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新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ  作者: 条文小説


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1-6 東三河・吉田川の「デス・マッチ」

挿絵(By みてみん)


『三河物語(みかわものがたり)』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia

 よう、また会ったな。語り部の彦左衛門だ。


 前回は、SSR当主・松平 清康(きよやす)公が叔父の内前(うちぜん)を公開説教し、ブラック上司顔負けの威圧感を見せたところまで話したな。だが、家臣たちの反応がまた面白いんだ。


「殿はめちゃくちゃ慈悲深いけど……あの優しさ、実は俺たちを『気持ちよく討死させるための超高度なメンタル管理(バフ)』なんじゃないか?」


 なんて囁き合う始末。伯父相手にあれだけキレ散らかす「覇王の顔」を見せられたら、そりゃあドン引きもする。だが、その圧倒的な「弓矢道(プレイヤースキル)」は、もはや日本で並ぶ者なしと言われるレベルにまで達していたんだ。


 さあ、今日は清康公が三河を完全制覇し、ついに「魔王の父」と対峙する……徳川家黎明期のクライマックスだ。


 西三河を平定した清康公の次のターゲットは、牧野(まきの)伝蔵(でんぞう)が支配する東三河。清康公は岡崎城を立ち、赤坂、小坂井と爆速で進軍。吉田の城(今の豊橋)を包囲した。


 対する牧野軍も「ここで負けたら終わりだ」と腹をくくった。彼らは吉田川を渡り、なんと「退路の舟をすべて突き流す」という、文字通りの背水の陣を敷いたんだ。両軍は川の堤防を挟んで対峙した。

 そこから半日。驚いたことに、一切の攻撃が止んだ。聞こえてくるのは、両軍が唱える念仏の声だけ。「これから死ぬ」という覚悟が決まりすぎて、戦場がしん……と静まり返ったんだ。まさに戦場全体が凍りついたような異様な空気だ。


 その沈黙を破ったのは、やはりあの二人。清康公と、さっき怒られたばかりの叔父・内前だ。


「おい、行くぞ内前!」

「応よ、清康!」


 二人は馬を飛ばし、敵陣へ何度も何度も斬り込んだ。

 これに焦ったのが清康公の護衛(ガード)たちだ。


「大将、危なすぎます! 下がってください!」と馬の口取りにしがみついて止めた。ところが、ここで内前が叫ぶ。


「何をしてやがる、放せ! 討死させてやれ! 大将をかばって軍勢が負けたら、結局どっちも死ぬんだ。軍勢が勝てば大将は生きる。今は下知をさせて、死ぬ気で突っ込ませるのが正解だろ!」


 ……ロジックが極端すぎる。


 だが、内前は兜を脱ぎ捨て、「俺の顔をよく見ておけ!」とばかりに敵陣へ再突入。清康公もそれに続く。この「狂気」に当てられた味方は、一気に堤防を駆け上がり、敵を川へ追い落とした。牧野四兄弟は全員討ち取られ、吉田の城は陥落。女房たちが杖を突いて逃げ出すほどの完勝だった。


 この勝利で、東三河の諸勢力はドミノ倒しのように降伏。清康公は、わずか20歳前後で三河一国を完全にコンプリートしてしまったんだ。三河統一のニュースは、日本中に拡散(バズ)った。


「安祥の三郎(清康公)ってヤツ、やばくないか?」


 すぐに甲斐の武田信虎(信玄のパパ)から「同盟組もうぜ」とフレンド申請が届き、美濃(岐阜)の有力者たちからも「早くこっちに来て、俺たちを助けてくれ」とラブコールが殺到。


 清康公は、まず美濃への影響力を強めるべく、尾張(愛知西部)の攻略を決定した。

 相手は「織田弾正忠」。そう、あの織田信長の親父・信秀(のぶひで)だ。清康公は1万余の軍勢を率いて、尾張の森山(守山)へと進軍した。


 だが、この栄光の影で、じわじわと「毒」が回り始めていたんだ。


 かつて清康公に説教された内前は、実はまだ根に持っていた。彼は上野(うえの)城に籠もり、「体調不良」を理由に今回の出陣を拒否。さらに、裏で織田信秀と繋がっているという不穏な噂が流れ始めた。森山の陣に報告が入る。


