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夜の波紋は、坂の上まで届く ――尾道の古い家で、見えない客におせったいをする――  作者: 飛絽じゅらん


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第六章 絵虹(えこう)に入れる者

 翌日、館上は早朝から悠を訪ねてきた。朝食を取ったばかりの悠を、館上は急き立てるように連れ出した。


「ずいぶん朝早いんですね」

「足がそうさせるんだ。そういうわけで、予定変更だ」


 館上の、ばつが悪そうな表情は珍しい。

 悠がじっと見つめていることに気づかず、館上は早足で小路を下りながら説明した。地神がときどき、用事をさせようと、彼の足を必要な方向へと歩かせるという。


「わけあって、今は借りを返しているようなもんだ」


 車の入らない道をうねうねと二人で下っていく。ところどころで、昨日の館上の背中のように揺らいでいる場所があったが、館上が一緒にいるからか、悠は不思議と怖いと思うことはなかった。

 館上は、悠が見た捻じれた空間を平然と突っ切っていく。


「今朝はずっとこの状態で、おれの気が尾道を向いていた。こうなったら、日中の仕事はできない。親父に投げてきた」

「お父さんもこっちの仕事を?」


 館上は首を横に振った。


「親父は普通の人だ。おれのこの仕事を理解してくれている。引退していても、こういう時は代わってくれるんだよ」

「いいお父さんですね」

「まあな」


 館上の足は西に向かっていた。


「いったいどこのお寺に行くんでしょう」

「わからんが、この方向だと持光寺じゃないか」


 二人は商店街に沿って走る国道二号線を尾道駅に向かって足早に歩き続けた。

 駅側の商店街の入り口を過ぎ、右手にある遮断機付きの踏切を渡って、左に折れて進む。三叉路を右に折れ、車が一台通れるかという道をずんずん進む。しばらく歩き、また三叉路に出て、今度は右に折れた。

 そこでようやく、館上は、行き先を知った。


「この先にあるのは、済法寺だな」


 緩やかな上り坂をあがっていく。


「うわ、細い」


 少し歩いた先が、急に細くなったのだ。


「これでも軽自動車は通るんだぞ」

「ええ! 無理でしょ!」


 悠はありえない、と首を振った。


「ドアミラーを倒さなくちゃならんがな」

「どんなテクニックですか」

「知らん。おれはやらんぞ」


 前方に、急な石の階段が見えてきた。見上げた先には、木質の門がそびえ立っていた。

 二人は口を開かず、階段を上っていった。

 上まで上がったところで、前方に、本堂が見えた。

 悠は石段を振り返った。目の前に、細い道を挟んで民家が肩寄せ合うように建っている。人々の息遣いがすぐそばで聞こえるようだった。


「こっちだ」


 館上の後を慌てて追っていくと、岩に刻まれた石仏が現れた。


「この寺の名物、十六羅漢像だ。二十六尊者もある」

「そんなにあるの」


 足場は決して良くない岩にまで、像があるのを見て、悠はびっくりした。


「もっと上に上がっていくと見られるが、行くか? 一番上にあるものは道がないから推奨しないが」

「館上さんの足が行くなら」


 館上は苦笑した。


「いや、ここまでらしい」


 悠は改めて石仏を見上げた。

 素朴で力強い羅漢像が、にやりと笑った。

 ぎょっとして、悠は瞬きをした。意識を集中して、もう一度見る。

 羅漢像は、静かに一点を見つめていた。どこも、おかしいところはなかった。悠は再三、見直したが、どこも変わりはないようだった。

 悠と館上は、もと来た道を引き返した。


 途中、墓参りの老人とすれ違い、互いに会釈した。

 鐘撞堂の前に立ち、本堂へ顔を向けた。静かだった。

 なんとはなしに佇んでいると、脇に立つ家の玄関が、からからと開けられた。

 僧侶の格好をした、眼鏡をかけた人が、「あら、館上さんじゃありませんか」

 よく通る声だった。


「ここの和尚さんだ」


 館上は和尚に挨拶をした。


「今日はなんでまた、こんな西のはずれに?」


 館上は、悠を指し、寺社の観光案内、と返した。

 和尚は、悠に微笑んだ。


「ここは観光ガイドマップの中でも外れにあって、観光客はそれほど来ないんですが、拳骨和尚と呼ばれた持外和尚が有名なんですよ。そこの」


 と言って、門のすぐ脇の水場を指し、


「その手水鉢、持外和尚が持ち上げたと言われているんですよ」


 と言った。


「手水鉢というより、岩?」


 和尚は気持ちよさそうに笑った。


「そうそう。あれを持ち上げてその下を掃除して見せ、和尚は不在ですと言って、じぶんを訪ねてくる武者修行者を追い払ったという逸話が残っています」

「怪力……」


 どんな人だったんだろう、と思いを巡らせたところで、悠は、手水鉢のそばに、うっすらと人影が見えた気がした。悠は目を瞬いた。人影の周りに、ゆらゆらと揺れる何かが立っている。じっと目を凝らしていると、人影が手を振り払うしぐさをした。すると、揺れていたものは風に飛ばされたように消えて行った。


