め、それは大きな片蓮華になった。
「宮瀬さん、ぼくは、この明かりの思いを忘れない。ちゃんと、受け取る。なかったことにしない。ぼくだけでなく、たくさんの人がそうして生きていけば、きっと境居の家だけで保つものではなくなると思う」
返事はなかった。
白い手がぼんやりとしたものになり、消えた。支えるものがなくなった紫の糸は、黒龍の口元でだらりと下を向いた。
さっきまで、鋭い刃のようだった宮瀬の気配が遠のいていく。
小さな呻き声とともに、バロンの姿が闇に沈んだ。そのまま、バロンの姿はもどらなかった。
「バロン!」
返事はなかった。
館上が、膝をついた。肩で息をしている。両手でかろうじて、上体を立てているようだった。
黒龍はあやとりから口を離し、館上のそばに寄った。不満そうな顔をして、館上の周りをまわり始めた。
「不満か」
黒龍は一つうねった。館上がせき込む。
「……なにが『貸し』だ。三パックも食っておいて」
黒龍は悠のそばに近寄り、体を震わせた。
驚き固まっている悠の前に、パラパラと、黒いものが降り落ちてきた。
足元に、見たことのある薄い石が積まれていた。
「これ、もしかして」
境居の庭で崩し壊した、石積みの石だ。壊れて結界の役をしなくなった石の代わりに、これを使って結界を貼り直せということなのだろうか。
悠は黒龍に目を向けた。
「いいの? 修復するのに使っても」
黒龍はカパッと口を開けた。口の端をぐい、と大きく引いて、ちょん、と上に向けた。笑顔を作ろうとしているのか、と悠が思うと、それに合わせるかのように、その場でくるりと回った。
「ありがとう」
黒龍はまたくるりと回転した。
黒龍の体に黒い粒子が集まってきて、その全身を包んでいった。
重い空気が、ふっと消えた。
さっきまで目の前にいた黒龍の姿が消えていた。
悠は足元の黒い石を手に取った。その上に、黒い毛が一筋、乗っていた。
手にしたこの毛は、バロンのものだ。
「バロン」
どこかで、聞き慣れた声がしたような気がした。
耳を澄ませて待ってみたが、何も聞こえなかった。
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