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新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ  作者: 条文小説


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1-5 空気読みの天才? 「あえて空気を読まない」家臣への神対応

挿絵(By みてみん)


三河物語みかわものがたり』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia

 よう、また会ったな。大久保おおくぼ彦左衛門ひこざえもんだ。


 前回、13歳の「SSR当主」松平まつだいら清康きよやす公が、持ち前のカリスマと「御定規じょうぎの酒」イベントで家臣団の心をガッチリ掴んだ話をした。


 だが、組織が急拡大すると、必ず出てくるのが「古参と新参の確執」や「身内の足の引っ張り合い」だ。今回は、清康公がどうやって「反抗的な身内」を理屈と威圧でねじ伏せ、三河を統一していったか――その熱すぎる中盤戦の物語を語ってやろう。


 清康公が家督を継いで間もない頃、ある「のう」の鑑賞会があった。例の「マウント叔父さん」こと松平 内前うちぜんが、またもや不遜な態度で居座っていた時のことだ。


 清康公は、内前のそばにいた一人の家臣に「おい、そこを立て。城へ来い」と使いを出した。ところが、その家臣は頑として動かない。


「殿の命令は絶対だが、俺は今、内前様の目の前にいる。ここで一人だけ立ち上がったら、内前様に失礼だし、周囲の目が怖すぎる……」


 まさに板挟み。彼は顔を真っ赤にしながら、能が終わるまでその場を動かなかった。


「あいつ、殿の命令をシカトしたぞ! 処刑(BAN)確定だろ!」


 周囲がザワつく中、彼は覚悟を決めて城へ出頭した。だが、清康公の口から出たのは意外な言葉だった。


「お前、よくやった。合格だ」


 清康公は笑って続けた。


「いいか。俺たち松平 一族ギルドの強みは、数万の傭兵フリーランスじゃない。代々一筋に仕えてくれる『譜代ふだい』の絆だ。お前が直属の目上の者を重んじ、仲間の顔を立てるために俺の命令をあえて保留した……その『義理堅さ』こそが、俺が最も信頼するスキルだ」


 清康公は、彼の知行を4貫から9貫へと倍増させた。


「俺は若造だが、天下を狙っている。そのためには、お前のような『一度決めた忠義を曲げない奴』が必要なんだ。内前叔父上が俺を潰そうとしても、お前のような譜代がいれば、俺は10万の軍勢にも立ち向かえる!」


 この「ロジカルな優しさ」に、三河中の武士たちが震えた。「異国は知らんが、日本にこれ以上の主君はいねえ!」ってな。


 勢いに乗る清康公は、次に戦略上の最重要拠点・岡崎城を狙った。当時、岡崎城を守っていたのは西郷さいごう弾正左衛門だんじょうざえもん。さらに山中城も彼の手中にあった。


 ここで、我が先祖・大久保おおくぼ七郎右衛門しちろうえもんの出番だ。彼は得意の「ステルスミッション」で山中城をあっさりと奪取してみせた。清康公は喜んで「褒美は何がいい? 知行(土地)を増やすか?」と聞いたんだが、七郎右衛門の返しがまたシブい。


「殿はまだお若く、領地もこれから。土地なんていりません。ただ、『市のます』の管理権をください。商売の基準を決める権利があれば、自分たちの食い扶持くらいは稼げますから」


 欲張らず、実利を取る。これぞ大久保家のスタイルだ。さて、山中城を奪われた西郷弾正左衛門は、清康公の圧倒的な勢いと器量にビビり散らかした。


「これ、戦っても無駄だな……」と悟った彼は、娘を清康公に嫁がせることで和睦。岡崎城をそのまま「よめ入り道具」として譲り渡したんだ。


 これで松平家は、安祥・山中・岡崎という三つの拠点を手に入れた。いわゆる「三岡崎」の完成だ。清康公、わずか14、15歳にして、西三河の支配権をほぼ掌握したわけだ。


 岡崎を手に入れた清康公は、まだ様子見を続けている一族や国人たちに「公式メール」を一斉送信した。


件名:出仕のお願い(あるいは滅亡のお知らせ)

 父・信忠が隠居し、俺が跡を継いだ。わずか数百の譜代と始めたが、今や西三河はほぼ俺のものだ。お前ら、まだ迷ってるみたいだけど、早く挨拶に来いよ。「自分なりの考えがある」とか言って拒絶するなら、返事次第で即座に物理でふみつぶしに行くから。よろしく。