「持外さんは文武両道で有名な方だったんですよ。そこの鐘も茶飯欲しさに降ろしてしまうとかね」

「なんていうか、お茶目な人?」

「みんなに愛されていらっしゃったんでしょう」


 和尚は続けた。


「ここは、大昔には、満潮のときには門の前まで船が着けられたという話もあります。今では信じられませんが、昔話として聞いておくのもいいでしょう」


 悠は目を開いた。じぶんが歩いてきたあの細道を思い、あれが全部水面に沈んでいるところを想像した。


「それだけ、ここは水に縁のあるところということだ」

「水は、流れていれば澄んでいますが溜まると厄介を呼びますからねえ」


 館上の言葉に、和尚はのんびりと返した。


「ここは水に縁のある寺。わたしはもう一箇寺を預かっていましてね。世音寺というんですが」


 和尚は、苦笑いした。


「私はもともと、世音寺の和尚でした。あとから、ここを頼まれましてね。まあそれはさておき」


 和尚は、悠を見た。


「あなたはお坊さんになる気はありませんか? 私は、向いていると思うんですよねえ。初めてお会いしましたが、あなたにもっと話を聞いてほしいと思わせる包容力を感じるんですよ。受け答えも柔らかい。ほっとする気持ちになるんです。そういう方は貴重ですよ」


 過分な評価に悠はびっくりし、慌てて何度も首を横に振った。横で館上が嫌なものを見たように和尚へ目をやり、小声で唸った。


「僕には無理ですよ」

「考えてみてくださいね」


 さりげなくもう一押しした和尚は、ふふふ、と笑った。

 では、お勤めがありますので、と言って、和尚は裏手へ回っていった。

 悠と館上は去っていく和尚に頭を下げた。

 裏手の坂から降りていくバイクの音がした。


「ここに来ることになったのは、和尚に会うためだったにせよ、悠がスカウトされることは想定外だっただろうな」


 館上が難しそうな顔をしてつぶやいた。


「和尚は悠の能力を見抜いたのか感じたのかわからんが、勘の良さはさすがだな」

「うれしくありませんけどね」


 悠は口を尖らせた。館上は悠の様子に、少しだけ笑った。


「悠、ここでなにか感じたか」


 悠は困った顔になった。


「感じるというか」


 先ほどの羅漢像が笑ったように見えたことを話すと、館上は、

「それだ」

 と、頷いた。


「おれにはそんなものは見えない。だが、悠は拾えるんだな。その感覚が今後必要になるということか」


 館上は、羅漢像のある方を振り向いた。

 悠もまた、同じ方向へ頭を巡らせた。

 正午近いのか、陽射しが真上に差し掛かっていた。


「これ以上は、用はなさそうだ」


 館上とともに、門の敷居を跨ごうとして、悠は夕べと同じ歪みを感じた。微かに、人の声がする。昨日と違うのは、声が小さくて聞き取れないがなにかを祈っているような、必死な感覚が伝わってくる。

 悠は立ち止まり、館上の袖を引っ張った。


「なんか、おかしいです」


 悠の話に、館上はあたりを見回した。本堂、鐘撞堂、砂利道。


「特別変わったことはないようだが」


 悠はゆっくり首を振った。


「僕にもはっきりとは。だけどなんだか、そこにないといけないのに、なにかが溶けていく感じがする」


 館上は眉を顰めた。

「わからないことが増えていくが、それすら、ヒントになりそうだ。そう思うことにしよう」

 館上は悠の肩に手をまわし、「一緒に降りるぞ」と言って、ぴったりくっついたまま、石段を下りはじめた。悠を抱えるようにして歩くと、大丈夫だと館上は思っているらしい。悠は苦笑いした。

