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夜の波紋は、坂の上まで届く ――尾道の古い家で、見えない客におせったいをする――  作者: 飛絽じゅらん


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第一章 売るための家

 新年度が始まり、新緑の季節のころ。

 青空の下、渡壁悠は額にうっすらとにじむ汗を手の甲で拭った。

 

 目の前には、人がようやくすれ違えるほどの細く狭い上り坂が続いていた。その両側に、肩を寄せ合うように民家が連なっている。それらの家は昔ながらの趣を残していて、どこか懐かしい感じがした。家並みも、上に行くにしたがって、歯が抜けたように、ところどころ更地にされた場所が増えていった。

 それを横目に片手で重いトランクを引きずり、もう片方はコンビニで買い込んだ食材の入ったレジ袋を握りしめ、悠はため息をついた。

 こんなの、母から聞いてない。


「家の近くにスーパーはないから、途中でコンビニでもいいから数日分の食材を買ったほうがいいわよ」


 という忠告に素直に従った。それはいい。問題なのは、家の前までタクシーが入らない、ということを母は一言も言わなかったことだ。駅前には、観光気分で降り立った。そこからうきうきしながら商店街を見物した。観光客用の店が多く、一息ついたら入ってみたいな、などと浮かれて歩いていた。そうしているうちに歩いてくたびれ、目印に従って国道二号線に出て、ようやく捕まえたタクシーに住所を告げると、


「そこは車が入らんよ」


 と言われた。なら、車で入れるところまで、とお願いしたら、


「ここからすぐそこまでじゃけ、タクシーはいらんよ。兄さんは若いんだし歩きんさい」


 運転手は悠の手荷物を一瞥し、道路を挟んで少し先の枝道を白手袋の指で指し示してくれた。


 旧市街の尾道には、こんな細道がたくさんあるらしいとは知識で知ってはいた。情緒あるなあ、と思っていても、現実は厳しいものだ。一時的とはいえそこで生活するじぶんには厳しいかもしれない。悠は去っていくタクシーを眺めながら、先日の出来事を思い出していた。


 平日の夕方。

 仕事から帰宅した母が、悠に、空き家になった祖父母の家の整理をしてくるように言った。

 なんで急に、と悠が問うと、


「あなた、就職もせず家でごろごろしているんだから、暇でしょ。すぐに売却できるような状態にしてきて頂戴。当面の生活費と整理の経費は出すから」


 派遣会社員として働いている母は、外出着の上からエプロンをつけ、取り皿を出しておいて、というのと同じ調子で言ってきた。

 悠は最初、母の話に戸惑った。母にどこの家のことかを尋ねると、


「尾道にあるわたしの実家よ。悠は小さい頃に家族で一度しか行ってないから覚えていないかもしれないけれど」

「だからって、僕ひとりで一軒まるごと片づけるのって無理じゃない?」

「娘だったらそう思ったかもしれないわよ。でもあなた、曲がりなりにも成人男子でしょう。短大出のわたしと違って四年制大学を出ている学士さんでしょう。仕事しなさい」


 悠は言葉に詰まった。

 学士号はともかく、「仕事しなさい」は正論過ぎて、言い返せなかった。

 大学は自宅から通った。文系で比較的時間が自由になったけれど、悠は食事も洗濯も掃除もほとんど手伝わなかった。父はしょっちゅう海外出張で家にいない。母は仕事帰りにスーパーで総菜を買ってきて、家にあるもので汁物を作って夕食にしていた。掃除も洗濯も、溜まればする、というスタンスで、神経質なタイプではなかった。


 口やかましくない母だったこともあり、悠は大学卒業後も家にいた。小遣いが底をつきそうになったらバイトをする、という気楽な生活を送っていたのだ。大学在学中はもちろん、今も、食費も何も入れていない。母の依頼という名の命令に、逆らえる身ではないことは、悠は十分理解していた。

