3-23 東照大権現・家康公、最強の遺言
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。
これまで三河のど田舎から天下の頂点まで、俺たちがどれだけ「クソゲー」じみた逆境を乗り越えてきたか語ってきたな。だが、どんな名プレイヤーにも、いつかは「強制ログアウト」の時が来る。
今日は、徳川家康公……いや、最後は「相国様」と呼ばれた俺たちの神君が、いかにしてこの世界を去り、そして二代目の秀忠公がどうやって将軍の座を引き継いだか――その最終章を語ってやろう。
そして、沈黙を守り続けた「三代目」の真の姿。この物語のエンディングを、その目に焼き付けてくれ。
ハンカチの用意はいいか? これが「三河物語」の真のエンディングだ。
元和2年(1616年)正月。相国様は駿河の田中へ鷹狩り(御鷹野)に出かけた。だが、そこで突如として体調を崩された。いわゆる「致命的な病」だ。次第に症状は重くなり、4月17日、ついにその時が近づいていた。死の間際、相国様は枕元に二代将軍・秀忠公を呼び寄せ、最後の遺言を授けようとした。
「……秀忠よ。俺が消えた後、日本中の諸大名を3年間は江戸に留めておけ。勝手な帰国は許すな。それが天下を守る安全策だ。」
これに対し、秀忠公は毅然と、そして最強の大将軍に相応しい回答を返した。
「父上の遺言には背きませぬ。……ですが、この一点だけは拒否させていただきます。父上が亡くなられたなら、俺は即座に諸大名を国へ帰します。もしそこで反乱を起こす奴がいれば、その国まで押し掛けて一合戦で踏み潰すまで。 天下というものは、一度も戦わずに治まるものではありません。」
これを聞いた家康公は、満足げに手を合わせ、息子を拝むようにして仰った。
「……その言葉が聞きたかったのだ。それほどの気概があるならば、天下はもう安泰だ。安心したよ。」
こうして相国様は、愛する息子が自分を超える「覇王」になったことを確認し、安らかに御遠行された。下々の者たちは、秀忠公の頼もしい「ハードコアな決意」に舌を巻いて感銘を受けたという。
家康公が去った後、諸大名は「来年また来いよ」と、あっさりと国元へ帰された。この平和な移行は、家康公が積み上げた「徳」という名の膨大なバフによるものだ。
ここで、相国様や秀忠公のような「優れた管理者」が持っていたメンタリティについて、一つ古いログを紹介しよう。
大昔、中国の「殷」というサーバーで、3年もの間、雨が降らない「大干魃」で国が滅びそうになった。草木は枯れ、人民は次々とロストしていく。湯王は悩み、ついに究極の決断を下した。
「俺の政治に間違いがあったなら、天よ、俺を燃やせ!」
王は野原に高さ二十丈(約60m)もの巨大な薪の山を作らせ、その頂上に登ると、湯王は自らを「生贄(物理的犠牲)」として捧げるべく、部下に火をつけろと命じた。
「俺が死んで雨が降るなら、喜んで生贄になろう」
火が放たれ、炎が空を焦がし、王の服に火が移りかけたその瞬間!
天がその覚悟に反応し、サーバー全域に「大雨」の修正パッチが降り注いだんだ。炎は消え、五穀は実り、世界は救われた。
「自分の間違いを認めるのを恐れず、万民のために自分を捨てられる管理者」。
これこそが、徳川の歴代当主たちが目指した「王道」だ。
家康公が成し遂げた泰平の世も、まさにこの湯王と同じ、一人の王の強烈な覚悟がもたらした奇跡なんだ。
さて、今の将軍様・家光公の話だ。まだ若く、あまり言葉を発せられなかった頃、世間では家光公について、勝手なことを言う奴らがいた。
「家光公はいつも黙ってるし、何を考えてるか分からん。相国様や秀忠公に比べたら無能なんじゃないか?」とな。
だが、俺(彦左衛門)は、そんな連中に言ってやった。
「お前ら、何も分かってねえな。『蛇、一寸を出れば其の大と小とを知り、人、一言を出せば其の長と短とを知る』って言葉があるだろ。当将軍様(家光公)は、無闇にチャットを飛ばさないだけだ」
思い出してみろ。あの最強の祖父・清康公も、13歳で当主になった時は今の将軍様とそっくりなオーラを放っていたと、俺の親父たちが語っていた。
清康様はわずか13歳で家督を継ぎ、17歳で三河を統一し、尾張まで飲み込もうとした伝説の「スピードランナー」だ。家光公がふとした時に見せる鋭い眼光、そして一言で場の空気を制する重み。