 このメッセージに、多くの連中が「す、すみませんでしたぁぁ!」と出仕してきた。


 中には「いや、俺は信忠公(先代)に義理があるから、若造のお前には従わん!」と意地を張る頑固者もいたが、清康公は容赦しなかった。


 反抗勢力にはガチの軍勢で攻め込み、徹底的に「手荒く」叩き潰す。だが、降伏した瞬間に「よし、許す。今日から仲間だ」と180度態度を変えて慈悲をかける。この「超アメと超ムチ」の使い分けに、三河の人間は「怖えけど、ついていくならこの人しかいない」と心酔していったんだ。


 享禄3年(1530年)。清康公はついに三河の全土統一を掲げ、東三河の強敵・熊谷くまがえが守る宇利城へと出陣した。この時、清康公の軍勢は8,000。もはや小さな一族ギルドじゃない、一大勢力だ。


 戦いは熾烈を極めた。大手門メインゲートからは、一族の内前うちぜん右京うきょうたちが攻め込み、清康公の本隊は裏山から敵を見下ろす陣を敷いた。ここで悲劇が起きる。


 松平一族の中でも最強の弓取りと呼ばれた松平右京。彼は一歩も引かずに敵の真っ只中へ突っ込み、孤軍奮闘した。だが、すぐ隣にいた内前うちぜんが、あろうことか「嫌がらせ」で援軍を出さなかったんだ。


「ふん、右京のやつ、一人で目立ちやがって。少し痛い目を見ればいい」


 そんな私怨のせいで、右京とその部下12、3人は、血みどろになって討死してしまった。これを見た清康公の怒りは、まさに「サーバー崩壊レベル」だった。


 山の上からその光景を見ていた清康公は、怒りのあまり拳を握りしめ、目は血走り、歯を剥き出しにして白い泡を噛んだ。


「……内前……あの野郎……!!」


 その顔は、もはや人間のそれじゃない。祟り神や天満大自在天、あるいは地獄の鬼神が降臨したかのような恐ろしさだった。周囲の家臣たちは、あまりの迫力に顔を合わせることすらできなかったという。清康公はすぐさま内前を呼びつけ、罵声を浴びせた。


「内前! 右京が死ぬのを黙って見ていたな! 右京は国一つに代えても惜しい、我が一族ギルドの宝だったんだぞ! お前が助けさえすれば、死ぬことはなかった!」


 内前はヘラヘラと言い訳をしようとしたが、清康公の殺気に言葉を失った。


「いいか、よく聞け! 明日の戦い、八幡大菩薩も天道もお天道様も見ておられるぞ! 二度と俺の目の前で、仲間を見殺しにするような真似はさせん。次にやったら、お前が誰だろうと俺自身が叩き斬る!!」


 この叫びは、戦場全体に響き渡った。翌日、清康公自らが陣頭に立ち、凄まじい勢いで宇利城を陥落させた。その戦いぶりは、古の猛将・樊噲はんかいや軍師・張良すら凌ぐと言われるほどだった。


 こうして清康公は、わずか20歳そこらで三河一国を完全に統一した。「部下を大切にする慈悲」と、「裏切りを許さない圧倒的な武」。この二つを極めた清康公の元には、家臣たちが「妻子なんて二の次だ! 殿のためなら火の中水の中、喜んで死んでやる!」と狂ったような忠誠心で集まっていた。


