3-27 見えない「信仰のバックアップ」
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。
ついに、俺が命を懸けて書き綴ってきた『三河物語』も、これが最終章 ―― 譜代の魂の叫びだ。
徳川幕府という巨大なシステムが安定した今、御膝元の中枢にはびこるバグ……いや、耳障りの良いことばかり言う「新参者」や「他国衆」への憤りと、俺たち「譜代」が守り抜いてきた魂の記録を、最後に叩きつけてやる。これが、俺の人生の全リプレイの集大成だ。
俺はな、毎日朝夕の看経で、最初にお釈迦様を拝み、次に東照権現(家康公)様を拝む。そして必ず、当将軍様(秀忠公・家光公)の寿命が長く、御兄弟共々健やかであるようにと、掌を合わせて祈っている。
今の将軍様は、こんな俺の祈りなんてご存知ないだろう。だがな、権現様なら全てお見通しのはずだ。世は末世になり、神も仏もいないのかと思うような理不尽も多いが、それでも俺はこの「看経」だけは一度も絶やしたことはねえ。
子供たちよ、よく聞け。今の将軍家は、他国から来た新参者を「譜代」と呼んで重用し、俺たちのように九代にわたって仕えてきた「ガチ譜代」を、二、三百俵の安い給料(三年米)でこき使っている。
「ありがたいと思え」と言われても、正直、そんなはした金で生活を維持するのは至難の業だ。だがな、たとえ報酬が「ゼロ」でも、俺は徳川のギルドを抜ける気はねえ。
「土地はいらねえ、草履取りでも馬取りでもいいから、徳川の看板を背負い続けろ」。
これが俺の遺言だ。信光様から家康公までの代々の恩義を忘れるな。もし主君に背けば「七逆罪」のフラグが立ち、無間地獄へ永久追放される。この世は仮の宿に過ぎん。大事なのは、後世の評価だ。
世の中には「因果応報」というシステムが確実に存在する。織田信長は 比叡山や恵林寺で僧侶たちを焼き殺した。その報いはすぐさま返ってきた。わずか三ヶ月後、本能寺で自分も焼き殺されるという「地獄の等価交換」だ。
豊臣秀吉は 関白・秀次を殺し、罪のない娘たちを三条河原でデリートして「畜生塚」を作った。主君の息子(三七殿)を死に追いやった。その因果は、息子の秀頼に全て返った。
豊臣秀頼は 家康公を暗殺しようとしたり、十万の浪人を集めて五度も反乱を企てた。家康公は慈悲で四度まで許したが、五度目でついに滅亡した。
これらを見れば、悪行は必ずいつか破綻するようにプログラムされているのが分かるだろう。
家康公のプレイスタイルが他と違ったのは、圧倒的な「慈悲」のバフを持っていたことだ。信長公が「伊賀の者を一人残らず消せ」と命じた時、家康公は密かに彼らを匿い、救った。その「徳」があったからこそ、家康公が窮地に陥った「伊賀越え」の際、伊賀の者たちが命懸けで護衛してくれたんだ。
三成、佐竹、上杉、島津、毛利……。敵対した連中を、家康公はことごとく許し、あるいは領地を与えて存続させた。秀頼にいたっては、四度も「リスタート」のチャンスを与えた。
この「赦し」こそが、徳川サーバーがこれほど長く安定稼働している最大の秘訣だ。俺は、報酬が少ないことや、新参者がデカい顔をしていることに文句は言う。だが、それは「主君が大好きだから」こその愚痴だ。
いいか、息子たちよ。主君が馬を引けと言えば笑って引け。火の中水の中へ行けと言えば、冗談を言いながら飛び込んでいけ。
「主君の御機嫌よりも、主君の名誉を守れ」
それが、大久保一族が九代守り抜いた「譜代の定義」だ。もし俺が死んだ後、お前たちが主君に不義理を働くようなことがあれば、俺は化けて出て、お前たちの笛の根を食いちぎってやるからな!
