第三章 館上涼佑という男
翌朝、悠は重い心を抱いたまま外へ出た。家の整理をする気にはなれなかった。
「お前も殺す側か」
バロンの言葉が耳から離れない。
押入れを開ける。段ボールを外に出し、中身を確認する。
ため込まれた紙袋や空箱をひもで縛る。誰も着ない服をまとめて処分する。
家の中の不用品を片づけるという、いままでじぶんでもやってきた、整理をするという作業が、何かを終わらせる特別な行為に変質していくようだった。
ここで整理をすることはすなわち、そういうことになるのか、という疑念が湧いてしまう。
悠は首を振って、玄関の鍵をかけた。
小路を気の向くまま、歩こう。
散策に程よい程度の薄雲が空にかかっていた。頬を撫でる微風が少し涼しい。母譲りの癖毛の前髪が、風に揺らされ、悠の額を撫でた。
悠はリュックに鍵をしまい、歩き出した。
平日の午前中だというのに、観光客があちこちでスマホを構えていた。何もないところだと思っていた悠は、彼らの見ているものを観察することにした。
ある者は寺社の遠景を、ある者は小さな祠を、ある者は細道に飾られたものを写真に収めていた。
「みんな、好きなものを収めているんだな」
悠は、高さが五十センチくらいのかわいらしい祠を覗き込んだ。そこには半肉彫りの石仏が祀られていた。古くからあるからだろうか、像がぼやけていた。石仏の前に、水の入った小さな湯呑茶碗が置かれていた。
少し歩いたところにも、おなじような、けれどもっと小さい石仏が置かれていた。ここは祠がなくて、雨曝しだった。置かれた茶碗に小さなゴミが入っている。悠は、未開封のミネラルウォーターを取り出した。茶碗の水を捨て、ペットボトルの水を少し入れて茶碗をさっと洗い、新しい水を注いだ。
茶碗をそっと石仏の前に置き、手を合わせた。
その後で、苦笑した。
じぶんがこんなことをするような人間だとは思っていなかったのだ。どうやら尾道では、自然とできてしまうらしい。
小さく目礼して去ろうとしたとき、ふと、目の端に違和感を捉えた。
石仏が、斜めを向いたような気がしたのだ。
じっと、石仏を見る。なにもおかしいところはない。だけど、じぶんの心は、違うと言っている。悠は、石仏から少し離れて、全体を見た。
石仏が斜めを見ている、と感じたあたりが、微かに、歪んでいる。
何もない空間だけれど、度のきつい眼鏡越しに見ているような、そんな感覚だった。
悠はそのあたりに手を伸ばし、振ってみた。
なんの手応えもなかった。
「そりゃそうか」
石仏を改めて見た。
斜めを向いていた石仏は、何事もなかったかのように、最初に見たときと同じ方を静かに見ていた。
「気のせいか」
石仏にもう一度小さく頭を下げて、歩き始めた。うねうねと続く細道を、悠は上ったり下ったりしながら、気ままに歩いた。所々にある小さな祠に、悠はひょい、と会釈して通り過ぎるようになった。
そうしていると、祠の中の石仏の向きが明らかにずらされていると分かるものがでてきた。悠にはその空間だけ、切り取られたように見えた。祠の周囲だけ、空気が重く感じるのだ。淀みというか、歪みのような印象だった。
悠は正面に戻したいと思ったが、勝手に直していいものかとも思い、とりあえず、欠けた茶碗を綺麗にして、水を注いでおいた。
昼近くになり、悠は一度家に帰ることにした。水分補給用の水を切らしてしまったのもあったが、祠の茶碗を綺麗にするものを取ってこようと思ったのだ。
ずいぶん下まで下りたらしい。家に上がる小路を探して、すこしうろつき、買い物をした。
店を出て歩いていると、また違和感に囚われた。
石畳の道沿いにある壁に、落書きが彫られているのだ。
昨日は気づかなかった。
彫られていると言っても、微かな傷のようにしか見えない。小さくて、凝視しないとわからないくらいのものだった。なのになぜか、それが拡大して浮き出ているように見えたのだ。
一度気づくと視点が変わるのか、いたずら書きが次々と目につくようになった。