「殿、内前殿が織田と内通して別心を抱いているようです!」


 だが、清康公は鼻で笑った。


「内前が裏切ったところで、俺の覇道に何の影響がある? 俺が安祥で500人しか持っていなかった頃から、天下を獲るには100回は戦わなきゃいけないと覚悟してる。 敵が百万いようが、何度でも押し潰すだけだ。いちいち気にするな」


 家臣たちが「でも、内前の婿(むこ)の連中が攻めてくるかも……」と心配しても、清康公はからからと笑い飛ばす。


「あんな雑魚ども、俺が通るだけで首に石を括り付けて淵に飛び込むレベルだろ。出てくるなら逆に満足だ。一瞬で片付けてやるよ」


 この圧倒的な自信。 まさに「全ステータス・カンスト勢」の余裕だ。だが、この「自分は絶対に負けない」という自信が、周囲の不安を見えなくさせてしまったのかもしれない。


 そんな中、最も苦悩していた男がいた。清康公の最側近、阿部(あべ)大蔵(おおくら)だ。世間では「阿部一族も内前とグルになって裏切るらしい」という悪質なデマが流されていた。大蔵は息子の弥七郎を呼び出し、静かに、だが重く語りかけた。


「弥七郎、よく聞け。俺たちが今こうして人並みに暮らせているのは、すべて殿の御恩だ。この恩は、一生かけても返しきれない……いや、来世でも返しきれないだろう」


「父上、なぜそんな話を……?」


「世間では俺たちが逆心を抱いていると騒いでいる。だがな、俺にそんな思いは微塵もない。もし俺が殿を裏切るようなことがあれば、神罰を被って乞食に成り果てても文句は言わん」


 大蔵の目は、死を覚悟した者のそれだった。


「もし、この先、殿が言葉も交わさずに俺を成敗しようとなさるなら、それは俺の運命だ。その時は、お前たちはどこへでも逃げろ。ただ、これだけは忘れるな。俺たちの親に、逆心の思いなど夢にもなかったということをな」