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
さて〳〵御ほうかうは身にあまるほど申上申なり。上様御座被成候御方へ、後をして臥したる事もなし。朝夕の看経にも先釈迦仏をおがみ奉りて、其次に相国様をおがみ奉りて、其次に当将軍様御寿命御安穏に御そくさいに、御子様御兄弟様何れも御そくさいに、御じゆみやうあんをんにと拝み奉り、其後七世の父母二親とおがみ奉り申。か様なる儀は当将軍様は御存知なき御事、東 照権現様は見とをさせられ給ふべき。か様に大事と存知奉り申儀をば、神仏も見とをさせられたまはん。おもへば世も末世になりて神もましまさぬかと思ひ奉るなり。然ども子供よくきけ。只今は御主様の御かたじけなき御事はもうとうなし。さだめて汝共も御かたじけなく有間じき。其をいかにと申に、他国の人を御心置きなく御膝元近く召つかわされ、又は何の御普代にもあらざる者を御普代と被仰て、御心おきなく召つかわされ、汝共が様に御九代迄召つかわされける御普代をば、新参者と被成て斗立の三斗五升俵の三年米を、弐百俵三百俵づつ何れもに被下て何とて忝存知可奉。然共其儀を御不足に存知奉らで、よく御ほうかう可申上、御こんがうをなをし申と御意ならば、弐百俵の事はさておきぬ。弐俵不㆑被㆑下候ても、御草履取になりとも御馬取なりとも、御家を出てべつの主取有間じき。只今こそ我等先祖をすてさせ給へ。信光様より此方相国様迄御代々の御なさけわすれずして、只今のかなしき事をば、信光様より御代々相国様迄ゑの御ほうかうと思ひ奉り、何とやうにも御ほうかう申上奉れ。其故御主にそむき奉れば七逆罪の咎をうけて地獄におつるなり。此世はかりのやどりなり。後世を大事と思ひて返々も御無沙汰なく、御馬取に被成候共御鑓かづきに被成候共御意にもれ有間敷、御家を出る事なかれ。御普代久しく度々の御ちうせつはしりめぐりを申、御九代召つかわされたる者の筋を、あしく召つかわされ給はば、御主の御ふそくにてこそあれ、万騎が千騎、千騎が百騎、百騎が十騎、十騎が一騎に成とも御草履をなをしてもよく御ほうかう申奉れ。但御ほうかう申上ても不勝づらをして御ほうかうを申上たらば、御ほうこうにならずして反つて七逆罪の御とがと可成。何事をもかごとをも御意次第火水の中へも入て打笑い申て、御きげんのよきやうに御ほうかう申上奉れ。親兄弟女子けんぞく一るいを取あつめても、必ず〳〵返々くりかへし〳〵御主様御一人にはかへ申な。御主様の御ほうかうならば、右の者共をば火水の中、又は敵かたきの中へも打すてゝ二度其沙汰もすな。其さたをしたる物ならば、悔みたるに似べければかならずさたもせぬ事なり。此おもむき汝共が子共によく申つたへよ。是をそむきて御主様へ御無沙汰申上たる者ならば、我死たりと云とも、汝共が笛の根に喰ひ付てくひころすべし。かくは申せども、只今御主様に御忝御事は一ツも半分もなけれども、信光様より此方御代々相国様迄の御あはれみを、我等の代々深くかうむり申、それへの御ほうこうと申、当将軍様迄御九代之御主様と申、又は我等の代々御ちうせつを申上たるを、今末の代に御無沙汰申上たらば、我々代々の御ちうせつがむと可成間、其儀をむなしくなすまじきため、其故御主様に逆心を申せば、七逆罪のとがをかうむりて無間地獄におつべければ、是等のおそれのおそろしければ、返々も御主様に背き奉り申な、よく〳〵心得可申。然共当世の衆は地獄見たる者なき、何の後生と云人も多し。然共地獄なきと云人は主親をも何共思ふまじければ、主の用にも立まじければ、左様なる人にはあつたら知行くれても詮もなき事なり。地獄が有と見てこそ主にそむけば七逆罪のとがをかうむりて、無間地獄ゑおつるをかなしみてこそ御主をば一しほおそろしけれ。又親に背けば五逆罪のとがをかうむりて、無間地獄ゑおちてよるひる苦をうける。其くるしみのおそろしさに、御主と親をば大事にして御意に背かざるやうにと、人間はたしなめ、地獄も極楽もなきと見たらば、主のばちもおやの罸もあたらぬと見べき間、是をおもへば左様に申人は、御主様の御事をも思ひ申まじきは必定なり。かまへて〳〵子共よくきけ、地獄も極楽も有にはひつぢやうなるぞ。地獄にかならずおそれて御無沙汰申上申な。御召つかい候事もあしく共、過去の生業いんぐわと心得て可有。然共因果は色々に有と見えたり。よき事をしてもよくは報はであしきも有り、あしき事をしてすゑがさかえてよきも有り。あしき事をして其身の代にあしくあたるもあり。色々とは見えたり。其をいかにと云に、御主様へ敵をして、さび矢を射かけ申たる者の末々の、はんぢやうしてさかゆるもおゝし。