第五章 寺町の線
居間のローテーブルには、三客の茶碗が置かれていた。中央の籠にはみっしりとせんべいや饅頭が入っている。
館上は一瞬だけ茶碗の数に目を留めたが、問いただすことはしなかった。
悠は神妙な顔をして、夕方にやって来た館上の話を聞いていた。
館上の本業とは違う、もう一つの仕事の話から始まり、その仕事をしていくうえで、知った尾道の守護印の存在と、その印が故意にこわされようとしていること。この家が、守護印の要の役をしているらしいこと。
「だから、この家を売却するのは止めてほしい。何が起こるかわからない」
悠は困惑の表情を浮かべた。
「そうは言っても」
今は母がこの家の所有者だ。そして、母はこの家を売却することを決めている。それに、館上の話をそのまま信じるには、突飛過ぎた。
尾道の寺社、観光ルートになっている持光寺、天寧寺、艮神社、千光寺、大山寺、御袖天満宮、西國寺、浄土寺、海龍寺。
「この寺社を束ねる要のような役目を、この家が代わりに担わされているように見える。もっとも、これは今のおれの見立てだ。正確には、これから確かめるしかない」
寺の名前を言われても、位置まではわからないか、と館上はつぶやき、脇に置いてあった大きな黒い鞄から、地図帳を取り出した。ぺらぺらとめくり、尾道市街図を開くと、赤ペンでそれぞれの寺社を丸で囲った。
悠は西から順に、先ほどの寺社の位置を示された地図を見た。
「ランダムに丸があるようにしか見えない」
「平面図だからな」
そう言うと、館上は地図を緩やかな山の形に曲げて見せた。
「あれ?」
丸の位置が、半円を描いているように見えた。こちら側から見ればばらばらでも、向こう側から見れば、別の形に見えるのかもしれない。悠がそう思っている間にも、館上の話は進んでいった。
「印は、異界との境界を作っていると思われる。印はこちら側よりも向こう側から見える形を優先して作られているはずだ。異界から見れば、おそらく完璧な形で見えることだろう」
「館上さんはどうしてこれが綻び欠けているとわかったんですか」
「相談事が増えた」
館上は顔をしかめた。
「いままでより、厄介なものを相手にしないといけない件が格段に増えた」
館上は腕を組んでソファの背にもたれた。
「おれたちのような仕事をする者に憧れる者もいるが、実際はそんな格好いいものではない。あれは、命懸けの仕事だ」
悠は目を見開いた。
「……そんなに?」
館上は頷いた。
「相手におれの手の内を読まれて防がれたら? 次のターンで相手がおれより強力な力で攻撃してきたら?」
館上はじろりと悠を見た。
「おれはそんなに力は強い方ではない。独鈷杵がせいぜいだ。師匠は三鈷杵だがな」
「独鈷杵?」
「法具の一種で、両端が分かれていないものだ。気にしなくていい」
悠はスマホで検索し、出てきた画面を館上に見せた。館上は「それだ」とうなずいた。悠にとって、館上の話は分からないことだらけで、ひとつずつ、潰していくしかなかった。
館上は冷めかけた茶を一口飲んだ。
「尾道の山の中腹の寺、海に近かった場所、坂、古道。昔の人にとって山はあの世に近く、平野や町はこの世だった。いま、観光ルートになっている寺社はそれぞれ、境界を支える点であり、鎮めの点でもあるように、だれかが配置したのだと、おれは見ている」
悠は黙ってうなずいた。
「この家は尾道にとって特別らしい。それを理解しないものに住まわせたら、尾道は壊れるかもしれない」
悠は俯きかけた顔をあげた。
「そんなに?」
そう言って、悠は昨夜のバロンの言葉を思い出した。
おせったい。
この家は、おせったいをする場だ。
悠の中で、何かがつながり始めた。
館上は、茶を飲み干すと、立ち上がった。居間を出て廊下を歩く間、悠は前を歩くスーツ姿の館上の背中をじっと見た。
強い意志を持った、広い背中だった。
悠は門扉までついて行った。いつのまにか日は沈み、青い宵が広がっていた。
「ここでいい」
館上はそう言うと、「考えてくれ」と言って、坂道を下りて行った。
館上の歩く小路に、隣家の窓から漏れる明かりがこぼれていた。
静かな湿り気を含んだ空気が、悠を包んだ。
館上の後ろ姿が、蜃気楼のように揺れて見えた。
微風に乗って、どこからか、さっきまで全然なかった、トントンという包丁の音、ざあ、と水を流す音が悠の耳に届いた。
「館上さん」
悠は彼の背に向かって手を伸ばした。
遠くに「早う帰っておいで」とたしなめる女の人の声がした。
「もう遅いから、出ちゃだめよ」
「待って」と子どもの慌てた声がした。人の気配はないが、悠のすぐ近くでやりとりをしているような感覚だった。
不意に、道なりに歩いていた館上を追いかけたくなった。彼の腕をつかんで、行くなと止めたい衝動が湧いた。
一歩、門扉の外に出た。