 もし500人の譜代がいれば、10万、20万の敵軍のど真ん中に切り込んで四方八方に暴れ回る。それが当時の松平軍団、通称「三河武士」のプロトタイプだ。


 清康公は次に、尾張(愛知西部)へと目を向けた。織田信秀(信長の親父殿)との決戦、そして天下への道……。


 「天下を治めるのは、もう目の前だ」


 誰もがそう確信していた。だが、運命は、この最強プレイヤーに、あまりにも理不尽なバグを仕掛けていたんだ。それが、歴史に名高い「森山崩れ」。


 ……さて、今日はこの辺にしておこうか。次回、徳川家最大の悲劇。英雄・清康の最期について語るとしよう。またな。風邪引くんじゃねえぞ。




【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】




然共上之御目之御前、又は諸 傍輩はうばい之所思おもわくか様に御使をしきつて請申、一人罷立もうしろもさび敷存知候ゑて赤面せきめん仕、左様にも御座候はゞ、恐には御座候ゑ共、御結縁思召げちえんおぼしめされ而、内前様も御立被成候得、御供申可罷立、たとゑば頭ははねらるゝとも、我等一人者罷立間敷とときつて、御能のすぐる迄終ついひに不㆑立。然る処に御のうのすぎ而、各々罷立処に彼者に御城得罷可㆑上由御使立、諸傍輩はうばい定而御成敗せいばいも可㆑有と申、其身者勿論もちろん思ひ定而有処へ、御使有ければ如㆓存知㆒なれば、おどろくに不及、かしこまつて御使と打つれて御城ゑ参。清康御覧じて汝等なんぢら供は久敷普代ふだい之者なれば、此先さき々の一類もおほく討死をして、信光、親忠、長親寄此方勲功を尽したる者のすゑ〳〵、殊更 汝等なんぢらも度々の走りめぐり其名をえたりと云ども、我又少身なれば、かいがわしきあてがいもせざれども、普代ふだいなれば我ために一命をすて而、はしりめぐりをする。か様に思ひ入たる普代之者をもちたる故に、日本国がうごきて拾万廿万騎に而倚よせかくる供、五百三百に而もきり而懸と思ひしは、かれらを持たる故成。普代ふだい之者をおき而、当座の侍を二万三万持たればとて、其に而多勢ゑ懸りて利をなさん事思ひも不㆑寄。然間汝等なんぢらはじめ普代ふだい之者一人をば、か程少身なれ供神八幡も御照覧あれ、一郡にはかゑ間敷。汝等なんぢらどもがごとくの者をもちたる故に、我又年にもたらずして、其故少身にして拾二三に成而天下を心懸一 いくさせん事、なんぢ供を頼成しに内前殿 おや無汝なんぢをふみつぶさんとし給ふ。内前殿儀ならばはしりめぐりの者供には、なさけをも懸給而、我等が用にも立様にと被成候て給而社こそ者本意なれ。却而かへつてか様にはしりめぐりの者を無被成れんとの充行あてがいは、去とはおやげ無あてがいにこそあれ。なんぢ度々のはしりめぐりにはあてがいせざれども、今日座敷を立ならば惜者をしきにはあれども、是非ぜひ供兄弟一るいを成敗ばいせんと思ひ定而、今立か〳〵としり目に懸てみてあれば、されども能立去、なんぢには地かた四貫出しつるが、今日能よく立候去ざる褒美に五貫かさねて九貫にしてとらするぞとて被下けり。是を聞、国中之大小之侍どもの申は、異国者しらず、本朝には御慈悲じひ云御情なさけと云御武辺と云、清康にましたる御主は難㆑有と云。然処に岡崎をかざき之城をば於平 だん正左衛門督殿 もたせられ給ふ。同山中之城をも、弾正左衛門督殿寄持たるを、大久保七郎右衛門てうぎをもつてしのび取に取せ給ふ。其褒美を のぞめと御意なれども、上様御少身なれば知行可㆑被㆑下との のぞみも無御座候。御普代ふだい之御主なれば御忠節ちうせつ者申成。年者罷寄成、新八郎、甚四郎、弥三郎、兄弟三人之子供者、其身にしたがいて御知行をば被㆓下置㆒成。何の のぞみ無㆓御座㆒と申上げれば、重而何を 申せと御諚ごぢやう有りければ、年寄之候何をさし而莅のぞみ可申哉。然者御分国之内の市之 ますを被下候ゑ、升取を申付而 おき申物ならば、我等之すぎあいほどの儀者御座可㆑有、別之 のぞみも御座無と申上ければ、其儀安やすき申分成とて被下けり。さて其後岡崎を取んと被成ければ、弾正左衛門督殿も、とても成間敷と思召めされ、其儀ならば清康を婿むこに取而、岡崎を婿むこ一せきに渡させ給ひけり。其儀に寄而御家に而三御普ふだい代と申儀は、安祥御普代、山中御普代、岡崎御普代と申成。安祥あんじやう御普代と申者、信光のぶみつ、親忠、信忠、清康きよやす、広忠迄、此方召つかはれ申御普代成。山中御普代、岡崎御普代と申す者、清康之御拾四五之時切きり取せ給ひし処の衆成。案祥の儀は不㆑及㆑、安祥寄山中を先切取せ給故に、山中をも御本領りやうとは被㆑仰候成。