第四章 境居家に残るもの
ぷっくり膨らんだ可燃ごみの袋が五、六個、廊下の影に置かれている。それを背に、悠は七個目の袋を上から押さえつけ、口を縛ろうとしていた。
処分しようと思えば、いくらでも捨てるものはあった。
祖父母はものをため込む性格ではなかったようで、押し入れにも開いた空間があった。今、処分しようとしているのは、祖父母の衣類などだった。
古い写真、土地関係の書類などは引き出しに丁寧にしまわれていた。いずれ母に渡さなければならない。そういったものは一か所で保管することにした。
紙類の整理をしていて、悠は、寺や祠に関するメモや手紙などを見つけた。崩し文字で書かれたメモは、読んでみたいが、悠にとっては外国語のように見えた。
少なかったが、母が祖母あてに書いたものもあった。親子といえど、読んではいけないと思い、束ねて保管した。
二階はすべて、和室だった。その一室の押し入れにはたくさんの、細々したものが入っていた。衣装ケースが何段も積み上げられていて、上から引っ張り出そうとしたとき、四角い何かが降ってきて、悠の頭に直撃した。
「いてて」
頭をさすりながら落下物を見た。ぱらりと開いた日記帳だった。手に取ってみると、少しだけ右肩あがりの文字がぎっしり並んでいた。文字の癖から、母のものだとわかった。
読んだらだめだ。
そう思って、日記帳を閉じようとした。けれど、開いたページに並んでいた文字が、勝手に目へ飛び込んできた。
『夕べも布団の中に何かが入ってきた。掛け布団をはぐってみても、なにもない。だけど、布団をかけ直して寝ると、まるっこいなにかが足元に当たる。気味が悪い。眠気なんて吹き飛ぶ。母さんに言っても「わるいものじゃないから」と言って困ったように笑うだけ。父さんもとりあってくれない。こんなに怖いのになんでわかってくれないの。こんな家、いたくない。中学を卒業したら家を出て働いてやる。』
「布団の中に、なにかがいた? どういうこと?」
悠は日記帳を両手で持ち直し、続きを読んだ。
『塾をさぼった。代わりにコンビニで知り合った美凪と遊んだ。心が軽くなった。美凪とはもっと仲良くなれそう。』
ページを先へ送る。
『美凪は高校生だった。家のことを話し、早く出たいと話したら、寮のある高校へ行けばいいと教えてくれた。高校くらい出ておかないと、バイトの時給も違うから、と現実を教えてくれた。そこまで考えたことがなかった。美凪のいう高校はかなり偏差値が高いらしい。塾をさぼってる場合じゃない。』
『帰りたくないと美凪に言うと、泊まらせてもらえた。毎日は無理だけどね、と言って笑ってた。ほかの日は、コンビニにたむろしている子たちと夜通し遊べばいい。』
『母さんに外泊をとがめられたが、安心して寝られない家に帰るわけないと言い返してやった。成績だって上位をキープしている。わたしの話を聞かないのになんでわたしが母さんの話を聞かなきゃいけないの。ご飯くらい食べろというけど、コンビニでみんなと食べたほうが楽しいし、夜を思ってびくびくすることもなく、落ち着いて食べられる。』
母の日記の日付は、次第に間が開くようになっていた。それだけ、外泊したのだろうと察せられた。
母がなぜ、この家に帰ろうとしなかったのか、悠はなんとなくわかる気がした。
母は、怖かったのだろう。母はまだ中学生だった。親に頼っても、わかってくれないのはつらかったはずだ。
じぶんだって、目に見えないなにかが毎晩足に当たっていたら、気持ち悪いと思う。そんな布団で寝ようという気は起きないだろうし、そもそも、その部屋にいたくない。母はきっと、ほかの部屋で寝てみたはずだ。それでもだめだったにちがいない。
理解しようとしない親。手を差し伸べてくれた美凪という子。どちらを頼るかなんて、明らかだ。
母は珍しい高校の出身だった。そこから推薦で短大へ行き、給料が良かったからという理由で就職先を決めた。なんであの高校に行ったのか不思議だったけれど、母はすべて、自活を念頭に置いて決めていたのだ。仕事関連で、母は父と出逢って結婚した。父は、広島県への転勤とは縁のない部署にいて、そもそも海外出張がメインの仕事だった。母は、結婚まで、尾道にかかわりのない人を選んだというわけだ。
母はいつも口元を強く結び、前を睨んでいた。その姿を思い出し、悠は十代の母を思い、心が沈んだ。よく見せる母のあの表情の下には、執念にも似た怒りと、頼りになるはずの親に理解されなかった悲しみがあったにちがいない。