 それでも、一応は食い下がった。


「母さんが行けば早いんじゃないの」

「あの家に入るのが嫌なの。尾道に帰るのも」

 母が苦しそうに眉を寄せた。

「……住んでた頃、怖いことでもあったの?」

「違うわ。腹が立つのよ」


 そう言って、母は顔をしかめ、悠に背を向けた。

 母は否定したけれど、やっぱりなにか怖いことがあったのではないか。頑なな背が震えているように見えた。

 それきり黙り込んで包丁を握る母を見ながら、悠は、じぶんが行くしかないんだな、と他人事のように受け止めた。

 まあ、なんとかなるだろう。自分を納得させた。


 あの日から、先ほどまで呑気に構えていた。いつもそれでなんとかなっていたのだ。だが、今回は勝手が違う。そのことに今、ようやく気がついた。もっと事前に情報を取っておけばよかったと、今さらながら後悔した。

 行き交う車が途絶えたところで道路を横断して、高架下の洞穴みたいな通路をくぐった。そこからが大変だった。

 毎日ろくに家から出ず、ゲームくらいしかしていなかった身には、目の前の延々と続く緩い坂が地味に堪えた。


 「境居」という目的の表札のついた門扉が見えたとき、悠はへたり込みそうになった。

 斜め掛けしていた鞄の中から古臭い鍵を取り出す。門扉に鍵を差し込み、少しの抵抗を無視して、力を入れて捻る。きい、という音がして、鍵と一緒に、格子の扉が開いた。

 そこから見た祖父母の家は、空き家というより、置き忘れられた白い箱に見えた。

 雑草が腰高以上に茂っていて、玄関までたどり着くのに踏み倒さなければならなかった。


「もしかして、家の中だけでなくて、庭の雑草抜きも仕事?」

 悠は呻いた。

 玄関の扉に鍵を差し込む。捻ろうとしても、動かなかった。二本しかない鍵の一本だ。間違えようがない。ぐっと奥まで差し込んで、捻った。動かない。


「まいったなあ」

 悠は頭を掻いた。


「おじいさんとおばあさんの家、初めてだから鍵の開け方のコツなんてわからないんだけど」

 ふう、と息を吐いた。


「頼むよ、入って片づけをしたいんだからさ」


 鍵のぎざぎざを撫でて、鍵穴に差し込んだ。今度こそ、と思いを込めてゆっくりと回した。

 拍子抜けするほど、すんなりと回った。

 受け入れられた気がして、悠は思わず笑顔になった。

 引き戸の玄関を開けて、悠は再び呻いた。

 悠を迎えたのは、玄関から入る陽射しに照らされて白く煙る、埃だった。

 それでも、誰かが暮らしていた気配は、埃の下に残っているようだった。


 持参したスリッパに履き替え、家じゅうの窓を開け、掃除機をかけ、水拭きを終えた頃には、日が西にかなり傾いていた。


「とりあえず、寝袋を敷いて寝られそうにはなったけど」


 悠は天井を仰いだ。

 この家を掃除していて、奇妙なことに気がついた。


 一階の間取りに違和感を持ったのだ。一階には台所こそ、そこそこの床面積があるけれど、風呂場や脱衣場、トイレがぎゅっと詰められているように、狭い場所に密集して配置されていた。