 今度は、何も起きなかった。

 悠にとっては、何も起きないのが日常だった。それがここに来て以来、ずっと何かが起き続けている。それに対して、なぜじぶんは驚きも怖がりもしないのか。

 心の奥に、ずっとあるもの。

 それは、尾道に来てから少しずつ形を取り始めていた。

 怖いのに、目をそらしたくない。じぶんにはまだ何もできないけれど、できるかどうかもわからないけれど、それでも見届けなければならないものがある。そんな気がするのだ。

 それがある限り、悠は進んでいける、そんな感覚がある。それに対する名前はつけられていないが、いま、たしかにここにいて、生きているのだという思いを悠は両手で握りしめていた。


 石段を下りて細道を引き返し、ようやく車が走行できる道にでたところで、館上は大きくため息をついた。

 見上げた悠の目に、夕べ見た、顔を盛大に歪めた館上の顔が再現されていた。


「非常に不本意だが、絵虹で昼飯をとることにしよう」


 できればお茶程度で済ませたかったとぶつぶつ言う館上に、悠は昨日からの疑問をぶつけた。


「そんなに行きたくないのはなぜなんですか」

「……行けばわかる」


 館上は口を曲げて、ぼそりと言った。


「あそこは一見、喫茶店だ。だが、だれもが入れるところではない」

「というと?」

「それも行けばわかる」

「館上さんって、いつも説明が大雑把すぎるよ。そんなんで、わかりやすく保険商品の説明、できるの?」

「うるさい。それとこれはべつだ。おれもあの店に行くのは初めてだが、噂でどういう店かは知っている」


 へそを曲げた館上は、すたすたと歩き始めた。


 線路を渡って、商店街へ向かい、そこからまた、細い道をうねうねと歩く。

 東へかなり歩いているのはわかるが、悠にはここがどのへんなのか、わからなくなった。


「こんな迷路みたいに歩かなくても商店街の脇道を一本入っていって方が早く着くんじゃないの?」


 少し息を弾ませながら悠が問うと、館上は片方だけの口端を上げて笑った。


「そんな道順じゃ、絵虹にはたどり着けないんだよ」


 そらこっちだ、と言って、館上はまた道を曲がった。人が一人通れるほどの道幅を歩いていく。まっすぐ行ってまた折れて、うねった道を歩いていく。悠は次第に、上と下の感覚がなくなっていくような、奇妙な心持ちになった。振り返ったら、たくさんの何かの手が伸びているんじゃないか。そんな思いが頭をよぎり、ぞくりとした。


 悠はひたすら館上の後ろへ目を向けて歩いた。

 やがて、少し広い、けれど車は入れない程度の道に出ると、右に折れて館上は、「あと少しだからな」

 と言って、前方を指さした。

 あたりは倉庫のような、民家のような、古めかしい建物が連なっていた。その途中に、小さな看板が軒下に出ていた。

 悠が目を凝らしてみると、そこに、虹を吐き出す竜の絵とともに「絵虹」と書かれていた。


「ずいぶん遠くまで歩いた気がします」


 言いながら、悠はうっすら滲んだ額の汗を手で拭った。まだ少し、息が弾んでいる。


「悠は運動不足みたいだな」

「それは認めます。尾道の坂はいい運動になります」


 ほどなくして、店の前に着いた。


「本当は、ここに入るのだけは、できるなら避けたかったが」

「そんなに嫌なんですか」

「師匠が面白そうにこの店の話をしていた。師匠の面白さの基準は、おれが厄介と思う基準なんだ」


 館上が口元を引き締めた。悠は、館上になんと返していいかわからなくて、黙ったままでいた。

 館上は、覚悟を決めたのか、ひとつうなずいて、民家の引き戸のような店の戸を開けた。

 ぽっかりと暗い空間が現れた。入るのをためらうような、虚ろな暗闇だった。

 館上はその暗闇に何のためらいもなく溶け込むように、するりと中に入っていった。

 あまりにも当たり前のように入っていった館上に、悠は驚いた。

 ためらいを覚え、そこだけ切りとられたような真っ黒な穴を凝視していると、そのまわりに、うっすらと無数の人の手や目のようなものが見えてきた。

 それらはただそこに漂っているらしい。

 悠のそばへ近づくこともなく、真っ黒な空間を縁どっていた。

 不気味さに慄く悠の腕に、暗闇から館上の腕だけが突き出てきて、悠の腕を掴み、緩い力で引っ張った。悠は無意識に足を踏ん張った。


「ほら、大丈夫だから」


 どこが大丈夫なのかわからない、と悠は心で抵抗したが、館上の力は案外強く、動転している間に席へ連れていかれたらしい。気がついたら悠は四人掛けのテーブル席に館上と向かい合って座っていた。