アルファベットで名前を刻んだもの、数字を書いたもの、〇や△、棒線。見たことのない文字らしきもの。
悠は眉を顰めた。誰か知らないけれど、なにかの思い出としてやったのだろう。だが、ここに住んでいる人たちは、これを出かけるたびに目にするのだ。住民の生活圏で消えない傷が作られる。見るたびに心を痛める人の気持ちを考えたことがあるだろうか。
落書きは、壁に埋め込まれた祠の近くにまであった。
「ひどすぎる」
悠は落書きへ手を伸ばし、そっと撫でた。
祠の石仏が、心なしか傾いて見えた。
直したい。
その衝動に突き動かされるように手が伸びる。あと少しで石仏に指が触れようとしたとき。
「よせ」
背後から声がした。はっとして悠が振り返る。
そこにいたのは、昨日の無礼な眼鏡男だった。
悠は慌てて手を引っ込めた。なんだか、悪いことをしようとしたところを見つかってしまった子供のような気持ちになった。
男は続けた。
「見えているなら、見るな。触れられるなら、触るな。わからないなら、近づくな」
わけがわからなかった。
「お前のしようとしたことは、厄介ごとを招く」
男は、祠に向かうと、片手で不思議な形を作り、低い声で何かを唱えた。その後、男は悠に背を向け、何かの動作をしたようだった。
男は振り返ると、悠を見て目を細めた。
「お前は、妙に勘がよさそうだ」
悠は首を傾げた。どういうことかわからなかった。
そもそも、そんなことを言われたのは初めてだった。そう告げると、
「尾道に来て、変な体験をしているだろう」
「わかるんですか」
男はうなずいた。
「お前は危うい。だから、近づくな」
「説明が、大雑把すぎやしませんか」
「丁寧に説明したところで、痛い目を見るやつは見る」
「ますますわかりません」
「忠告はしたからな」
男はそう言うと、悠にくるりと背を向けた。そのまま、下り道へ一歩踏み出し、立ち止まった。男は、肩越しに悠を見た。
「昨日は悪かったな」
静かな声だった。
「ええ、本当に」
悠はうなずいた。館上の口元がわずかに歪んだ。
「おれは、館上涼佑。福山市に住んでいる。今日は仕事が立て込んでいるからこのまま帰るが、あの家のことについて、話がある。また日を改めて行く」
「仕事?」
「保険屋だ」
そう言うと、すたすたと道を下り始めた。
「……へんな人」
態度は相変わらずぶっきらぼうだった。だが、今回は謝罪と名乗りはした。
「次は、お茶くらい出しますよ」
悠は、その背に声をかけた。館上は、背を向けたまま軽く右手をあげた。
館上涼佑はここ最近続く胸騒ぎに苛立っていた。今回は、なにが起きるのか、見当もつかないのだ。
今日も、保険代理店の仕事で尾道に来ていた。本音を言うと、代理店業務を放り出して境居家に乗り込みたかったが、仕事の約束を破って、社会的信用を失うようなことはしない。
駐車場に車を止めて、あとは歩いて行くしかない契約者の家に向かった。帰り道、館上の足が帰路とは違う道を選んだ。地神の導きだ。こういう有無を言わせぬ指示は、館上にとってはいつだって厄介ごとのはじまりだった。
顔をしかめて歩いていたら、目の前に、祠の石仏に触れようとする馬鹿者がいた。
後ろ姿だったが、昨日の境居家の者だとわかった。
「よせ」
『力』を籠め、腹から声を出した。
彼はびくりと肩を揺らして、手を止めた。恐る恐る振り返った彼は、いたずらをしようとして見つかったガキのような顔をしていた。
館上はほっとした。
彼は、館上と目が合ったとたん、わかりやすく嫌悪の表情を浮かべた。
館上は微かに口端をあげた。その表情が出せるなら、間に合ったということだ。
だが、いつ「憑かれて」しまうかわからない。そういう、危うさを彼は持っている。昨日、あの家の玄関に現れた彼の目を見て、館上は直感した。
今まで変なものを憑けずにいられたのは、彼が異能に興味が無かったからかもしれない。あるいは、そういうことに、極力触れさせないように、誰かが道を作ったか。
