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新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ  作者: 条文小説


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3-26 俺の人生の全リプレイの集大成

挿絵(By みてみん)


三河物語みかわものがたり』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia

 よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。ついに、俺が書き綴ってきた『三河物語』も、これが最終章だ。


 先祖が神仏に命を懸けて誓った「嘘」から、俺が家康公に命を懸けて通した「真実」まで。三河武士の魂の歴史、その完結編を語ってやろう。


 大久保家は九代にわたって徳川を支えてきた。俺の祖父が清康様のために山中城を奪取し、そこから俺たちは「山中譜代」と呼ばれるようになった。


 清康様が亡くなり、若き広忠様(家康公の父)が大叔父の松平内前に岡崎を追われた時もそうだ。他の連中が広忠様と一緒に逃げ出す中、俺の父・大久保新八郎(忠員)ら大久保一族は、あえて岡崎に残り、主君・広忠様を岡崎城へ戻すため、神仏を欺く「七枚起請」を三度、計21枚の誓約書を書いた。


 「もし嘘をついていたら、白癩(らい病)になっても構わない。息子を串刺しにし、女房を牛裂きにしてもいい。来世では無間地獄へ落ちるだろう」


 ……そんな恐ろしい呪いのデバフを自分から引き受けてまで、父たちは広忠様を岡崎へ引き戻した。


 一向一揆で国中が敵になった時も、俺たち大久保一族だけは上和田の砦を死守した。正月十一日、五郎右衛門も七郎右衛門も、敵の矢で目を射抜かれながら戦い抜いた。家康公が一人で敵陣に乗り込もうとした時、次右衛門が馬の口を抑えて止めた。


 その時、家康公は仰った。「お前たちの恩は、七代先まで決して忘れん」とな。


 俺の兄たち三人も、主君のために討死した。俺自身も16歳から12年間、常に敵との境界線ボーダーで戦い続けた。そのうち4、5年は、枕元に常にぐそくを置き、夜は野に伏し山に伏し、芝やかやを敷いて眠る毎日だった。


 石川数正が裏切って秀吉へ逃げた時、兄(七郎右衛門)は信濃の小諸にいた。「すぐに戻れ」という緊急プッシュ通知が連日届いたが、兄は「今ここを離れたら信濃が落ちる」と踏みとどまった。誰もが「家族が心配だ」「ここで死んでも誰にも知られない」と留守居を拒否する中、兄は俺を呼んだ。


「平助、お前が残って死んでくれ」


 俺は即答した。「いいぜ。どうせ死ぬなら主君の目の前(御旗先)がいいが、兄貴の頼みならここでロストしてやるよ。早く行け!」


 俺はたった一人で、命を捨ててその場所を守り抜いた。


 真田との上田合戦で、徳川軍が完全に崩壊した時、兄(七郎右衛門)は「金のあげ羽の蝶」の指物を掲げて川を乗り返し、逃げる味方を呼び戻した。それに続いて俺(彦左衛門)も、「銀のあげ羽の蝶」を背負って敵の中に突っ込み、次々と敵を突き伏せた。


 首なんて取ってる暇はねえ。とにかく敵の進撃を止め、崩壊を食い止める。俺たちが踏みとどまったからこそ、五千、六千という味方の命が救われたんだ。これは偽りのない、戦場に残された真実の記録ログだ。


 大坂の陣の後、家康公が「あの時、旗は逃げただろう」と仰った。お気に入り(出頭人)たちは「そうですね、俺も見てません」と、主君の顔色をうかがって嘘の記録ログを書き込もうとした。だが俺は、家康公が杖で畳を叩き、脇差をガチャつかせて怒鳴りつけても、一歩も引かなかった。


「誰が何と言おうと、徳川の旗は立っていました!」


 もし俺が「旗は逃げました」と言えば、徳川の歴史に「最終決戦で旗が崩れた」という消えないバグが残る。異国までその恥が響き渡る。


 「俺の首を刎ねても構わない。だが旗の名誉だけは譲らん!」


 俺が命を懸けて論破し続けたおかげで、最終的に「旗は崩れなかった」という公式記録ログが守られたんだ。これこそが、譜代の奉公だろう?