 さっき見た真っ暗な空間はなんだったのか、というくらい、レトロ感のある、趣味の良い内装の喫茶店であることに気がついた悠は、はああ、と息を吐いた。


 店内は、懐かしいような、ほっとするような、そういう温かみのある空間だった。初めての場所なのになぜか、「ここにいたら、安全だ」と思えた。悠は目を細めて椅子の背もたれに身を預け、脱力した。さっきの暗い穴みたいなものはなんだったんだろうかとドアへ目を向けるが、変わったところはなかった。白昼夢なのかと目を閉じ、また息を吐いた。


 くすくす笑う声がして、悠は顔をあげた。

 テーブルの脇に、白シャツに黒のネクタイ、黒のソムリエエプロンを着けた、顔にさわやかな笑顔をたたえた小柄な青年が立っていた。ショートヘアだが、毛先がくるくると元気に巻いているのが印象的だ。大きな瞳が印象的で、中性的な顔立ちの青年だった。


「いらっしゃい。はじめまして、だね」


 すこし高い声だけど、心地よい声だった。


「ご注文は?」

「昼飯を頼む。食後におれは紅茶。悠は?」

「え、えと」


 戸惑う悠に、青年は、手を軽く振りながら、


「ランチセットは日替わりで一つだけしかない。今日はチキンソテーだけどそれでいい? なら、それを持ってくるから、その時までに決めておいてよ」


 と言って、奥へ引っ込んでいった。

 悠はその背を見て、店内を見回した。落ち着いたサンドベージュの壁色に、ところどころに観葉植物が置かれていて、それがテーブルに座る客の顔が見えないようにしているらしい、と悠は思った。店は、カウンター席と、四人掛けのテーブルが二つという、規模の小さい店だった。昼時だというのに、客がほとんどいない。都内では、たいていの観光スポットの店は満席か待ちになる。尾道でもラーメン店は行列ができると聞いていたが、どうやらこの店は違うらしい。


