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夜の波紋は、坂の上まで届く ――尾道の古い家で、見えない客におせったいをする――  作者: 飛絽じゅらん


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第二章 夜に立つ猫

 祖父母の家で過ごす初めての夜。


 濡れ縁から見下ろす斜面に、家々の明かりがぽつぽつと暗闇に浮かんでいた。クリーム色の暖かい点は、昼間に見た家並みのように、寄り添いあって灯っていた。近くに、昼間に上った路地の家の窓明かりが白く見える。昔からずっとそうやって、この細道を照らしていたんだろう。道があるから通った、というのが東京なら、尾道は道に見えないなにかが練りこまれている、と悠には思えた。


 ただの道なのに、見た目通りのただの道ではない。じっと夜景を見ていると、尾道の時間の潮流が、悠の全身に巻きついてきたように感じた。それに身を任せていると、心細いような、それでいて懐かしいような気持ちになった。


「これが田舎に帰った時の気分かもしれないな」


 悠は田舎に帰省ということをしたことがなかった。

 父は東京都内の出身で、祖父母は今も商売をしている。顔を見せには行くが長居はしない。その日には自宅に戻っていた。都内は帰省、というにはあまりに近かったのだ。

 さて寝ようか。悠は居間の明かりを消そうと掃き出し窓から中へ戻った。


 窓際のソファに、真っ黒な塊がいた。


 見間違いかと目を凝らす。

 その塊は、饅頭をつぶしたような横に広い猫の顔をしていた。恰幅のいい、子どもサイズの黒猫が、燕尾服を着て、ふんぞり返って人間のように座っていた。


 黒い服を着た黒い毛並みの猫は、悠が綺麗に並べておいた黒塗りの籠の菓子を両手に持ってぼりぼりと食い散らかしていた。

 やがて小さな欠片になったせんべいをひょいと口に放り入れると、悠へ目を向けた。

 悠は、その場で固まっていた。

 燕尾服姿の子どもサイズの黒猫が、どうやって入ったのか。


 猫だけど猫らしくない存在が、知らぬ間に居間に上がって無断で菓子を握って頬張っている。それをどう咀嚼したらいいのか。

 猫は菓子を口に放り込み、もぐもぐ、と噛んで嚥下し、悠へ顔を向けた。


「茶をくれ」

「猫がしゃべった!」

「ワシは猫じゃない。茶をくれ」


 黒毛の猫は、手首から先が白い両腕をソファの背の縁に乗せ、ふんぞり返った。

 ふん、と斜に構えて悠を見る。

 その目は、翡翠色に影を落とした色だった。見覚えのある瞳だ。それに、饅頭を潰したような顔。

 悠の頭の中で、かちりと音がした。

 悠は猫を指さした。


「昼間のブサ猫!」

「ブサ猫言うな」


 猫は目を細めた。


「ワシは猫じゃない。高貴な存在じゃけの」


 と、口を尖らせた。

 悠は首を傾げた。


「どう見ても美形じゃないし。そのふてぶてしさ、どこが高貴?」

「この全身を覆うビロードのような黒の毛を見ろ!」


 黒猫は両手を広げて叫んだ。


「ぬばたまの、吸い込まれそうな黒じゃろ。これは普通の猫では出せない色だし、お前の髪よりも綺麗。どうだ、羨ましいだろう」


 ふふん、と髭を引っ張りながら、胸を張った。


「その高貴な毛を持つ高貴なワシが、お前に話があって来た。お前、名は」


 悠は眉を顰めた。

 昼間の男といい、尾道では尊大な言い方が挨拶なのか。思い出したくもないあの男の顔が浮かんだ。同時に不愉快な思いも思い出してしまった。あの男に言った言葉を猫にも言った。


「人の名前を聞く前に、名乗るのが礼儀だろ」


 猫は、ふい、と顔をそむけた。


「ワシに名はない」


 悠の脳裏に、有名な小説の冒頭が浮かんだ。あの小説の猫は、この猫の親戚だったかもしれない、と一瞬、どうでもいいことを考えてしまった。では「吾輩」と呼べばいいかとふざけたことを考えたが、今はそんな場合ではない。こういうときは、本人に聞くのが手っ取り早い。