 これが、後に歴史を揺るがす「悲劇」への、あまりにも悲しい伏線(フラグ)となった……。


 尾張・森山の陣。霧の深い朝。三河の天才・清康公を待ち受けていたのは、織田軍の刃ではなく、身内からの「あまりにも不条理な一撃」だった。


 次回、「森山崩れ」。徳川の時計の針が一度止まる、その瞬間の話をしよう。準備はいいか? 涙を拭くハンカチを用意しておけよ。




【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】




内前殿も異儀(いぎ)に不㆑及赤面してをはします。内前殿は生(いき)ての羞(はぢ)、右京殿者に今初(はじめ)の事なれども死(しに)ての面目名を上給ふ。儅(さて)又各々申ける者、此君者御慈悲(じひ)御情(なさけ)御哀(あはれ)みふかき君なれども日頃の御悲慈(じひ)、御情(なさけ)、御哀(あはれ)みはか様之時打死をさすべき御ために、日頃(ひごろ)御ふびんをくはへさせ給ふ成。只我人命を捨(すて)て摝(かせぎ)給へ。か様にうつくしく俰(やはらか)にあたらせ給ふ君の伯父親(をぢおや)に而まします。内前殿へ被㆑仰にくき事を、儅(さて)も〳〵荒(あら)々と手ぎつく被仰候物かなと、各々舌を捲き興醒めて社(こそ)ゐたり。思ゑば此君者人間に替(かはり)たるとぞ申けり。弓矢の道におそらくは、異(い)国者しらず本朝にはあらじ。扨(さて)又東三河をば牧野伝蔵が持(もつ)、清康東三河へ御働(はたらき)とて段(だん)々にそなへ、岡崎を打出させ給ひ而押(おさせ)られ給ふ。岡崎を立而赤坂(あかさか)に御陣を取せ給へば、先手者御油(ごゆ)かうに陣を取、明ければ赤坂を打立たせ給ひ而、小坂井に御籏(はた)が立。先手は押(おし)おろして、下地の御油(ごい)を放火する。吉田之城寄是をみて、少国を二人して持(もつ)而何かせん、今日実否の合戦して東三河を清康ゑ付物か西三河を我取物か、実否の合戦爰成とて、大舟小舟に而吉田河を打越舟を置(おく)ならば、味方の心も未練出来かせんとて、舟をば突流(つきながし)而懸。清康是を御覧じて、小坂寄御籏(はた)を押(おし)おろさせ給ひ而打向(うちむかはせ)給ふ。伝蔵も下(しも)地へ押上、清康は下地之塘へ押上(あげ)んとす。両方(はう)塘之両之腹(はら)に芝付(しばつき)而半日ばかり互(たがひ)之念仏之声(こゑ)斗して、大事に思ひ而、しん〳〵と心をしづめて居(ゐ)たり。伝蔵、伝次、新次、新蔵、兄弟四人一つ処に西之方にぞ居たりけり。清康と内前は両陣に群がつて、東西をかけまはり、敵の中へかけ入〳〵ざいを取給ふ。然る所に御馬まわりの衆はしり寄而、ゆはれざる大将之敵(てき)之中へかけいらせ給ふとて、御馬の水付に取付ければ、あやかりめはなせとて采配を取なほし給ひ而、脥(つら)を打御腰(こし)物に御手を懸させ給ひ、はなさずば成敗せんと仰ける所へ、内前殿かけよせ給ひ而何物ぞあやかり、はなせ放(はな)して打死をさせよ。大将をばかばう処が有物ぞ、大将をかばいても軍(ぐん)兵が負(まくれ)ば、大将ともに打死をするぞ。軍兵が勝(かて)ば大将も生(いき)るぞ、はなして下知をさせて打死をさせよと仰ければ放しけり。去程に内前は敵(てき)味方に見しられんため、鋹(かぶと)をぬいでとつてからりと捨(すて)、清康と内前と敵之中得懸入々々げぢをなし給ゑば、何れも是にいきほひて塘へ懸上(かけあがり)、鑓(やり)を互(たがひ)になげ入る寄其儘つきくづして河へ追はめけり。伝蔵兄弟四人是を見(みて)突つ立ければ、何れも負(まけ)じと立而鑓(やり)をなげ入ければ清康方負(かたまけ)にけり。然ども清康之御旗(はた)本が勝(かち)而吉田河へおいはめ候故、清康と内前跡寄懸らせ給へばなじかはたまるべき哉、伝蔵、伝次、新次、新蔵、兄弟四人を討取る。吉田之城に者女房ども出て見而下(しも)地をふうするに、出而見よとてこんがうをはきて出て、塀寄見越而見る。清康者思之儘に合戦に打勝(かち)而、吉田河之上之瀬へまはりて河を騎(のり)越、吉田之城へ即(すなはち)責(せめ)入給ゑば、女房どもはこんがうをはきて田原へ落行(おちゆく)。清康者吉田に一日之御とうりう被㆑成、明ければ吉田を打出させ給ひ而、段々に備を押(おし)田原へ押寄(おしよせ)させ給ひければ、戸田も降参を乞いければ寛(ゆるさせ)給ふ。田原に三日之御陣之取給ひ而、明ければ又吉田へ押もどさせ給ひ而、吉田に十日御とうりう之内に、山家(け)三方、作手(つくで)、長間(ながしの)、段嶺(だみね)、野田、牛(うし)久保、設楽(しだら)、西郷、二れん木、伊名、西之郡、何れも〳〵降参を乞いければ寛(ゆるさせ)給ひ而出仕する。明ければ吉田を御立有りて岡崎(ざき)ゑ着せ給ふ。其寄して案祥(あんぢやう)之三郎殿と申奉り而、諸国に而人之沙汰(さた)するは清康之御事成。然間早(はや)甲斐(かひ)の国の信虎(のぶとら)寄も仰合らるゝと、使者をつかはさるゝ。