「こんなに静かで穏やかな所なのに」
悠は二階の腰高の窓越しに見える街並みへ目を向けた。
明るい日差しを受けて、家々の屋根が光を反射し、街は静かにそこに佇んでいた。
その景色を見ながら、悠はふと、じぶんの母のことを考えた。
母も悠も、一人っ子だった。悠は自身の十代を振り返った。言われるままに塾へ行き、そこそこの成績を取って、母と塾の勧める高校に進学した。大学は、自宅から通えるところを狙った。ほとんど二人暮らしの生活の中で、母は滅多なことでは怒らなかった。父はたまに家にいて、悠とは簡単な会話しかしなかった。進路の話をしても、友達の話をしても、「そうか」と相槌を打つ程度だった。悠にとって、それは気楽な日々だった。
なんと呑気な十代だったのだろう。
悠は窓を開けた。やわらかくそよぐ風が入り込み、きなり色に変色したカーテンを揺らした。遠く微かに潮の香りが悠の鼻に忍び込む。
悠は畳に座り込んで、窓枠に両腕を畳み、顎を乗せた。
ぼんやりと街並みを眺める。遠くに尾道水道が見えた。
母もこうして外を見ていたのだろうか。
誰かの笑い声がこだまして、悠のもとに届いた。
腕を枕に頭を預け、目を閉じた。
しばらくそうしていると、悠はうとうとし始めた。寝入りばな、背後に、母がペンを走らせ、ページをめくる気配が漂った。
その夜、居間にバロンがやって来た。
さっそく、籠のお菓子を両手でつかみ、大きな口でかぶりついた。
悠はテーブルに頬杖をついてバロンをぼんやりと見ていた。
催促されるであろうお茶は、急須とともに、すでにローテーブルの上に置かれていた。湯呑茶碗は三人分、置いてある。
バロンは最後のせんべいを飲み込み、口元を大きな舌でぺろりとひと舐めした。その後、茶碗を両手で持ち上げ、ゆっくり飲んだ。
「悠よ、なにかあったか」
悠は、気の抜けた返事をした。
「昼間に、誰かと会ったか」
その言葉に、悠はぱちぱちと瞬きした。
母のことですっかり忘れていた。
バロンに、館上とのいきさつを話した。
「あいつか……」
バロンは空中へ目を向けた。
「知っているの」
「見かけはするが、近づくことはしない。あいつはあっち側だからな」
「あっち側?」
バロンは翡翠の目をぎょろりと動かした。
「やつは祓う側なのだ。お前とはちがってな」
「そりゃ違うでしょ。僕は一般人だし」
バロンは片手をあげて、人間のように肉球のついた指を器用に一本だけ立て、それを横に振り、「ちっちっち」と言った。
「お前には別の能力がある」
能力という言葉で、なぜか悠は母の日記を思い出した。
「あんまり、そういう話はしたくないかな」
「人間は、異能があるとわかると喜ぶんじゃないのか」
悠は顔を曇らせた。
「なんだ」
バロンが眉を顰めた。
悠は、母の日記の話をした。
話を聞いているうちに、次第にバロンの耳がへにょりとたれていった。最後のころには、バロンはすっかりうなだれてしまった。
「どうしたの」
と、悠が顔を覗き込もうとしたら、バロンは体ごと明後日の方向へ向けた。
「……ワシだ」
小さな声だった。
「え?」
「あれは、ワシだ」
悠は目を瞬かせた。
「足元の丸い存在は、昔の、未熟だったワシなのだ」
うう、恥ずかしい、と言って顔を両手で覆った。
「母さんの許可もなく、勝手に布団に入ったのはバロンってこと?」
バロンは小さく頷いた。
「うわあ、そりゃないよ。女の子の布団だよ?」
悠の軽蔑を含んだ声に、バロンは両手を少し下にずらし、悠へ目を向けた。
「あの頃のワシは、昼間は猫の実体を出せるが、夜はまだワシの力が足りなくて、今のように姿を見せることができなかった。だから、見えないまま、燈子のところへ通ったんじゃ。……忍のおせったいを受けるうちに、少しずつ夜の姿も保てるようになったんじゃがな」
「人間にとって、見えないものがそこに存在するっていうのは、めっちゃ怖いことなんだけど?」
バロンは苦りきった顔をして爪で頬を掻いた。
「それも、わからんかった。なんせ、忍は当たり前のように、昼の猫姿のワシも、夜の実体のないワシにも、普通に話しかけてきていたからな」
「……なるほど」
祖母はもともと、そういうのが見える人だったのかはわからないけれど、普通の人とは違う、胆力のある人だったということだけは、悠にも察することができた。