「なら、何て呼べばいいのさ」

「高貴なワシにふさわしい名称にすればいい」


 あくまで、こっちに委ねるのか。

 悠は、猫を見た。燕尾服、正式……髭。髭といえば。


「ダン……男爵。だから、バロン」


 途端に猫はかみついた。


「バロンだと! 低いわ! それを言うならデュークじゃろうが!」


 シャーッ、と牙を立てて猫は怒り出した。ばしばしと、激しく尻尾を振っている。

 丸いフォルムをした猫が腹を立てている姿は、妙に可愛い。悠はくすりと笑った。


「お茶が要るんだったよね、バロン」

「バロン言うな! デュークじゃ! 茶は要る」

「ちょっと待ってて、バロン」

「デューク!」

「はいはい、バロン」


 悠はなおもちがうと言いはるバロンを無視して、台所に向かった。公爵になるには、もう少し懐の深さがいるんじゃないかな、と悠は思ったが、口には出さなかった。

 愉快な夜になりそうな予感が湧いてきた。くすくす笑いつつ、薬缶に手を伸ばす。水を入れ、コンロにかけた。

 東京から持ってきた、新茶の入った茶筒を取り出した。


「ほう、ええもん、持っとるの」


 バロンはいつの間にか悠の傍らに立っていた。


「二足歩行できるの?」

「夜の間はな」

「すごいね」


 僅かな水はすぐに湧いた。悠は来客用の茶碗に熱湯を入れ、一呼吸おいて冷ました。

 その間に、急須へ茶葉を入れる。

 ある程度、湯の温度が下がったところで、茶碗の湯を急須へ移した。


「お前、手際がええの」

「お前じゃなくて、悠だよ」


 バロンは柔らかく目を細めた。


「悠か。ええ名じゃの」

「ありがとう」


 悠は二人分のお茶を淹れた。


「言うのを忘れとった。この家では、もう一人分、茶を用意するんだぞ」

「どうして?」

「見えないからといって、いないわけじゃない。そのために、用意するのがこの家のルールじゃ」

 意味が分からず、悠は首をひねった。

「今はまだわからんでもええ。とにかく、いれとけ」


 わからないのになぜか、そうだな、と悠は納得した。言われた通りに、もう一人分のお茶を用意した。

 ソファに戻り、バロンと悠は向かい合って座った。脇には、三人目の茶碗が茶托に乗せられている。そのお茶からまっすぐに立ちのぼる湯気が、二度三度と、風もないのにふわりと横に揺れた。

 悠は改めて目の前にいるバロンを見た。


 猫が人間のように二本足で立ち、言葉を話している。その現実を、なぜ「そういうものか」と許容できているのか。悠はその感覚に不思議だなと思うのと同時に、そういう世界があってもいいか、という開き直りにも似た感覚を持っていた。騒いでも狼狽えても、目の前のバロンは美味しそうにお茶を飲んでいる。これは現実なのだ。

 お茶に満足したらしいバロンは、籠に追加した予備のお菓子を全部食いつくしそうな勢いで食べ始めている。


 バロンの嬉しそうな顔を眺め、悠はお茶を一口飲んだ。苦みと甘みが口に広がっていく。じぶんは確かに祖父母の家にいて、猫ではないというバロンと夜にお茶を飲んでいる。

 魔法にかかったようだ、と悠は思った。尾道という、時間がゆっくり流れる土地固有の魔法だ。そう考えると、悪くない気がした。

 一通りお菓子を食べると、バロンは満足げにため息をついた。その後、翡翠色の目が、すい、と悠へ向けられた。


「悠は、なぜここに来た」


 唐突な質問だった。

 同時に、これから重要な話になるのだと直感した。


「母の代わりに、この家の整理に来たんだよ」


 バロンの瞳がぎょろりと動いた。


「整理? この家をどうするつもりだ」


 険しい声だった。

 悠はうんざりした。

 またそれか、と思った。じぶんでも口元が歪んでいくのがわかった。

 バロンも、昼間のあの男と同じように家のことを詰問するのか。


「母はこの家を売却するつもりだよ。なんで聞くの?」


 バロンは長い尻尾でソファをびしっ、と打ちつけた。耳を激しく後ろへと何度も動かす。


「この家がどんな立ち位置にあるのか、わかっとらんのか!」


 バロンの大声に、悠は思わず後ろへ身を引いた。わけのわからない苛立ちを、あと何回、受ければいいのか。

 悠は、むっとした。


「知ってるわけないでしょ。僕はここに来たのは二度目らしいけど、泊まったことはないし、何の話も聞いてないんだから」


 バロンは、むううう、と唸り、せわしなく髭を引っ張った。やがて、はっと顔をあげ、すんすん、と鼻を天井へむけて動かした。顔を上に向け、じっと空中を見つめたかと思うと、瞳だけをきょろきょろと動かした。