 ほどなくして、二人の前にランチセットの盆が置かれた。

 館上の前には、焼き魚定食が、悠の前にはチキンソテー定食が置かれた。

 悠は、お盆を運んでくれた青年に、あればという前置きをつけて、食後にほうじ茶を頼んだ。


「館上さんは魚? チキンソテーしかなかったんじゃ?」


 悠は小声で聞いた。館上も、出てきた皿を見下ろし、


「この店の“一種類”は、客ごとに違うのかもしれんな」


 と言うと、館上は箸を取った。


「おれは肉を食わん。力が鈍るからな。この店はどういうわけかそれがわかるらしい。師匠が言っていたのかこれだったか」


 最後の言葉は、ひとりごとのようだった。館上はみそ汁椀を口に当て、飲み始めた。

「いただきます」

 悠は手を合わせ、それから箸を取った。おもむろにチキンにかぶりつくと、じゅわっと肉汁が口内に広がった。


「あっつ」

 慌てる悠に、館上が笑った。


「出来立てに真っ先にかぶりつくからだ」

「館上さん、これ美味しいです」


 悠はさらにチキンを口に運んだ。夢中で箸を進めていく。あっという間に、お盆の上の皿が空になった。

 お腹がいっぱいになってほっと一息ついたところで、白髪のマダムが二人に近づいた。


「涼佑ちゃん、……涼ちゃんでいいわよね。あなたの師匠がいつも涼佑って言ってたから、すっかり顔なじみな気がするのよ」


 館上が、「涼ちゃん」と呼ばれたところで嫌そうに顔をしかめた。だが、マダムはにっこりと笑って、館上の返事も待たずに続けた。


「ようやく店に来てくれてうれしいよ。で、いつにも増して師匠やほかの何かに使われてるようねえ」


 そう言って、ずい、と館上の横に恰幅の良い体を滑り込ませた。鼈甲縁の眼鏡の奥の目が館上の目を捉えた。館上は嫌そうな顔になった。


「おれは、初対面という認識だ。だから、なにもしないからな」

「何も言ってないのに」


 マダムは白眉を跳ね上げ、すい、と視線を悠に向けた。なんということのないしぐさだが、マダムから圧がにじみ出た。


「纏う空気から察するに、尾道で育った子じゃあなさそうだね。初めまして、お名前は?」


 悠はぱっと姿勢を正した。


「渡壁悠です」


 ぺこりと頭を下げた悠を見て、マダムはうんうん、とうなずいた。


「礼儀正しい子は好きだよ。ワタシは絵虹の店主の、詠子。よう来たね」

「あ、ランチ美味しかったです。ごちそうさまでした」


 詠子は両手を胸の前で握り、満面の笑みを浮かべて身をよじった。


「若い子にお礼を言われるのって、寿命が伸びるわよねえ」


 推しのタレントに遭遇したファンのように頬を染めた詠子を横に、館上はうんざりした顔になった。


「それでわざわざ席にまでやって来た理由は? 聞いてもおれはやらないが」

「ガードが硬いのねえ」


 詠子はカウンターにいる青年に、手をあげた。青年はそれを見て頷いた。青年は大股で近づいてきた。手にしたトレイには、三人分の飲み物が載せられていた。青年は、それを各々の前に置き、空になった食器を片づけて去っていった。

 詠子はコーヒーの入ったカップを手にして、一口飲んだ。

 悠もつられて、大ぶりの湯飲み茶わんのほうじ茶を飲んだ。館上は、紅茶を片手で持ち、一口含むと目を細めた。柔らかな表情から、悠は館上は紅茶好きらしいと思った。


「涼ちゃん、最近、ここらあたりが不穏なのをわかってるわよね?」


 詠子はカップを持ったまま、ちらりと隣へ目を向けた。


「それ、原因はわかってる?」


 館上は無言でかぶりを振った。


「ここ数日、なぜか少しだけ和らいだけど、根本的な解決ではないから、あまりもたないわよ」


 なぜか、というところで詠子は目線を悠に向けてきた。やさしい声音とは裏腹の、強い視線だった。


「うちも、仲間内でできることはしているけれど、限界がある」


 カップをソーサーに戻すと、微かな音が落ちた。


「尾道の除夜の鐘、私はまだ聞いていたいわ」

「あと百年は聞いていられるだろう?」


 館上の声に、苦し気な色が混じっているのは気のせいか。


「頼んだわよ、涼ちゃん。あんたの師匠はやれるところはやってくれたから、これ以上は頼っちゃだめよ」


 言いながら、詠子はソーサーごと持ち上げて、席を立った。

 はっとした館上は、悠揚とした詠子を見上げた。


「そんな話、聞いてない。教えてくれ」


 詠子はふふ、と笑った。


「わかるけど見えないからどうしようもないって、ずいぶん昔に言っていた。だから涼ちゃんになにも話していないのさ。ただ、あの人なりに見て回ったことだけは、知ってて。それとね」


 詠子は悠に、にこりと笑いかけた。


「悠ちゃん、尾道はね、この地で笑顔を忘れなかった者や祈った者、礼を言った者が作った町なんだよ」

「どういうことですか?」

「ここはね、古くは年貢積出港に指定されたことがはじまりで、やがて内海航行船や遣明貿易船が寄港して、港町として栄えていったんだよ。知ってたかい?」


 悠は首を横に振った。


「要するに、寄港地として栄えて発展して、豪商がでてきてね、そういう人たちが神社仏閣を寄進造営したんだよ。それが、尾道の観光スポットになってる寺や神社さ」


 その後を館上が引き受けた。


「豪商たちは、ただ寄進して終わり、じゃなかったんだそうだ。町の行政や流通、金融、対外折衝もやっていたらしい。運営者でもあった」

「そうそう。海から富が来て、山の寺社へ富を収める。町も人も、そのあいだで生きていた。祈りや願いを纏う町だったんだよ」


 悠は感嘆した。


「すごいですね。話を聞いてるだけで、当時の人たちが元気よく生活しているのを想像できてしまう」

「涼ちゃんは師匠に似て、たぶん歴史好きだから、色々聞くといいよ。特に、観光スポットのことはね」


 詠子はごゆっくり、と言ってカウンターの奥に入っていった。

 悠は詠子の背中に小さく頭を下げた。そして心に、詠子が最初に言った祈りの町、という言葉が妙に生々しく心に立ち上がってくるのを感じた。

 館上は腕を組んだまま、どさりと椅子の背もたれに身を投げた。

 眉間にしわを寄せ、目を閉じた。そのまま、館上は動かなくなった。

 悠はそっと席を立って、手洗いに行った。

 背の高い観葉植物が数鉢置かれていて、戸口が見えないようになっていた。

 ドアを開けると、やけに薄暗い照明がぼんやりと中を照らしていた。その中に入ると、洗面台の奥に、また扉があった。明かりのせいか、やけに遠くに感じる。その扉の斜め上に、三枚の御札が貼られていた。悠には、三枚とも同じものに見えた。