『蛇、一寸を出れば其の大と小とを知り、人、一言を出せば其の長と短とを知る』
家光公の家光公がたまに発する言葉を聞けば分かる。あの方の武勇と器量は、清康様そのものだ。徳川ギルドの未来は、この「沈黙の天才」によってさらに盤石になるだろう。
家光公が将軍でいる限り、徳川の天下はパッチ2.0、3.0へと安定してアップデートされ続ける。民の竈からは夕煙が絶えず、平和という名の「最高報酬」が配られ続けるんだ。
その後、御遠行された相国様は、ただの死者では終わらなかった。あの方は「東照大権現」として、紅葉山(江戸城内)や日光に祀られ、このサーバーの「守護神」になられたんだ。
仏の教えで言えば、あの方は如来の化身。徳川源氏を守り、日本の平和を永遠に保つという「絶対的宣誓」を立てた存在だ。
考えてもみろ。わずか500人の譜代と始めた「三河サーバー」の初期クエスト。6歳で人質として売り飛ばされ、自分の城を奪われ、息子を亡くし……。
そんな「無理ゲー」をクリアして、今や日本全土(一天四海)どころか、唐(中国)や高麗(韓国)、天竺までその威名が轟いている。
「天下が安定している時は、刑罰を使わずに済む」。
相国様が作り上げたこの平和なシステムこそが、三河武士が、そして家康公が夢見た究極の「安定バージョン」なんだ。
親氏、泰親から数えて十一代。「慈悲」「武勇」「譜代の絆」「情け」。この4つの強力なステータスを積み重ねて、徳川家はここまで大きくなった。これらが混ざり合って、今の「目出度き御代」がある。
いいか、子供たちよ。もし、将来の将軍様が俺たちのことを忘れても、あるいは新参者がでかい顔をしても、この書を読み返せ。
この『三河物語』を書き残したのは、お前たち子孫に「自分たちがどんな歴史の記録の上に立っているか」を分からせるためだ。
俺たちの先祖がどれだけ泥を啜り、主君のために命を投げ出してきたか。その「真実のログ」さえあれば、七代にわたって徳川に仕えてきた「譜代の中の譜代」大久保一族の魂は死なない。
「誰が歴史を創り、誰がその誇りを守り抜いたか」。
それを知る者だけが、次の時代を生き抜くことができる。じゃあな。泰平の世を、存分に楽しめよ!
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然間元和二年〈丙辰〉の正月、田中へ御鷹野に御成被成ける処に、俄に御わづらいつかせられて、次第々々におもり給ひて、卯月十七日に御遠行被成ける。御遺言の儀たれしりたる人はなけれども、申ならはしたるは、我がむなしく成ならば、日本国の諸大名を三年は国へ帰さずして、江戸に詰めさせ給へと被仰ける時、大将軍の御状には御ゆひごんの儀一つとして違背申まじき。然とは申せども此儀におひてはおゆるされ可被成候。左様にも御座候へば、若御遠行被成候はゞ、是より日本の諸大名をば国へ帰し申て、敵をもなさば国にて敵をさせ、押かけて一合戦してふみつぶし可申。何様天下は一陣せずしてはおさまり申間敷と被仰候へば、其時御手を合られて、将軍様をおがませられて、其儀を聞き申度ために申つる。さては天下はしづまりたりと御よろこび成され而、其まゝ御遠行被成候と申たり。下々にて、さても〳〵将軍様の被仰様は承ごとかなと舌を捲いてほめ奉たり。然間相国こそ卯月十七日に御遠行ならせ給ひけれ、各々は不㆑被㆑下して国元にてゆく〳〵と、其元仕置き其外申付而来年罷下給へと仰被越給ふ。此御ことばに付おそしはやしと諸大名は罷下。さればにや君之御めぐみあまねく、御あはれみのふかくして世もしづまり、かた〴〵も安穏なるにて、昔を思ふに大唐殷の国に旱魃する事三ヶ年なり。然に草木こと〴〵く枯れうせ、人民多くほろびけるうへは、鳥獣にいたる迄いきのこるべしとは見へざりける。国主大になげき給ひて、大法秘法のこさずおこなひ、雨を祈給へどかなわず。大王思ひの余りに諸天を恨奉りていわく、我生て寄此方、禁戒をおかさず政みだりにおこなふとも思はざるに、如此日でりして人の生命すくなし。身にあやまりあやまる処あらば、いましめ給へかしとなげき申さるれども、其しるしなかりけり。今は自ら命を民の為にすてんにはしかじとて、広き野辺に出て萱をおほくあつめて高さ二十丈につみあげさす。公卿大臣奇異の思ひをなすに、国王臨幸なりて、其かやの上にのぼり給ひて、まわりに火を付よと宣旨を被成ければ、臣下大に辞して付る者なし。