彼が歩いて手を合わせたであろう祠には、微かな念が漂っていた。いやな色ではなく、どちらかというと澄んだものだった。無自覚であれだけ残せているのだ。境居の血が色濃く入っていることは確かだ。だからこそ、慎重でいてほしいと館上は思う。
願いにも似た気持ちに苦笑しつつ、人前では見せない印を切った。とっさのことで、選んでいる余裕がなかった。
――あの、傲慢で無知な相談者のようにならないためにも。
昔、館上が師匠とは別行動で、相談を受けるようになって日が浅かったころのことだ。
一人の若者が、彼の伯父に連れられて、館上の邸にやって来た。伯父は、館上の扱う保険の契約者の知り合いで、そこから館上の存在を知り、連絡を取ってきた。
「これが、甥の克敏です」
ほら、頭を下げんかい、と伯父に頭をぐい、と下に向けられた彼は体勢を崩し、慌てて敷かれた座布団の端に両手をついた。
高校二年生だという克敏は、独学で修験のまねごとをしていたという。
ある日、有名な神社に友人たちと参拝に行ってから、体が重だるくなった。どんなに寝ても食べても、一向に良くならない。病院に行っても、健康ですと言われた。日を追うごとに、体全体に乗せられる重しが増えていくようで、気分が悪く、怒りっぽくなった。両親がたまたま、伯父の前で愚痴をこぼしたところで、伯父はもしや、と思って克敏を見舞った。克敏は、洋間の床にペタンコ座りをし、体を前に倒して顎を突き出すような恰好をしていた。入ってきた伯父へゆっくりと顔を巡らせた。目はどんよりとしていた。その様子から、これはただごとではないと察したそうだ。
「勘の良い伯父上を持ったな」
館上は克敏に声をかけた。
克敏は神妙な顔をしてうなずいた。
「それで、なにをやった」
克敏は、首をひねった。
「別に……印を結んだり、真言を唱えたりしてただけです」
館上は黙って先を促した。
「そうやって毎日練習していただけで、神社に行っても格別なことは」
そこまで言って、「あ」と声を漏らした。
みるみる顔を蒼くする克敏に、館上はおおよそを察した。
「神社の境内で、不敬を働いたか」
克敏はびくりと体を揺らした。
館上の脳裏に、克敏と友人と思しき三人が、ふざけて境内の池に小石を投げ込んだ姿が浮かんだ。
「鯉に石があたったのか。馬鹿なことをしたな」
克敏がぎょっとして、小声でつぶやいた。
「なんでわかって……」
館上は無表情のまま続けた。
「今回は、おれがなんとかしてやる。次はないからな」
「ありがとうございます」
伯父が深々と頭を下げた。克敏は口をぱくぱくさせ、館上を凝視した。
館上は、淡々と、仕事をこなした。
小一時間ほどで、それは済んだ。
「体が軽い!」
克敏が目を輝かせた。
「本物の修験者にしてもらった。あの印とか真言とかなら、僕でもできそう」
館上の先ほど結んだ印をまねて見せる克敏に、伯父が怒り出した。だが、克敏は全く悪びれもせず、続ける。
館上は、ニキビの浮かぶ克敏の横顔に、静かに言った。
「なら、憑け直してやろうか」
腹の底が冷える声だった。
「……え?」
興奮していた克敏が、ぴたりと動きを止めた。
「できるんだろう。だったら、じぶんでやれ。おれはもう知らん」
「え、待って、そういう意味じゃ――」
それ以上、言葉が続かなかった。館上は、ただじっと克敏を見つめた。
克敏の顔が歪む。
上半身がくたりと前に倒れ、克敏は顎を前に突き出した。目が濁り、どんよりした目を館上に向けた。館上は座布団から立ち上がり、無表情に克敏を見下ろした。克敏の目に絶望の色が現れた。
「祓うことと憑けることは表裏一体なんだよ。片方だけができると思うな。これは遊びで触れていい世界ではない」
伯父が慌てふためき、館上の足元に縋った。
「先生、勘弁してやってくださらんか」
館上は首を横に振った。相談者の伯父に、克敏を車に乗せるように促す。
車内で真っ青な顔でがっくり肩を落とす克敏を尻目に、館上はそっと伯父を呼び寄せた。