「何の意味があるんだろう」


 不思議に思ったが、素人にはわかるわけがない。

 用を済ませて手を洗い、ポケットのハンカチを取り出そうとして体を捻った拍子に、肘で盛大な音を立てて扉を小突いてしまった。

 扉は思ったより頑丈で、肘がじんじんとして、だんだん痛みが強くなった。


「いたた」


 肘をさすりながら、体を扉に預けた。

 そのとき、目の端をふわりと白いものが視界をよぎった。

 白いものはひとつではなく、三つあった。それらは、導かれるようにふわふわと洗面台に向かって行き、それぞれ濡れた洗面台の内側にぺたりと張りついた。

 それを覗き込んだ悠は、顔を青くした。ばっと内扉を振り返った。その斜め上の壁にあったはずの御札が、ない。


「ああああ」


 悠は頭を抱えた。このままにしてはおけないことだけは確かだった。

 水で滲み、書かれていた文字が一筆書きの線のようになった札を手に取る。悠は腹を括り、個室を出た。どきどきする胸を落ち着かせようと深呼吸するが、一向に収まらない。

 とにかく席に戻り、館上に相談しようと思った。席に近づくと、館上の姿だけでなく、そこに済法寺の和尚が一緒に座っているのに気づいた。


「おや、どうしたんです? 顔色が悪いようだけど」


 穏やかな話し声に、悠は縋りつきたくなった。


「あの……」


 悠は水に濡れた御札をテーブルに置いた。


「まあ、お掛けなさい」


 と促され、悠は和尚の横に座り、うつむきかがんで話し始めた。

 話し終わり、悠はそっと上目遣いに和尚を見た。和尚はにこにことして、「あれは、私がしゃれで貼ったものですから、安心してください」

 と言った。


「昔話に、三枚の御札という話があるでしょう。あれの、厠バージョンに則って貼ったんです」

「どういうことですか?」


 くすくす笑う和尚は、そっとカウンターを指さし、小声で、


「だって、ここには年齢不詳の山姥がいるでしょう?」

「だれが山姥だい!」


 なぜか、詠子がカウンターから大声で返してきた。


「ね? 常人では聞こえないのに」

「歳をとると陰口はよく聞こえるんだよ!」


 声が、笑っていた。

 和尚は、手元のアイスコーヒーをぐぐっと飲み、


「あの御札が落ちたということは、きっと厄が取れたということでしょう」

「一度に三枚もですよ?」


 じぶんでも情けない声だった。


「あとで新しい御札を貼っておきます」


 和尚は微笑を浮かべ、濡れた御札を手に取り、ハンカチで包むと、法衣の袂にしまった。残りのアイスコーヒーを一気に飲み干すと、


「さて、私はこのへんで。館上さんもお気をつけて」


 和尚はすっと立ち上がり、あっという間に店を出て行った。


「悠、なにかあったのか」

「え?」

「御札は、簡単に剥がれ落ちるものではない」


 ついてこい、と言うと、館上はトイレへ向かった。戸を開け、二人でなかを見た。さっきより明るく白い照明で、洗面台を照らしている。中はすっきりとしていて、清潔感があった。壁にはうっすらと御札が貼られていた跡があった。