 代わりに、居間と客間が、大きくとられていた。


「しょっちゅう客が来るような間取りなんだよな」


 喫茶店でも開けるんじゃないか。


 そんな思いが浮かんだ。

 和室の客間には、机の上に年代物と思われる籠が一つ、置いてあった。冬のこたつの上に、みかんを入れておくような、そんな籠だった。


「これ、お菓子を入れるのにちょうどいいや」


 悠は漆塗りの籠をひょいと持ち上げて、居間へ移った。

 居間は客間と違って、洋間だった。

 座り心地のよさそうなソファを窓辺に寄せて、ローテーブルもあわせて引っ張り寄せ、その上にさっきの籠を置いた。

 元からそこにあったようにぴったりだ、と悠はにっこりした。


 労働の後のご褒美タイムだ。

 悠はコンビニで買い込んできたせんべいなどの菓子類を籠の中に丁寧に詰めた。


「おさまりが良すぎて、ここから取って食べるのが惜しい気がする」


 悠は唸って、冷蔵庫を開けた。

 母があらかじめ電気とガスと水道を使えるようにしてくれていたおかげで、冷凍庫はまだ使えそうにないけれど、冷蔵室のものだけは詰め込めた。

 電気ケトルがないので、きれいに洗って薬缶で湯を沸かし始めた。湯が沸く間に、買ってきたプリンとカット済みの果物、スプレータイプの生クリームを冷蔵庫から取り出した。

 食器棚からガラス製の皿を取り出し、洗ってから、プリンを中心にメロンやいちごを盛りつけていく。最後にホイップクリームをプリンの上にちょこんとのせて、できあがりだ。


「我ながら上出来」


 そうこうしているうちに湯が沸いたので、ドリップバッグのコーヒーを、これまた食器棚から出してきて洗ったマグカップの上に乗せ、ゆっくり淹れていく。

 悠の周りにコーヒーの香りが立ち上った。

 ガラス皿にスプーンを乗せ、皿とカップを両手にそれぞれ持って、窓際のソファに座る。


「いただきまーす」


 スプーンをもっていざ、と構えた時だった。

 ピィンプォーン。

 歪んだ音の呼び鈴が鳴った。

 顔を歪ませ、悠は舌をうった。

 玄関先にいたのは、ノータイに明るいグレーのスーツを着た三十代の男だった。黒縁の眼鏡をかけていて、眉は色濃く太い。眼鏡の縁から左眉の上に、古いものらしい変色した切り傷の痕が見えた。

 普段は前髪を上げているらしい額に、走ったのだろうか、乱れた髪が落ちていた。男は黒く太い眉を少し寄せ、挨拶もなしに鋭い声を放った。


「この家の主に会いたい」


 悠よりも頭半分は背が高い。頭上から放たれる圧のある声音に、悠は思わず半歩下がりそうになった。


「……どちらさまですか」

「主はいま、いるか」


 ぞんざいな口調に、悠はむっとなった。せっかく用意したご褒美セットを置いて出てきて、名も名乗らない無礼な訪問者に、丁寧に対応する必要があるだろうか。いや、ない。悠は眉を顰めた。


「いませんけど」

「主はいつ、戻る」

「ここにはいません。僕は整理を頼まれた者です。では」


 そう言って、悠は引き戸を閉めようとした。

 男は戸をがしっと片手で掴み、悠へぐっと顔を近づけた。


「この家をどうする気だ」


 焦りの滲んだ声だった。切羽詰まった雰囲気が伝わってくる。だが、悠には関係ないことだ。


「失礼な初対面の人に答える義理はありませんよね。もう帰ってください」


 悠は見上げて睨み返した。

 男はなおも食い下がろうとして口を開きかけた。悠は男を無視して、ぐっと引き戸に力を込めた。それが伝わったのだろう。男は手を引いた。

 悠は引き戸をぴしゃりと音を立てて閉めた。しっかりと、二か所ある鍵をかける。

 少しして、男が引き返す気配がした。引き戸越しに、悠は鼻を鳴らした。腹の虫がおさまらない。

 このままプリンアラモードを食べる気にはなれなかった。


 持ってきたサンダルを履いて、居間から庭へ出た。

 駅に着いてから、観光気分で歩き回った。そのうえ、散々歩いたあとで、目指す家が車の入らない所だと知った。疲れた体で埃だらけの家をなんとか食事をとり、眠れる程度までは整えた。ようやく腰を下ろせると思ったところへ、不躾な男に詰め寄られた。悠の中には行き場のない苛立ちだけが残っていた。八つ当たりがよくないとはわかっていた。けれど、どうにもおさまらなかった。


 南に向いている庭は、やっぱり草がぼうぼうで、悠は草を踏み分けながら歩いているうちに、いつのまにか庭の隅まで来ていた。

 そこは土が一段高く盛られていた。その上には黒っぽい石が小さな段を作るように積まれていた。雑草に半分隠れていなければ、何かの目印にも見えたかもしれない。だが、悠にはさっきの失礼な男の眉を連想させた。