是をきゝて近国寄使者(ししや)之有りけり。美濃(みの)三人衆者早(はや)御馬を寄られ候ゑ、御手を取り申さんと申せしところに、尾張(をはり)之国森山御手を取申故、美濃(みの)へ御心懸有而、森山之御陣とて一万余に而岡崎を立給ひ、御一門之衆先手として、段々にそなへて押せられ、其日者岩崎(いはざき)に御陣を取、明ければ森山に御着有而、御陣をはらせ給ひけり。其寄して美濃(みの)三人衆ゑも、是迄御出陣之由仰つかはさる。小田之弾正(だんじやう)之忠(ちう)は清須(きよす)に有と云とも此方彼方打ちらして放火せしめ給ふ。美濃(みの)三人衆も悦(よろこび)而頓(やが)而数の俣(また)を打越而打むかひ中、御対面可㆑仕と申越其支度有処に、松平内前殿はうり之熊谷が処ゑ御、働(はたらき)之時、松平右京殿ゑ弐(すけ)させ給はざるとて、荒々としたる御詞(ことば)を意趣(いしゆ)に籠め、其耳弄(のみならず)清康御手をくだき給ひ而、西三河をたいらげさせ給ひ、東三河の牧野伝蔵を打取、一国をかため給ひしかば、小田之弾正(だんじやう)之忠にせりとゞめさせて、岡崎を安(やす)々と取物ならば、三河之国者我等が物と思ひ定而、上(うへ)野の城に居而、虚病(きよびやう)をかまひて今度の御供者無(なし)。上(うへ)野の城に御入有而、其寄信長之御父、小田之弾(だん)正之忠と仰合られて別心(べつしん)と申而、森山ゑつげ来。清康聞召(きこしめされ)て、内膳別心をしてあればとて、何程のかうをなすべきとて、事とも思召(めされ)ず。然る時んば森山者内前殿婿(むこ)なれば、弾(だん)正之忠を引請(うけ)而候はゞ、のきくち如何(いか)が候はんと申ければ、森山が城を出るならば、付入にして城を㸋(やき)はらひ可㆑申。弾(だん)正之忠向うならば、願のことく一合戦してはたすべし。弾正(だんぜう)の忠と合戦(かつせん)のするならば、内前をふみつぶすに不㆑及、独(ひとり)ころびにならん。其故弾正忠も出て我に太刀を合ん事思ひも寄らず。出る事は成間敷、我案祥に有し時、纔(はづか)に五百三百持(もち)たりし時さゑ、一度天下を心懸而有にも、百々度之軍(いくさ)をせずんば天下は治(をさめ)られじ。野に向き山に向き敵(てき)とだにも見(みる)ならば、是非ともに押寄而百万騎有とも百々度之軍(いくさ)をせんと思ひ而有り。何時も軍ならば、はづす間敷に心安あれと仰けり。然者退かせられ給はゞ、大給(おきふ)の源次郎殿者、内前殿婿(むこ)に而有り。いかゞ御座可㆑有哉と申ければ、中々之事を申物かな、弾(だん)正之忠をさへ何供思はぬに、源次郎連(づれ)が何とて出て我を禦(ふせがん)哉。若出るならば頭(くび)に石を付而我と潭(ふち)ゑ飛(とび)入に社(こそ)あれ。其迄も無(なき)池鯉鮒(ちりふ)へ出てすぐに上野ゑ押寄、二三之丸を焼(やき)はらいてのくべしと仰ければ、各々被申けるは、其儀如何(いか)が御座可㆑有哉。小河は内前殿の婿(むこ)なれば、定而小河寄も加勢(せい)もや可㆑有と申ければ、から〳〵打咍(わらはせ)給ひ而、中々之事面々者何を案ずるぞ。我とをるに小河などが百万之人数を持(もち)たればとて、出て我に太刀を合ん哉。出る成(ならば)満足と仰ける。然る処に阿部(あべ)之大蔵惣領之弥七郎を喚(よび)而申けるは、何とやらん世間(せけん)之騒々敷に付而、我等も別心(べつしん)を䇅様(くはだつる)に沙汰(さた)をすると聞、我君之御恩(ごおん)ふかくかうむり、今人と成し我等ぞかし、此御恩(おん)を何としてかほうぜん哉。然ども此御恩(おん)は今生に而ほうずる事中々成難(なりがたし)と、寐ても寤めても是を社(こそ)思ひ暮(くらし)申せしに、か様に人に沙汰(さた)を致さるゝも、天道之つきはてたる事成、逆心(ぎやくしん)之思ひ寄ず、若(もし)我左様成儀もあらば、君之御ばつと蒙りて人も人とは云ずして、後には乞食をすべし。日本は神国なれば、諸神諸仏もなどか我を安穏に而置(おかせ)られ間敷候べし。何とて此君之御恩(おん)を譞(わすれ)申さん哉。哀纆綱(あはれなはつな)をも懸させられても、水火之責(せめ)に而も御尋(たづね)あらば、申披きても果て度は存ずれども、物をもゆはせ給はで、御成敗(せいばい)も有ならば、よみじのさはりとも可成に、人声(こゑ)高く憂世(うきよ)さうざう敷も有ならば、我等を御せいばい有と心得而、汝等(なんぢら)者何方へも取籠り候へ而、我等が親は逆(ぎやく)心之儀者夢々心に無㆓御座㆒候。

〜参考文献〜

三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource

https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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