「いろいろ言いたいことはあるけれどひとまずそれはおいておいて。少なくとも、この家の住人は、忍さんみたいにバロンを扱うと思っていたと」
うん、とバロンはうなずいた。
「燈子は布団の中でよう泣いとった。学校で、なんかあったんじゃろうなと思って、慰めようとして、布団に入ったんじゃ」
「忍さんから、何か言われた?」
「燈子にワシのことを話すにはまだ早いから、布団に入ってくれるなと言われた。だが、あんまり寂しそうにするから、つい……」
悠はあきれてしまった。
笑える話ではなかった。
母はそれで、本気でこの家を出ていくことを考えたのだ。バロンに悪気がなかったとしても、母が怖い思いをした事実をなかったことにできはしない。
「母さんが外泊するわけだ」
「忍にさんざん説教された! 今ならわかっとるからな!」
バロンが叫んだ。
悠は盛大なため息をついた。
忍さんには忍さんの考えがあったのだろう。その根底には母さんへの愛情があったはずだ。だが、母さんの思いとは嚙み合わなかった。
悠の中で、一つの映像が浮かび上がった。
小さな綻びを抱えた歯車が、時間が経つにつれて歪みを広げていく。外側へ行くほど狂いは大きくなり、やがて、歯車はばらばらに崩れた。散らばった部品には、祖母の悲しそうな顔と、母の口元を強く結んだ顔が、それぞれ現れていた。
床に散り落ちた部品を見ているバロンが、昼間の猫の姿になって、悲しそうな声で鳴いていた。
「……お前、何を見ている?」
バロンの声に、悠はハッと我に返った。
「何か、見えとったじゃろう?」
バロンはいつの間にか悠のすぐ前に立って見上げていた。
翡翠の目を細めて、悠の目を覗き込んだ。
「え、ちょっ」
悠は慌てて上体を逸らした。
バロンは、くんくん、と鼻を動かした。
「過去を見ていたか」
「歯車が過去? あれって僕の妄想でしょ」
「ちがう。妄想はぼんやりとしか描けない。それにしても、歯車か。これはまた、抽象的な」
顎に手を当て視線を落としたバロンは、そのほうが全体を把握するには早いのか、とぶつぶつ言いながら、ひとつうなずいた。
「……悠は、思い出させるんじゃな」
「誰が何を?」
「悠は、今の話を聞いて、この家に住んでいた者がかつて持った思いを、つまり本質を、その場に立ち上がらせているんじゃ」
悠には、訳が分からなかった。首を傾げ、眉を顰めた。
「境居の血じゃなあ」
うんうん、とバロンはうなずいた。
それから、
「そうじゃった。館上の話をしておかんとな」
と言うと、ソファへもどり、腰をおろした。
「茶のおかわりと、なんか食うもんを追加でくれんかの」
バロンはちょこんと両手を膝に乗せ、あざとく小首をかしげて見せた。ふてぶてしい顔が、可愛さを狙うと、不満より、しかたないなあ、という思いが勝るらしい。
「ちょっと図々しくない?」
悠は一応は文句を言いつつ、台所に立った。
買い込んでおいたチョコレートでコーティングされた丸いケーキを四つに切り分け、深めの小鉢に見た目良く入れた。その後、昼間、散歩の途中で買い込んでおいたファミリーサイズのアイスクリームを冷凍庫から取り出した。冷凍庫が使えるようになったので、ご飯やおやつのレパートリーが広がった。悠はカップの蓋を開け、スプーンですくい、ケーキの上に乗せた。その上に、少量のココアパウダーを振りかけた。欲を言えば実家の庭に植えてあるミントの葉を最後に乗せたいが、ここにはないので諦めた。
三人分を用意して、バロンとじぶんの前に皿を置いた。
「喫茶店の、こじゃれた一皿じゃのう」
バロンが髭をぴくぴくさせながら、皿を覗き込んだ。
「褒めてる?」
悠はフォークを手に取りながら尋ねた。
「猫に出すには悪くないの」
バロンは大口を開けて、カットしたケーキを口に放り込んだ。
「んまい」
「溶けないうちにアイスクリームを食べて」
悠が言い終わらないうちに、バロンは舌でべろりとアイスクリームを舐めとった。
「んーまい! これは絶対売れる。おかわり」
「三人目のものを食べれば?」
悠が言いながら、三つ目に目をやった。
皿は、空っぽだった。
「いつのまに」
驚く悠に、
「ほらの」
バロンは得意げに言った。
「売れたじゃろ」
悠は口をぱくぱくさせた。
「売れるって、そういう……」