 誰かと交信でもしているのか。悠がそう突っ込もうとしたところで、バロンは悲しそうな表情を浮かべた。耳を下にむけて、しょんぼりと肩を落とした。


「燈子は忍たちからなにも聞いとらんということか……」


 弱々しい声だった。


「忍というのは祖母のことだよね。母は何年も祖父母と音信不通だった。そこへもってきて、祖父母は旅行先の事故で亡くなったからね」

「……知らんのも無理はないか」


 バロンは重いため息をついた。背中を丸めたバロンが、急に小さく見えた。何と声をかけたものかと悠は困った。

 重い空気が二人に降りた。

 やがて、ぽつりとバロンが語り始めた。


「昔な、人ではない友人がおった」


 バロンは空になった茶碗を両手で包み込んだ。


「気持ちの良い川だった。知っとるか? 川にも心があるんだぞ。その川は優しくて気立ての良い川だった。ワシはその川が好きでの」


 悠は黙ってうなずいた。


「その川には山からの水が流れていてな、河童が住んどったんじゃ」

「河童」


 そうじゃ、とバロンはうなずいた。


「だがな、人間は便利だからとその川を埋めて道を作った。河童は川がないと生きていけんかった。川は他所の川へ移れと河童に言い、河童は友人を見捨てることはできないと泣いてそばから離れんかった」


 ふいに、悠の脳裏に、川岸で河童とバロンが仲良く話をしている情景が浮かんだ。さらさらと音を立てて流れている川も、その会話に入っているようだった。夏の夜には、たくさんの蛍が飛んだ。美しい光景だった。

 その川が、重機で埋められていった。コンクリートで作られた細い溝を残し、その上を塞いでいった。大勢の人間が工事に従事し、そこに道ができあがった。川だったその場所の上を、行き交う車のタイヤや人々の靴が踏みしめていった。


「河童なんていないとは言わせん。河童を見て知っていたから、河童という呼び名を人間は持っておるんだからな」


 言葉が出なかった。バロンは続けた。


「川も河童も、人間に便利という理由で殺されたんじゃ」


 バロンは手にした茶碗をテーブルに置くと、翡翠の目をまっすぐに悠の瞳に向けた。翡翠の瞳孔がきゅっと細くなった。


「お前も、殺す側か?」


 二人の間に沈黙が降りた。


 突然、居間だった空間が、真っ暗になった。

 尾道の家々の明かりが走り出し、ぐるぐると二人を取り巻いた。

 バロンと悠の間に、境居の家へ来るまでの小路が現れる。だが、どこか雰囲気が違った。

 道幅は同じはずなのに、昼間よりも狭く感じる。

 家だ。昔風の木造家屋が建っている。低い軒、土壁、格子の入ったちいさな窓。そこから零れ落ちる黄色い明かりが、小路を照らしていた。


 悠は息を呑んで見つめた。さらにいくつもの家が、地面から筍のようにむくむくと現れた。空白だった場所が埋まり、暗かった路地に、かつての暮らしの灯りが戻っていく。最後に現れた家の明かりが、ほんのりとバロンの頬の毛にかかった。翡翠の光と、黄色の光が、悠に無言で迫った。

 この町の家は、なくなってもなお、その土地の記憶として、立ち上がっている。

 空き家を解体しても、更地にしても、そこに生きていたことは、消されないのだ。


 悠はぎゅっと手を握りしめた。どう答えろというのか。

 便利さの上に生活している身で、殺す側ではない、と言っていいのか。では、殺す側だと言うか。意図してそれをしているわけではないのに、そうだと言うのは不本意だ。

 喉の奥が詰まった。

 違うと言いたかった。でも、その言葉は喉の奥で塊になった。

 じぶんは中途半端なんだな、と悠は気づいた。何も考えず、与えられるままに生きてきたから。それが当たり前だと思っていたから。

 悠は、口を引き結んだ。

 今のじぶんにはなんの考えもない。力もない。

 バロンに約束することも、願うこともできない。

 そもそも、じぶんの足で立って生きていく力さえ、まだ持っていない。

 今のじぶんは、あまりにも無力だ。


 悠は、バロンの問いに返す言葉を見つけられなかった。

 バロンは悠を温度のない目で見つめた。


「悠よ」


 悠の肩がぴくりとはねた。


「ワシの問いに、答えられる人間になれ。それが、燈子の子であり、この家の血を受け継ぐ者の務めだ」


 悠は、項垂れた。

 簡単に出せる答えではない。

 けれど、逃げてはいけない問いなのだということだけは、わかった。

 悠は小さく頷いた。






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