 なのに、今の世はどうだ。かつて他人の下で草履取りをしていたような連中が、今や大軍を率いてデカい顔をしている。大坂で真っ先に逃げ出した奴が、過分な報酬(地行)を貰って街を練り歩いている。俺たち大久保一族は、九代にわたって忠義を尽くし、命を削ってきた。なのに、100俵、200俵の安月給で、家族は稗粥をすすっている。


 豪華な衣装で通り過ぎる新参者の大名を見送る時、俺の目からは、大粒の涙がはらはらとこぼれ落ちる。


 「……なんという因果か。主君のためにこれほど尽くしてきたのに、この仕打ちはあんまりじゃないか」


 そう思わずにはいられない。だが、俺は心を取り直す。土地なんていらねえ。金なんていらねえ。俺の手元には、先祖代々の血塗られた記録と、誰にも汚させなかった「三河武士の誇り」という名の最強のログが残っている。


 子供たちよ。この『三河物語』を、大久保一族の魂として受け取れ。


 お前たち、俺の子供や孫たちよ。この『三河物語』を、日に一度は読み返せ。俺たちが守りたかったのは、土地でも金でもない。「徳川を支えてきた」という、絶対的な自負なんだ。江戸の空の下、誇り高く生きろ!




【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】




信光様寄此方今当将軍様迄御九代召つかわされ給ひしに、我等共が先祖せんぞ御代々様へ一度そむき奉り申たる事もなし。其故清康様の御時には案祥じやう斗もたらせられ給ひける処に、我等共が祖父が山中の城をちやうぎをして、取て進上申なり。其より山中衆が御手に入て山中御ふだいと申なり。ひろ忠の御やうせうなるによつて、眼前がんぜん大伯父をぢにて御座有松平内前殿押領あふりやうして、広忠様を岡崎をたて出し奉せ給ひし時、伊勢の方を御らう人被成候へてわたらせ給ふ処に、十人斗も御供をして出るに、大久保一名の者は御供を申ならば、広忠様を御本意させ申奉る事なりがたければ、せんほうになりて御跡に止まりて、是非共に一度は岡崎へ入奉らばやと申て御供をせずしていたり。其外の御普代衆にも其存分にてとゞまる衆もおゝかりける処に、内前殿の仰には、広忠を岡崎へ入申さん者は、大久保新八郎寄外有間じきに、新八郎に入申間敷と起請をかき候へとて、伊賀の郷八幡の御前にて七まい起請をかゝせけり。其故にても、とかく新八郎より外有間じきとて、又伊賀の郷の八幡の御前にて、一度ならず二度ならず七枚まいきせうを三度迄かゝせける。其時新八郎やどへかへり、おとゝい共物をきけ。上様を岡崎へ入申まじきと又七まいきしやうをかゝせたり。殿様を一度御本意させ申さんためにこそ御跡にはのこりたり。其心なくば御供をこそ申べけれ。七まいきせうの御ばつとかふむりて、此世にて白癩黒癩びやくらいこくらいのやまひをもかうむれ。又はせがれを八つ串にも刺さばさせ、女房を牛裂にもせばせよ、来世にては無間の住家共ならばなれ、是非共一度は入申さでは置まじきと申て、我等共が伯父我等父などを引かこち、又は林藤助、八国やかう甚六郎、成瀬又太郎、大原佐近右衛門などを引入れ、其まゝ広忠を岡崎へ入奉る事も有、又伯父をぢご様の蔵人くらうづ殿御べつしんの時は、我等親の甚四郎と同弟の弥三郎と両人して、蔵人殿御家中をくりわりて口をもきくほどの者を、こと〴〵く岡崎へ引付申せば、蔵人殿御腹をたゝせ給ひて、大久保一るいの者の女子を一人、何共して取て磔にかけ度と被仰候事も有。又有時は御普代衆こと〴〵く一揆を起して御敵に成て、野寺、佐々木、土ろ、はりざきに立こもりて、相国様へさび矢をいかけ申時も、我等をぢの大久保新八郎屋敷城をもちて、わづか敵の城へ七八町十町斗へだてゝ、日夜たゝかいける。其時はこと〴〵く御敵を申せば、一国一城のやうなれども、大久保一流共が御味方申たる故に御運の開かせ給ふ。其時土ろはりざきを打あけて、大久保共の有ける上和田へよせかくる。其時正月十一日に大久保五郎右衛門も同七郎右衛門も一度に目をいられける。こと〴〵く手をおはざるはなし。