体の内側が外へめくられるような感覚が走った。
視界がぐにゃりと歪んだ。
悠の脇をなにかがするりと通り抜ける気配がする。
「館……」
悠が言い終わらないうちに、館上が振り返った。
館上の顔が、険しくなる。
彼の口が小さく動いた。
彼の動きがスローモーションに見える、不思議だな、と悠は夢見心地で思った。
上か下かわからなくなったところで、悠はがっしりとした腕に支えられていることに気がついた。
「お前、無防備すぎやしないか」
頭上から、苦々しさを滲ませた館上の声がした。
館上の気配に、悠は勝手に心が解けていくのを感じた。
「立てるか?」
館上が悠の顔を覗き込んだ。
悠は、なんとかうなずいた。両足に力を入れ、地面を感じる。それからゆっくりと上体を起こしていった。
目の前に、眉を顰める館上の顔があった。
「この家で、なにかあったのか。いや、あったから、だな。なぜそれを話さなかった」
悠は首を傾げ、「ああ」とつぶやいた。
「もうすぐ、バロンが来ます。紹介しますよ、バロンは館上さんのことを知っているようでしたけど」
館上にもう一度、家に上がってもらおうと、歩きだそうとして、悠は少しふらついた。館上は悠の体を支え、門扉をくぐった。
館上は喉の奥で微かに唸った。
「おれは味方だ」
家そのものに言い聞かせるように、苛立たしげに言い、そのまま玄関へ歩き出した。
「この家の境界は、お前に、今は外に出るなと教えたのだろう。無視するから、強制的に止めたんだ。すぐに良くなる」
「そんな警告、聞いてません」
「さっき、違和感がなかったか」
「……そういえば、人がいないのに、母親と子供の声がしてた。ふだんは聞こえてこない生活音がしたっけ」
「それだ」
悠は口を曲げた。
「わかりにくいです」
「黄昏時は、境界が曖昧になりやすい。たまたま、その境界が本当に揺らいでいた場所に悠が行こうとした。だから、帰れと言われたんだろ。怖かったり痛かったりするより、やさしい合図だと思うぞ」
「境界に思いやりの心があるんですか」
「宵闇は変なものとすれ違いやすい。おれは祓う仕事をしているから、普通の人より遭遇しやすい。悠の体質はそういうのを引き寄せやすいから、この時間は外に出るな、家に戻って家のことをしろ、と言っていたんじゃないか」
悠は、聞こえてきた内容を思い返した。
「なんで聞こえていない館上さんが、忠告の内容を言い当てるんですか」
「そういうのが、おれの能力だからな」
話しながら玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩くときもなお、館上は悠を支えて歩いた。
もう大丈夫だからと悠が言っても、館上は悠から離れなかった。
居間の戸口に来たところで、館上がぴたりと立ち止まった。館上からぴりぴりした気が一気に膨れ上がった。
「バロン、館上さんだよ」
声をかけて、ドアを開けた。
ソファに座るバロンが、饅頭を口に運びながら、もう片方の手をあげた。
「逢いたくはなかったが、よう来たな、涼佑」
「名乗った覚えはない」
館上がむっとした顔をバロンに向けた。
「涼佑は、そっちの界隈では有名人。知らないわけがないじゃろ」
館上はバロンの横に悠を座らせ、じぶんは反対側のソファに腰をおろした。
悠はあわてて館上に声をかけた。
「この黒燕尾服を着ている黒猫が、バロン。僕の祖母の知り合いみたい」
「化け猫ふぜいが、なぜ境居の家にいる」
バロンはふふん、と笑った。
「ワシの正体、言い得て妙じゃのう。さすが涼佑」
肯定するバロンに、悠が驚いた。
「バロンって、化け猫なの?」
バロンが答える前に、館上が話し出した。
「こいつは見えない存在が猫にとり憑き、合体したものだ」
バロンは髭を撫でながらうなずいている。
「祓うなよ」
「うわあ」
「お前、知らないでこいつとつるんでいたのか」
館上が呆れた声で言った。
「知らないというか、二足歩行する、僕より祖母や母を知っている先輩みたいなものだと思ってた」
「お前、無防備なうえにお人よしだったんだな」
「だから、放っておけないじゃろ」
「まぜっかえすな。バロンはなんでこの家にかかわる」
「涼佑が懸念していることに通じる。この家の存在理由を、悠に体感してもらうためじゃ」
ふたりは目を逸らさず、じっと睨み合った。
悠の全身が、二人の気にあてられたように、かっと熱くなっていく。先ほどまでの不調がうそのようだった。
悠は立ち上がって、
「お茶を淹れ直すよ」
と、茶碗を脇に置いていたお盆に置き始めた。
「もう大丈夫か」
館上の声に、悠はうなずいた
。
「大きめの急須があったじゃろ。あれを使ってくれ」
台所で湯を沸かし直し、お茶を淹れる支度をし始めた悠を二人は見るともなしに眺めていた。剣呑な雰囲気が霧散して、悠はほっとした。