「見えないからといって、ないものとはできないんじゃよ、この家ではの」
バロンは、煎茶の茶碗を手に取った。
うまそうに、ゆっくり飲んでいく。
言葉を失い、悠は、嬉しそうな顔をしたバロンを見た。
この家は、どこか、普通ではない。
なにが起きても不思議ではない。
怖いのか、と問われれば、怖くない、とは言えないけれど、怖い、と答えるのも違う気がする。
怖いというより、不思議なことが続けざまに起きるから、怖さが麻痺してしまったのかもしれない。
「この家で、いちいちびっくりするのが馬鹿らしくなってきたよ」
「その意気じゃ」
バロンはにやりと笑った。
「それが、力をもっと開花させる」
「力って?」
「悠の持つ、固有の力じゃ。館上にも指摘されとったじゃろ」
悠は小さく唸った。
「妙に勘がいいってこと?」
「あれにはそうとしか見えてないのか。これは愉快」
くく、とバロンが笑う。
「そんなもんじゃないぞ。悠は、祠や石仏の歪みを見つけたじゃろう。それは、ものすごいことなんだぞ。だいたい、あの館上にもないもんだからな」
「仏像が斜めを見ているみたいに見えたのが、歪みを見ていたってこと?」
バロンは深くうなずいてみせた。
「境居の血は、間違いなく、悠にわたっている。お前は、この家に選ばれたんじゃな」
「えええ、何それ」
悠は嫌そうに顔を歪めた。
「厄介な臭いしかしないんだけど。絶対、さっきみたいに普通の人が見たら怪奇現象って言われるようなことが起きるんでしょ」
「怪奇現象だと思うから、厄介などと思うんじゃ。あれが普通の世界だったらそうはならんだろ。だからやってみろ。面白いぞ。遊び半分ではできんがな」
「え、断ることは」
バロンは笑みを浮かべて頭を横に振った。
「できんなあ。この家に入れたうえに生活しているんだから」
悠は、初日の、玄関の鍵がなかなか回らなかったことを思い出した。あれが選別だったのか。あのとき、じぶんはなんて言った?
「うわあ」
悠は思い出して、頭を抱えた。
入る許可を求めただけではなかった。あのとき、じぶんはたしかに、この家の血縁者で、この家でやることがある、と宣言したのだ。
「安心しろ、ワシが手伝っちゃる」
「だれもやるとは言ってない」
「もうやっとる。おせったいをな」
「おせったい?」
「接待、と言ったらわかるか? 尾道では、巡礼者や参拝者をもてなすことを言うから、ここのはちょっと違うがの」
悠は口をへの字に曲げた。見えない客への接待、ということだと気がついたのだ。
「最初から、わかってたんだね」
悠は腕組みをした。
「この家は、おせったいの家じゃけん、境居がいたら、やらんといかん。それを指導しただけじゃ。悠が特別な力を持っているのは嬉しい誤算よ」
「無自覚なんだけどさ、なにをしろというんだよ」
「まずは、おせったい。ほかは、向こうからやってくる」
「それでいいの?」
「今夜はな。明日には、動きがある」
ふああ、と大あくびをしたバロンは、立ち上がった。
「夜も更けた。そろそろ寝ろ」
悠はうなずき、空の器を盆にのせ始めた。
「籠のお菓子、バロンはいつもあんなに勢いよく食べていたのに、必ず少し残していたわけがわかったよ」
「寝る前に、籠に菓子を補充しておけよ。今夜から、空になるぞ」
悠は流しに皿を置き、水道の蛇口をひねった。勢いよく出てくる水音に負けないように「そうなんだ」と返しながら、皿を洗った。
皿を食器棚に片づけて、悠が居間を振り返ったころには、バロンの姿は消えていた。悠は籠にせんべいを足して、二階の母の部屋へ上がっていった。
その夜、悠は幼さの残る顔をした母の夢を見た。長い髪を耳元で二つに束ねて、じっと悠を見る母は、紺色の、襟に走る白い線が印象的なセーラー服を着ていた。なにか言いたげな母の顔に、悠は何と声をかけたらいいのかわからなかった。
娘時代の母は、その後、勉強机に向かって、教科書とノートを開いて、熱心に勉強を始めた。じぶんよりはるかに勉強している母の姿を見て、悠は、母がじぶんの学生生活に小言を一切言わなかったことに、どんな思いをもっていたのかと夢の中で考えてしまった。机に向かう母の横顔を、悠はずっと見ていた。
翌朝、悠が居間に下りて籠を見た。籠は空だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。よかったら、評価をお願いします。