其時上様人一ばんにかけつけさせ給ひてすでにのりいれんと被成ける処に、大久保次右衛門がはしり付奉りて御馬のくちを取、御跡を御らんぜよ、たれもつづき不申とてとゞめ奉り申時、汝共が恩をば七代御わすれ被成間じきと被仰し御事も有。おとゝい共しんるい、いとこ、はとこ供のかせぎ申儀は申つくしがたし。我等をぢも打死をする、いとこ供もおほく打死をして御ほうかう申、又は我等が兄も三人打死をして御ほうかうに申上、又は彼等も十六の年より境目に十二年罷有りて御ほうかう申上、其内四五年もまくらもとにぐそくをおきて、中夜野に伏山に伏、芝のは萱のはをおりしきて、かせぎかまりにくろうをする。然ども不器用にも候哉、つひに武辺のせず、又有時は石川ほうき守逆心のして太閤へ引のきける時は、大久保七郎右衛門は信濃之国こもろに有ける。ほうき守がべつしんなるに、七郎右衛門に急き罷上候へとおり付〳〵御ひきやくの立ども、七郎右衛門覚悟をもつて信濃を治め給へば、只今爰元を引はらい申者ならば、信濃は御手に入間敷と思ひて立かねたる処に、重々御つかひなれば、其儀ならばたれぞのこしおかんとて誰居りて呉よ、かれおりてくれよと頼候へども、伯耆守のき候故は上ても打死をすべし、また爰元に有りても打死をすべし、然る時んば女子共は何と成たるもしらずして、止まり申す事思ひもよらずとて、あらんと云人一人もなし。其儀ならば御ほうかうは何れも同前なり。平助是にて打死をしてくれよかしと被申ければ、彦左衛門申は何れも御ほうかうと承る。同御ほうかうならば罷上て御目の前にての打死は御目に見ゆべし。爰元にての打死は同打死なれども、幕の内の打死、人もしるまじければせんもなし。罷上て御旗先にて打死を可申。其故母と女房を頓てはうき守足の下におきて何と成たるをもしらず。母之儀は、御貴殿と次右衛門権右衛門にも母なればあんずる事なし。女房の行衛もしらずして是に有所に有らずと申ければ、七郎右衛門申は尤の儀なり、何かもいらず、其方をとゞめおかねば爰元の衆も心とまらずと申儀は尤なり。御ために立つる命と云、又は我等に命をくれて是にあれかしと被申候に付て、其儀ならば尤の儀、是に可有、早々御上あれとてのぼせける。然る間上方はみだれて七郎右衛門こそ取敢とりあへずに上たると云て、こゝもかしこもそゝめきけり。然る処に信玄の御子に御せうどうどのと申て御目くら子の一人、越後の国に景勝のかゝゑておき給ふが、其御父子を甲州へ入奉ると申てさゝやきける。か様の時もゆくへもしらぬ他国へ、十日路行て人のいかねる処に、命をすてゝ御ほうかう申上候。然どもはうきの守させるくは立もせざれば、おのづからしづまりければ何ごともなし。それのみならずしてさなだべつしんの時、御せいばいとして人数を一万余指被越候とき、おしこみてかまひをやぶりて退足につかれてはいぐんしけるに、四五町の内に三百余打れければ、早さうくづれにあらん時、金のあげはの蝶の羽の指物にて、七郎右衛門が加賀河をのり越て返す。七郎右衛門につゞいて彦左衛門が返す。七郎右衛門はかわらにてかけまわれば指物を見て、七郎右衛門所へかけよせける所に、旗をもおしよせける。彦左衛門はかわらにてつきふせて、頭をばとらずして上の段へ押上けるに、彦左衛門は銀の上羽のてふの羽を指たれば、それを見て十一二人参りたれば、七郎右衛門はかわらをもちこたゑる。彦左衛門は上のだんをもちこたへたる故に、総のはいぐんはしづまりたり。然ずんばはいぐんして四五里の間おひ打に打れ可申けれ、のこりたるとても五千も六千も打れ可申を、第一は七郎右衛門が帰したるゆゑ、次には彦左衛門が帰たるゆゑに、五六千の人数をたすけて御ほうかう申上たる事も有。又各々ちかき事なれば存知たり、偽とは申間じき。今度大坂において相国様御旗奉行衆うろ〳〵としたるを御腹立被成、旗はにげたると御意の時、御きに入申とて中々御旗は何方に御座候を不存と申上ければ、其付ていにしへは草履取を、一人としてもたざる者を御取立被成、一も二もなく御出頭を申衆さへ上様の御ひけの事御気に入申とて、御旗をば我等も見不申と申上ける。