其後に清康の仰にはいまだ出仕をせざる一門、又は国侍ども之方ゑ仰つかはされける者、信忠 隠居いんきよ有而我に代をゆづらせ給ふに付、わづか五百三百之 普代ふだい之者計にて、あたりまはりをきり付而、大方一門も出仕をする、其外之者ども出仕をすれども、其方など者一円に構も無、有事者不㆓心得㆒早々出仕をせよ。然ども存分も有而出仕をすまじきにをいては、存分次第此返事に寄而 押懸おしかけ而存分によつてふみつぶすべしと仰つかわしけれ者、信忠にそむき奉り其故身を引に、今御出仕遅なはり奉る成。右の御意趣を打被㆑拾御 ゆるされ可被下候ゑ。清康ゑ何と而違背可㆓申上㆒哉。今日罷越出仕可㆑仕と申而、出仕之方も有、又は信忠にそむき申候条、只今も清康へ出仕之事、思ひも不㆑寄と申処ゑ者、押寄おしよせ給ひ而ふみつぶさせ給ひ而、手あらく被㆑成候得者、残所のこるところの衆者手を合降人となれば、御慈悲じひ而寛ゆるさせ給ふ。御拾三にして御代を請取せ給ひし寄、御内之衆にあはれ見御情なさけ申つくしがたし、其に寄而一入怕懼れけり。御武辺 武渡たけくわたらせ給ふ故、一しほ御慈悲じひを被成、御哀あはれ御情なさけかけさせ給ひ而、人一人にもふそくをもたせ給ず、御面目をうしなわせ給ず。いはんや追い払い御成敗と申事も無人ををしませ給ひけり。是と申も御代々久敷者なれば、いたづらに人をうしなはん寄、我馬之先に而打死をさせ、御用に立させられんと思召入たり。拾三拾四にしてわづか少之安祥之小城を請取うけとらせ給ひ、わづか五百三百之人数に而御年としにもたらせ給で、早西三河を切取せ給ふ。是と申も第一御武辺武たけき故成。第二には君を大切に思ひ奉る、御普代をもたせ給ふ故成。いかよき御普代を持せ給ふとも君之心二にして、御慈悲じひも無、御情なさけも無、御哀あはれみも無者成難がたし。又は君之御心武たけく渡せ給ふとも、御普代ふだい衆君を一心に御たいせつに思ひ入不㆑申してかせぐ事鈍く候はゞ、いかに思召とも成難がたし。清康と申者御武辺第一、樊噲張良をもあざむき、御慈悲じひ御情なさけ御哀あはれみふかうして、御内うち衆も御代々久敷御普代と申、思ひ付申而君には妻子を帰見ず、一命をすて而㷄水の中ゑも飛入、是非ともに御用に立而御馬之先に而打死をすべし。たとゑ拾万廿万有と云とも、五百三百之者ども君を中に取つゝみまん中ゑきつて而入、四方八面切而廻らば、何かはためん哉。御年拾九の時尾島之城を取せ給ふ。廿斗之時 尾張をあり之国へ御手をかけさせ給ひ而、岩崎しな野と云郷を切取給ひ而、しなのゝ郷をば松平内前殿へつかはさる。其寄うりの熊谷くまがえが城ゑ御働はたらき成、早其時者西三河之人数八 せん有。拾五六手につくり段々におさせられ、岡崎を打出させ給ひ而、やわたに御陣を取せ給ひ而、明ければうり寄一二里へだたり而、御陣を取せ給ひ而、明ければ段々におさせられ、熊谷くまがえが城へ押寄給ひ而、放火はうくわして大手ゑ者松平内前殿、同右京殿、其外御一門の衆寄よせさせ給ふ。御旗はた本はからめ手上のかさゑ押上させ給、天地を響かせ四方 鉄砲てつぽう打こみ鬨をあげさせ給ふ。熊谷くまがえも去弓取なれば、事ともせずして大手へきつ而出る。松平右京殿と申者、御一門之中にもすぐれたる弓取、又は他人にも右京殿のうへこす者は無。然間一足去らず戈かはせ給ふ所に良且戈給ふが、おほく之疵きずをかうむり、もさらずしてしう従十二三人討死をし給ふ。松平右京殿と申者、武辺第一と申一度も逆心ぎやくしん之無人なれば、清康も事之外惜をしませ給ひて、御落涙中々申つくしがたし。其時内前殿 すけさせ給はゞ、右京殿討死は有間敷に、内前殿一円 すけさせ給はず。清康者からめ手の山寄見下させ給ひ、内膳は何と而弐すけざると而御拳を握らせ給ひ、御眼まなこを見出し御顔をあらめ、はがみを被成 白泡しらあわを䶦(かませ)給ひ而、突立て眦而泚にらめあせながさせ給ふ御有様、やく神天満鬼神も面を可㆑合様も無。余りに御勢せいにするかねさせ給ひ而、内前殿をめされて、只今右京仕合に付、すけられずしてかなはざる所を、よそにみ而国にもかへ間敷右京をば討せ給ふ哉、さりとは方之弐すけさせられでかなはざる処をよそに見て、国にも替間敷右京をば打せ給ふ哉。去とは貴方之弐すけさせられではかなはざる処成を、よそに見所にはあらず。明日にも御覧ぜよ。弓矢八幡天道大も御照覧せうらんあれ。我等が手前において、一門の者を打せては見間敷と仰けり。

〜参考文献〜

三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource

https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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