「さっきより、室内が明るい」

「ということは、悠がなにか憑けてきたか、悠を疎む者がいたか、もっと悪い何かか」

「ええっ、どれも嫌だ」


 悠はじぶんを抱きしめるように、両腕を掴んだ。


「とにかく札は祓ってくれたんだろう。和尚に感謝だな」

「じゃあ今度、お礼を言わないと」


 二人で話しながら席に戻る。伝票を取り上げた館上は、

「ここはおごるから」

 と言って、会計を済ませようとした。

 そこへ、電話をしていた詠子が受話器を置くと、こっちへ出てきて、


「和尚さんに届け物をしてくれないかい」


 と、テイクアウト用の紙箱を差し出した。


「さっき渡せばよかっただろう」

「いま、奥さんから頼まれたんだよ」


 と言って、箱を館上に押しつけた。


「中はケーキだからね。気をつけて」

「朝陽にさせればいいだろう」

「あの子はこれからコーヒーの仕出し」


 悠は唐突に、バロンとの約束を思い出した。


「あの! チーズケーキを三つ、お持ち帰りしたいんですけど、いいですか」


 詠子はにやりと笑った。


「初見の客なら知らないはずの、持ち帰り用チーズケーキの存在を知っている子は嫌いじゃない。いいねえ、特別に持たせてやってもいい。ただし」


 詠子は横目で館上を見た。


「この子の頼みを叶えてやりたいよねえ?」


 館上は舌をうった。


「わかった。デリバリーしてやる」


 館上は詠子の紙箱を手に取った。


「朝陽、お持ち帰り三つ用意して」


 詠子の声に、はーい、と返したのは、青年だった。


「お待たせしました。お持ち帰り用チーズケーキ三個ですね」


 奥から同じ紙箱を抱えた朝陽が出てきた。


「このケーキは、常連さんで店主が許可した者しか持ち帰りできない、幻のケーキなんだよ。味わってね」

「そんな貴重なものをありがとうございます」


 悠は、恐縮しながら、帰ったら図々しいバロンをとっちめてやろう、と思った。


「館上さんも」


 と、悠はぺこりと頭を下げた。


「魔女には勝てないから、気にするな」

「頼んだよ」

「ちょっと待って」


 朝陽はなにもないじぶんの掌を広げて見せ、それから悠の耳のうしろに手をやり、はい、と何かを取って見せた。


「うわ、マジックだ。あれ? 僕のハンカチだよね」

「落としてたよ」


 悠はあわててお礼を言った。だが、脳裏に、微かな違和感が走った。

 そのまま朝陽と詠子二人に見送られ、悠たちは店を出た。


「さて、済法寺に引き返すか」

「また迷路を歩くんですか」

「いや、そんな面倒なことはしない」


 館上はまっすぐに歩き、辻で曲がり、道なりに歩き始めた。

 来た時とは違う道だった。

 悠はふと、尻ポケットを探ってみた。


「ない」

「え?」

「スマホを店に忘れたみたい!」

「おい」


 悠は手にした紙箱を館上に渡して、もと来た道を走って引き返した。館上が何か叫んでいるが、聞き返さなかった。


「あそこには紙タオルがあったから、結局ハンカチは取り出さなかった。スマホだって、落とさないようにストラップをベルト止めにつけたチェーンのDカンで止めてたんだ」


 悠は、記憶を頼りに、角を曲がり、走った。その次はたしかこっち、と頭の中で地図を追う。おかしい、さっき店を出たばかりのはずなのに、なぜか遠く感じる。


 走っていくうちに、来た時と同じ、絵虹と書かれた看板が見えた。

 店のドアを開ける。

 今度は、真っ暗な穴はなく、すぐに店の中に入れた。


「へえ、ひとりでも来られたか」


 入口のところに、朝陽が腕を組んで立っていた。表情の読めない静かな目で、悠を見ている。給仕をしていたときとは、別人のようだ。


「館上さんがこの店に入ることができるのは僕も納得する。だけどあんたは別。館上に連れられてくるなんていうズルをして、またここに来られても詠子さんには迷惑だからさ」


 言いながら、朝陽はエプロンから悠のスマホを取り出した。悠の眉尻がつりあがった。


「ここは、店が認めた客しか入れない。あんた、館上の真似して、ちょっかいかけてる女の子とか連れてくる、なんてことをするなよ」

「返せ」


 悠の手がスマホに伸びる。朝陽はそれを身軽によけた。


「あんたからはへらへらしたよそ者の臭いがする。ここは、詠子さんが大切にする店で、危うい場所だ。それを乱す奴は、僕が排除する」


 重ね重ねの悪辣な言葉に、悠はかっとなった。


「たしかに僕はよそ者だけど、だからと言って人の物を盗るほうがよっぽど悪いだろう!」


 朝陽はくくっと喉で笑った。


「ひどいなあ。落とし物を拾ってやっただけだ」


 抗議しようと口を開けた悠に、朝陽はほらよ、とスマホを悠へ放った。

 悠は慌てて両手でキャッチした。

 スマホから、ちりん、と微細な音がした。

 ストラップに、小指の爪の半分ほどの大きさの鈴のついたチャームがついていた。虹を吐き出す銀色の龍の細工がついていた。


「それはこの店の意匠だ。なくすなよ」


 そう言うと、無表情のまま、朝陽は戸を開けた。