お茶を淹れ直し、再びソファにもどり、三人分と、もう一人分の茶を置く。
館上は余分な茶碗をちらりと見たあと、バロンへ目を向けた。そして、ぼそりとつぶやいた。
「そういうことか」
バロンは得意げにうなずいた。
「悠はすでに、おせったい役をこなしておる。それに、この家の記憶が悠を認めて過去を見せている」
館上の目の色が変わった。
「待て。この危なっかしいのが、もう首を突っ込んでいるのか」
バロンはまた、うなずいた。
「悠が飛び込んだというより、この家が、悠に訴えているんじゃ。境居の血が濃い悠に」
館上は顎に手を当てて唸った。
バロンはすました顔で茶碗を手に取り、ふうふうと息を吹きかけはじめた。
「悠には、この家の売却や処分をなんとかしてくれればそれでいいと思っていたが、それだけでは済まないということだな」
そう言って、館上はちらりと、四人目の茶碗へ目を向けた。茶碗からひっそりと立ちのぼる湯気が、ふいに大きく揺れていた。茶碗の横に、空になった饅頭の包み紙が置かれていた。
「嫌な気配ではないことは認める」
「素直に良い気だと言えばいいじゃろうに」
バロンが交ぜ返す。
館上は気まずそうに目を逸らし、咳払いをした。
「で、明日は悠と寺巡りから始めるんじゃろ」
バロンはお茶を飲み干すと、急須を手に取り、じぶんでお代わりをつぎ始めた。
「それしかないだろう」
「ちょっと待って。僕を無視して決定事項みたいな話をしないで説明してよ」
悠は館上とバロンを交互に見た。
館上もじぶんで急須を掴むと、勢いよく茶碗に注ぎ始めた。勢いのついた緑のしぶきが、茶托へ零れ落ちた。
「お前を抜きに、綻びを何とかしようと思っていたが、こうまであっち側に取り込まれようとしているなら話は別だ」
「取り込まれるというより、指名を受けた、じゃろ」
「それを取り込まれるというんだ」
苦々しげに口元を曲げ、館上はため息をつき、悠へ顔を向けた。
「素人を参加させるのは不本意だが、しかたがない。こいつの言う通りだ」
と言ってバロンへ顎をしゃくって見せ、
「明日から印を結ぶ寺をめぐり、綻びを見て回る。おれは祓う側で、綻びを直すことはできない。だが、境居の家が選んだ悠はおそらく、綻びを直すためのキーになるはずだ」
「僕、わけがわからないよ」
悠は不安そうな顔でバロンを見た。
バロンは個包装のかりんとうを見つけ、袋を爪でひっかけて開けようとしていた。
苦戦しているバロンの手から袋を取り上げ、悠は袋を縦に割いてやった。
バロンは嬉しそうな顔をして、中身を一気に口に放り込んだ。ぼりぼりと噛み、目を輝かせた。
「うまいな、これ。また買ってきてくれ」
呑気なバロンに、悠は先ほどまでの困惑と不安が薄くなっていくのを感じた。
「要するに、この家は、おせったいをする。それが、尾道のためにもなっている。館上は尾道に施された印が綻びかけているのをなんとかしたい。この二つが、どうも同じ方向を向いている。だから、印の要の点である寺社を見てみよう、そういうことじゃ。尾道観光できるぞ、悠」
悠はバロンの話を聞きながら、だんだんと苦笑していった。バロンは、そこまでお使いに行っておいで、みたいに話す。悠は、じぶんひとりで絡まった糸のように思っていたらしいことに気づかされたようだった。
母にどう説明するのかは、まだ思いつかない。それでも、何も知らないふりをしてこの家を手放すことだけは、もうできない気がした。
「とりあえず、やれることをやってみる」
悠は二人に笑顔で宣言した。
「よし! だったら明日は寺巡り……の前に、ふたりで絵虹へ行ってこい」
館上が顔を曇らせた。
悠はそれを無視してバロンに尋ねた。
「絵虹って?」
「喫茶店じゃ。あそこのチーズケーキはうまいぞ。悠、味を盗んでこい。それでワシに作ってくれ」
「わかった。買ってくるね」
悠はにこにこと請け負った。
「おれは行きたくない」
館上は苦り切った声で割り込んだ。
「あそこにいる魔女には会いたくない。悠にもできるなら関わらせたくない」
バロンはにやりとした。
「涼佑なら可愛がられるじゃろう」
「よしてくれ」
館上はそっぽを向いてお茶を一息に飲んだ。バロンはくくっと笑った。
「あそこに行くと、ヒントを手にできるぞ」
館上は声を詰まらせた。
「館上さん、僕はできることをしたいよ」
館上は悠の視線にたじろいだ。
「……お前の純粋な目で頼まれると、おれが大人げないように思えるのはなぜだ」
悠は手を叩いた。
「じゃあ、明日一緒に行きましょうね、館上さん」
「決まりじゃな」
館上はしぶしぶうなずいたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。よかったら、評価をお願いします。