たとへばくづれ申御旗成とも、御旗は立申たるとて御意にそむくとも、御主様を思ひ奉らば立申と申はらずしてかなわざる処を、御主様の御ひけをもいらず、当座の御意のよきやうにと申事は、御取立の衆にはさん〴〵の事、以来の御用にも立がたし。然る処に彦左衛門に旗は何としたると御意の時、御旗は立申たりと申上ければ、御気色もかわらせ給ひ、畳のむかいのへりを御ふまへ被成て、御杖にてたゝみを突かせ給ひて、旗をば皆共も見ぬと云ほどに立間じきと御意成に、彦左衛門はこなたのへりに手を付ければ、間は二尺余有りけるが、かうべをたゝみに付て御旗は立申と申ければ、我も見ぬ程に立間じき、何と御意成とも立申と申上ければ、返してたつ間じきと、おふきなる御声にて御杖にてたゝみをつかせられ、御腰の物をひねりまわさせ給へどもそれにもおどろかず、何と御意なるとも御旗立申と申はりて、ついには申かちける間御旗はくづれざるに成たり。我等が身上の事を各々の様に思ひて、おの〳〵の如くに御はたは立不申と申上候はゞ、さながら御旗はくづれたるになるべし。然る時んば日本に其隠れ有間敷ければ、異国迄も其ひゞき不㆑可㆑然、我等が頭は刎られ申とも御旗に疵は付申間じき。たとへばくづれ申ともくづれ不申と申上げて御せいばいに合可申に、いわんやくづれ不申御旗に候間、おそれながら御ことばを帰し申て申はりたるによりて、御旗のくづれざるにしたるは、我等がからかい申たる故なり。是は御ほうかうにはあらざるや。それのみならず七郎右衛門に付て、さかいめに十二年いたるに七郎右衛門者をつれ、七郎右衛門名代に此方彼方の取出の番を、其将になってつとめたる只今迄残りて有者は、御普代衆の内には我一人より外は有間じき。尤其比の取出の番をしたる衆も可有けれども、其衆はことごとく人に付てありきたる衆は可有。人をつれて歩きたる人は一人も有間じき、我斗にて可有を、我等をば辛労苦労申上たるとは思召なくして、其比人の内の者に成て、其主人に扶持給ふちきふをうけて、草履取一人のていにて其主人ゑほうかう申たる者をば、若き時しんらうくらうして走りまはりたる由御意にて過分に御地行を被下ける。それは其身の主へのほうかうなり。上様への御ほうかうにあらず。其を御ほうかうと思召候はゞ其主への御ほうかうはなし。我等は境目へ出ると申せども、親の跡と兄の新蔵打死の跡を被下てあれば、七郎右衛門処寄は何にてもとらず。若き間は御手さきを心がけて、我が望にて出たり。其故七郎右衛門をさかいめに召おかれける間、方々以さかいめへ出て御ほうかう申上候なり。人なみに走りまい申事は一々にあらはしてもいらざることなり。面白き事どもなり。御直に御地行被下て、さかいめへ出て御ほうかう申上たる我等共は、辛労とも思不召して、主をもちて其主の供に出たる者をば、さかいめに有てしんらうをしたるとて、過分に御知行を被下ける。子共聞たるか、其いにしへ人につかわれ、草履取一人にて世をめぐりたる衆が、御前へ出人を大勢召つれたり。又今度大坂にておそろしくもなき所にてにげたる者が、過分に重ね地行を取て、人を多く召つれてひらおしにありく。我等共は又武辺したる事もなし、猶々にげたる事もなし、先祖の御忠節もきわもなし、又我等辛労もきわもなし。御主様には当将軍様迄御九代の御普代なれども、か様に被成ておかせられ候へば、右の衆が人多おほにて通れば、わきへ乗寄せてとおる時は、さりとは、御なさけなき御事かなと思へば、人しれず大とちのせいなる涙がはら〳〵とこぼれけれども、何の因果かなと思ひて、心と心を取なをしてこそ歩き候へ。

〜参考文献〜

三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource

https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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