又代々御敵を不申上して、矢おもてにかけふさがりて、御代々の御時毎に御忠節を申上たるすゑ〳〵の者に、こと〴〵くかた身をすくめて、御敵を申たる筋の者にかゞむ因果も有。我等共の因果は此因果なり。さて又信長などの因果はたちまちにむくはせ給ふ。其をいかにと申に、みのゝくに岩もろの城にて甲州衆を攻おとさせ給ひ、二の丸へ押入堄をゆひて、こと〴〵くやきころし給ふ。其後甲州へ乱入給ひし時、ゑりん寺の智識達其外の出家達を鐘楼堂へおひ上て、火を付てこと〴〵くやきころし給ふ。比は三月の事成に、其年の六月二日にはあけち日向守べつしんして、二条 本能寺にてやきころされ給ふは、因果は早くむくいたるかと見えたり。さて又太閤の関白殿御べつしんとて腹を切せ奉りて、御手かけ衆を三十人斗、何れもれき〳〵の衆の娘達を、三条磧へ引出して頭を切て、一ツあなへ取入て畜生塚と名付て、三条につかを築給ふ事も因果、又三七殿は信長の御子なれば、太閤のためには主にて有物を、ぬまの内海にて御腹を切せ給ふ事も因果なり。昔は長田今は太閤なり。又家康様へ毒をまいらせんと被成けるに、座敷にて御しき代を被成て、御座敷が大和大納言の、上座より下座へ御さがり被成候故に、其御膳が大和大納言にすわりて、太閤の舎弟の大和大納言まゐりて死給ふ。是と申も相国様御じひにて御正直故に、天道の御恵深くして不被参、大和大納言の参りたるも因果なり。其後秀頼の大阪にて相国様に御腹を切せ奉らんと有りけれ共、ほぐれてならざる事なれ共、御じひ故に秀頼をたすけおかせられ給ふ。其後又諸大名を語らひて、伏見にて取かけて御腹を切せ申さんと専支度をしけれ共、思ひもよらずならざる事なれば打過ぬ。其後あひづ陣へ御出馬の御跡にて諸大名をかたらひて、手を出して伏見の城をせめてやきくづし、各を打取て其きおひに関が原へ押出して、合戦して打まけける時、御じひ故たすけおかれ、それのみならず、いなりに大阪の城におかせられ給ひけるに、其御恩をもしらずして今度又諸国の浪人を拾万に及てかゝゑて、御敵をなし給ふ所に、押寄させ給ひて城を取巻給へば、又かうさんのしければ、こりさせ給はで、御じひの深きゆゑに赦りさせ給へば、又次の年手出しをして、堺の町をやきはらへば、又々両将軍様御出馬有りておひくづさせ給ひ、なでぎりに被成ければ、運のすゑかや町も城も一間も残らず、二時の内にやけはらいける。天主に火がかゝりければ、秀頼は御母を打連させ給ひて、山里ぐるわへ出給ひて、又かう参を乞給へば、御じひにて御思案有けるが、いや〳〵又生けておくならば、又もや不覚悟可有に、腹を切せ申せと御意なれば、押かけて腹を切給へと申せば、火をかけて焼死に給ふ。是と申も太閤の因果又は御とがなき相国様へ度々におひてそむかせ給ふ因果なり。是を思へば因果と云事も有物か、さて又相国様の御じひは申不及候へどもあら〳〵如斯。まづ〳〵御敵をなしてさび矢をいかけ奉り、御命をねらいひたる者共を、こと〴〵く御助け被成候御事さいげんなし。又は尾張内府の太閤にせめつけられ被成んと有時、家康を頼奉と仰けるにより、御加勢に御出馬有て合戦を打勝給ふ所に、内ふは太閤にかたらはれ、家康へはさたなしにぶぢをつくりて、あまつさへ家康を打奉らんと内々たくみ給へと、何とも打可奉様のあらざれば程も延行ける処に、太閤より内ふはぶぢをつくらせ給ふが、家康は何と可被成、同は御ぶぢをも被成候へと仰被越ければ、内ふにたのまれ申せばこそぶぢにもいたさね、さらばぶぢに申とて御ぶぢになる。然時後内ふは太閤に国をとられ給ひて、越前のかたはらにあられぬ成にて御座候つるが、今度石田治部が手がわりの時、家康へ御敵に成て治部と一身に成けるが、合戦に御勝ち候ても御赦し被成て御じひを被成ける。今度は大阪へ不入る故に、役なしに五万石被下候儀は御じひにはあらずや。石田治部が伏見にて御敵をなさんとしければ、上方衆寄合て腹を切せんと申を、各を賺いてさお山へおくりて越給ふ。御じひにはあらずや。其御おんをわすれて又御敵を申て打ころされ申。佐竹、景勝、島津、安芸の毛利、彼等が御敵を申たるに、御せいばいはなくして反て国郡を被下けるは御じひにはあらずや。秀頼を四度迄ちがいめを御赦されたるは御じひにあらずや。信長の伊賀の国の者をば何方に有をも引出して、こと〴〵くせいばい被成けるに、三河遠江へ参たる者をば隠し置給ひて、一人も御成敗なき、是は御じひにはあらずや。然処に信長の御腹切せ給ひし時家康様者伊賀地にかゝらせ給ひてのかせられ申時、日比の御おん御忝と申て、国中の者共がおくり申奉りて通し申、是も日比の御じひ故なり。是も御因果の御目出度御事なり。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