「嫌な奴!」


 悠は黒い石積みを蹴りつけた。

 石積みはぼろぼろと、あっけなく崩れた。欠片が悠の足元に転がり、サンダルの先にこつんと当たる。

 その欠片になにか言われたような気がして、悠はさっと踵を返した。

 急に、あたりの空気がどんよりとなった。

 なにかの気配が、悠に重くのしかかったように感じた。

 なんともいえない、気持ちの悪さだった。

 けれど、振り返ってまで確かめる気にはなれなかった。確かめたら、何か見てはいけないものを見る気がした。

 西日が、悠をつまらなそうに照らしていた。


「なんだよ、もう」


 悠は地面をだん、だん、と踏み鳴らし、居間へ戻っていった。

 コーヒーは冷めきっていて、プリンにのせたクリームは待ちくたびれてだらりと横になっていた。

 悠は冷めたコーヒーをぐいと飲み干し、ガラス皿ごと冷蔵庫へ入れた。

 冷蔵庫の前で、居間へ目を向けた。窓の向こうにあるはずの崩れた石積が、カーテン越しにこちらを見ている気がした。

 厚手のカーテンを閉めて、ソファに腰を下ろした。だが、かえって落ち着かなかった。

 体を動かしたほうがいい。

 そう思って、外へ出た。


 尾道にあるたくさんの細道は、港側から北の山へ向かって走っている。その細道も、あみだくじのように横線でつながっているところがある。悠は、その横線を見つけ、気まぐれに歩いて行った。


 その先に、真っ黒な猫がいた。

 石段の脇の、小さな岩の上に、のっそりと寝そべっていた。足先だけが真っ白な両前足の上に、饅頭を潰したような横に広い顔を乗せて、目を閉じていた。

 悠は最初、置物かと思った。西日の中、じっと見つめていると、その黒猫は突然目を開け、悠へ視線を向けた。


 翡翠を濁らせたような瞳だった。

 透明だけれど、どこか闇を抱えているような目だった。

 綺麗だけれど、おっかない。

 怖いもの見たさ、というのだろうか。

 何かに魅入られたかのように、悠は動けなかった。

 数秒経ったのか、あるいは数分か。時間の感覚がない。

 そのとき。


「いたいた!」


 不意にあげられた声に、悠ははっと我に返った。

 観光客と思しき二人連れの女の子が、


「いつもの猫の細道にいなかったけど、この子よ」

「ふてぶてしい黒毛のブサ猫って、そういないもんね」


 くすくす笑って、スマホを猫へ向ける。

 悠は体から力が抜けていくのを感じた。

 緩やかに、時間がじぶんに纏わりつく。

 そうか、猫の細道か。観光客の会話で、じぶんがそこへ行ってみたいと思っていたことを思い出した。

 尾道には、猫の細道という猫由来の道がある。悠は情報として知ってはいたが、近くだということまでは知らなかった。どうやら祖父母の家から少し歩けば、猫たちに逢えそうだ。そう思うと、少し楽しくなってきた。うちでは、母が嫌がって動物を飼えなかったのだ。そのぶん、ここで猫を撫でたりできるかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、黒猫は女の子たちの笑い声に目を細め、ぱっと立ち上がった。そのまま駆け出し、あっという間にいなくなってしまった。あの黒猫は見た目に反して、動作は機敏らしい。

「ああ残念!」


「太ってても猫だねえ」

 女の子たちはまた笑って、もう一本ある横道へ足を向けた。

「なんだか喉が渇いちゃった」

「今日は暑かったもんね。このへんにカフェはなかったはずだし、そろそろ、ご飯食べるところに行こうか」

「賛成」


 二人は仲良く並んで、道の向こうへ消えて行った。


「そうか、もうすぐ夕飯時か」

 彼女たちの話で、悠は空腹を感じた。

「とりあえず、ご飯食べて寝よう」

 悠はもと来た道を引き返した。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。よかったら、評価をお願いします。

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