「本当に戻したわけではない。体が覚えている感覚を蘇らせただけだ。三日後にはすっきりしている」
伯父の顔が目に見えて明るくなった。
「しばらく反省させておけ」
「まったく、おっしゃる通りです」
伯父は何度もうなずいた。
「どれだけ家族を心配させたかわかってない。ええ、そのまま放っておきます」
伯父はハンドルを握り、そばに立って見送る館上に会釈をすると、車を軽やかに走らせて去っていった。
あれ以来、館上は人前で印を結ぶことを避けるようになった。あのガキには、微力ながら才能があった。そういう輩が今後現れないとも限らない。館上を真似て、余計悪化させるなどという二度手間を避けることはもちろん、知らなくていいことは伏せたほうが平穏だと思ったのだ。
後日、館上は師匠に、いい教訓になったな、と言って笑われた。館上にとって、三十を過ぎて子ども扱いは不本意だったが、甘んじて受け止めた。館上はぶすりとした顔で言った。
「師匠が相談を断ってばかりだから、おれのところに来るようになったんですよ。ちっとは仕事してください」
師匠は、「はっ」と鼻で笑った。
「年寄りをこき使わんでもよかろうに」
師匠は館上より、三十は上だ。だが、外見はどう見ても、四十代にしかみえない。そもそも、六十代になったばかりを現代では年寄りとはいわない。
そのことを指摘すると、以来、館上が師匠の家を訪ねても、居留守を使うようになってしまった。師匠の気配なら、家の外からでも拾える。師匠はそれを知っていて、やっている。
館上は、師匠を捕まえるのがますます難しくなり頭を抱えた。
本当に不在の日も増え、居留守を続ける師匠への相談者は、弟子の館上を頼るようになった。父親から受け継いだ保険代理店業務で日中はおろか夜も多忙だし、師匠経由の仕事は簡単なものはない。館上は師匠をなんとか復帰させようとあれこれやってみた。
その過程で、尾道の境居家の存在を知った。
あの家は特殊で、内側から何かに守られているようだった。
それはなにかと探っていくうち、尾道には、強くて古い守護印が結ばれていることに気づいた。館上は震えた。だれが地方にこんな規模の印を敷いたのか。その大がかりな印が、どこからか綻び始めているようだった。それも、人為的に。
綻びが進み印が解けると、いままで守られていた分の反動で、おそらく異界への扉が開く。
それが、正確に尾道にどう影響するのか、館上にはわからない。
わかるのは、確実にじぶんの仕事が桁違いに増えるということだけだ。そこに暮らす人々を蝕んでいくと、どうなるか。怪異の昔話を繙き、それを現代に変換させてもなお、不明な部分が大きい。
時代とともに綻んでいくのではなく、故意に壊されるということは、そこに悪意がある。悪意に反応する存在は厄介だ。
できればかかわりあいたくないが、そうは言っていられない。
館上はじぶんの手に余る、と判断し、師匠を頼ろうと思った。
ようやく捕まえた師匠に、館上はじぶんの考えを話した。師匠なら、なんとかできるだろうという下心もあった。
師匠は、館上が持参した師匠が好きな銘柄の純米酒の一升瓶を手に取った。向かいに正座する館上を尻目に胡坐をかいたまま、さっそく開けて、ひとりで一杯やり始めた。館上は眉間にしわを寄せた。
二杯目をついだとき、師匠は我慢強く返事を待つ館上に、にやりと笑った。
「涼佑、お前がやってみろ。面白いことになるぞ」
師匠は感情の読めない目で館上を見るだけで、ヒントも忠告も言わなかった。館上は何か言おうとして、口を開けた。
師匠は館上の目を静かに見つめた。館上は、口をつぐんだ。
――一人前になれ。
そう言われた気がした。どうあっても、師匠は腰を上げる気はないらしい。
館上はしぶしぶ、うなずいた。
「やりますけど、相談には乗ってくださいよ、居留守をつかわず」
師匠はにたあ、と笑うだけで何も言わなかった。
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