其時大王の給はく、若あやまりて政罌粟ほどもみだり成事あらばやきぬべし。やくる程の身ならば命いきても益なし。若又あやまらずば天是をまもるべしとて大に逆鱗有りければ、綸言そむきがたくして四方寄火を付ければ、猛火山のごとくにもゑあがりて、炎空に充てり。大王もけむりに噎び、前後もわきまへがたくし、すでに御衣に火の付ければ御目をふさぎ、掌を合十念に住して火境変浄地と念じ給ひければ、天是を憐み大雨俄にふりくだりて、山のごとくなりつるみやう火をけし、国王もたすかり給ふ。人民命をつぎ五穀成就しけるとなり。是も大王の御心一つをもつてなり。されば論語に曰く、あやまつてあらたむるにはゞかる事なかれ。あやまりてあらためざるは賢かへりて愚なりと見へたり。然に此文の名を円珠ともいへり。まことなる玉のばんをはしるによそへてなり。公方様の御ことばのおもき、一つに天下も穏やかにたせいも静まり、国土安穏にしてたみもゆたかにさかへ、目出度御代とぞ申けり。さて又我伝聞くは、親氏泰親様より今当将軍様迄御代拾一代の御事をあらまし伝てきゝおきしに、御代々御慈悲をもつて一つ、御武辺をもつて一つ、よき御普代をもつて一つ、御情をもつて一つ、是によつて御代々もすへ程御はんじやう目出度なり。御子大将軍様の御代にわたらせ給はざる時は、物をものたまはず、人に御ことばをかけさせられ給ふ御事もなくして、何とも御心の内をしれず。いかにとしても御代につかせられ給ふ御事、いかゞあらんと申人多き時、大久保彦左衛門が申けるは、この君様はあだなる御人にはならせられまじき。其をいかにと申に、清康様は御年御十三にして御代をうけとらせ給ひて、纔の案祥の小城をもたせ給ひて、雑兵五百の内外の御普代の者斗にて、三河一国を、御年十七八の御時分はきりおさめ給ひて、其後小田の弾正の忠をおひすべて尾張を半国きりとらせ給ひて、諸国にて案祥の三郎殿と申て、人に怕られ給ふ。其清康様の御育ち、又はなりふりまでも我親共の物語申つるに、すこしもたがわせ給はねば、うたがひもなき御武辺はたけくおはしまして、諸国の人の恐れをなさざるはあるまじき、目出度御屋方可成ぞ。我は年寄の儀夕さりをもしらず。此かき物に後引合て子共ども見よ。つかな蛇は一寸を出して其大小をしり、人は一言をもつて其賢愚をしるといふことは、当将軍様の御事なり。御雑談のおもむきを承しに、御武辺ならぶ人有間敷ぞ、御普代久しく召遣われ申せば、御代も御長久に目出度なり。是やせいやうの詞に、漢の文王は千里の馬を宣じ、晋の武王は雉頭の衣をやくとは、今の御代にしられたり。民の竈には朝夕の煙もゆたかなり。賢王の代になれば鳳凰翅をのべ、賢国にきたれば麒麟蹄をとくと云ことも、此君の御時にしられたり。目出たかりし御事なり。抑東照権現は、かたじけなくも紅葉山に崇め奉り、蘋蘩の礼社壇に繁く、奉幣しんぎよく石社なり。其垂跡三所は仲哀、神功、応神三皇の玉体なり。本地を思へば、本覚法身本有の如来なり。八万法蔵十二部経の如来も、法しんの如来も、ほんうの如来も何れとわくべき一体なり。名付て三如来と号す。生界経行果上の三重の袂をあらわしたまへり。百王鎮護の誓を起して、一天 静謐にめぐみおはします。まことに是本朝の宗廟として源氏をまもり給ふとかや。現世あんをんの方便は、観音の信力を起し給ふ、仰ぎても信ずべきは此権現なり。相国の御ために清浄 衆縁の建立し給ふ。今の権現堂是成。其のほか堂塔を創立し給ふ。仏僧経巻をあふぎ、御志 即壮にして善根も又莫大なり。征夷大将軍に任ず。籌策を帷帳のうちにめぐらし、勝ことを千里の外にえたり。げにやはるかに纔の案祥に御座の御時、清康山中岡崎を御手に入させられ給ひて、其後三河一国をおさめさせ給ひて、御子広忠へゆづらせ給ふ処に、伯父内前に立被出給ひて、其後御普代の衆が入奉りて駿河の吉元を頼奉りて、竹千代様を人質に被㆑進し時、継祖父中にて盗取、小田の弾正忠へうり奉りて、御六才の御年より熱田大宮司があづかりておはします御時は、かく可有とはたれか思ひよるべきや。今一天四海をしたがへ、唐、高麗、中天竺まで掌なくなびかせ給ひ、なびかぬ木草もなかりける。まことややしきのことばに、天下安寧なる時はけしやくをもちひずとは、今こそ思ひしられたり。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