「御札がお前の身代わりをした。ふつう、時間は未来から過去に流れているけど、この店の時間の流れはふつうじゃない。逆も起きる」


 朝陽はそこで言葉を切り、目を伏せた。 


「あれは、これから起きることへの身代わりかもしれない。気をつけろよ」


 朝陽はそこで、ほんの少しだけ声を落とした。


「ここに入れたなら、あんたはもう無関係じゃない。ふたつも警告してやったんだから、感謝しろ」


 朝陽は悠の背中を押して、外へ追いやると、戸をパタンと閉めた。

 店の前に突っ立った悠を、ゆっくりと一陣の風が撫でていった。

 悠の頭の中で、とりとめのない言葉が渦巻いていた。

 いったい何がどうなったというのか。


「おい、スマホはあったか」


 館上の声で、悠はハッと我に返った。

 掌は汗ばんでいて、スマホの画面に指の跡がついていた。

 悠は浮かない顔で、うなずいた。


「先を急ぐぞ」


 館上は、悠に紙箱を返した。

 その後、済法寺に着くまで、二人は無言のままだった。

 済法寺には、和尚の奥様が出迎えてくれた。

 絵虹から、というと、悪いわねえ、と言って、缶ジュースを持たせてくれた。


「助かったわ、これから来る方に出せるような上等なものがなくって困っていたのよ」


 館上はおや、というように、眉をあげた。


「ここでそこまでのおもてなしをするような人が?」


 奥様はうなずいた。


「なんでも、放置されたままの祠や石仏とか、いろいろ調査されてる学者さんが来られるのよ。尾道にとっても、いいことをしてくださっている先生なんですって。で、女性と伺っているから、一緒にいただくなら美味しいものがいいでしょう?」


 奥様は頬に手を当てて、にっこりした。

 和尚と奥様とで、その方と話をするらしい。


 「間に合ってよかった」


 館上はそう言って、その場を辞した。

 午後も時間が進み、夕暮れになろうとしていた。

 墓所の山を仰ぎ見た悠は、あれ、と小さな声を漏らした。

 山のてっぺんのあたりで、何かがふわふわと浮いているように見えた。

 それから本堂にむかって、なにかが波打つように見えた。

 朝陽とのやりとりでささくれだったままの部分が、すうっと静まっていった。

 本堂から伸びる波が、今度は東に向かって渡っていく。


「桃色……?」


 その波は、最初は綺麗な波形を描いていたが、なにかに揺らされたように、うやむやになって溶けていく。何度も打ち返す波のように、桃色の線は生まれては、散っていくのだ。


「館上さん、見える? 桃色の澄んだ線が、あの辺で乱れていく」


 悠は空中を指さした。

 館上は眉を顰め、悠の指先を追う。


「おれには見えない」

「ええ? あんなに澄んで見えるのに」


 残念そうな悠に、館上は首を振った。


「これが、祓う者と、そうでない力の持ち主の違いだろう。……バロンめ」

「あの波を描く線は?」

「それが、尾道を守る印だろう。だが、この寺の近くで乱れているんだな」


 悠はうなずいた。


「ということは、西の端が綻んでいるということだ」

「館上さんの話、ようやく本物だって実感したよ」

「今頃か」


 悠はうなずいた。


「どうにかならないかな」


 顔を曇らせながら悠はもう一度波の線を見た。線は、静かに波を打ち、あるところまで来ると乱れて消えかかる。


 じゃり、と砂を踏む音で、悠と館上は振り返った。

 本堂の脇の家に向かう、一人の女性がいた。

 長い髪を後ろで一つに束ね、細面の顔がはっきりわかる。ほっそりした体に薄いベージュのスーツで固めた、四十代半ばくらいの人だった。


 悠と館上は顔を見合わせた。彼女が客のようだ。

 彼女は二人へ会釈をすると、脇を通り過ぎて行った。

 彼女の背後の遠くに見える桃色の線が、一瞬、歪んだように見えた。

 館上と悠も会釈を返し、「そろそろ帰ろうか」と寺の門をくぐって石段を下りて行った。

 悠は、バロンの頼まれたケーキを抱え直した。


 夜になって、悠は庭先に出た。草を刈りこんでから、根っこを処理するんだよと、近所の人に教えられ、道具を借り、とりあえずは見られる庭になっていた。

 空を見上げると、濃紺の空にたくさんの大粒の星をつなぐかのような、桃色の淡い波がそよいでいた。


「昨日まで見えなかったのに」


 あれが、尾道を昔から守っていたものなのか。

 ところどころ、波が途切れて、その後が弱々しく震えるような動きをして、消えて行く。

 悠はしばらくのあいだ、生まれては消え、消えては生まれる線を見つめ続けた。

 ふいに、昼間の詠子のことばが心に浮かんだ。


『この町はここで成功した人たちと寺社に守られてきた』

『人々はそのなかで暮らしていた』


 朝陽の言葉も。


『詠子さんはこの店を守っている』

 悠は、心の中で何かがつながりそうでつながらない、もどかしい気持ちになった。


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