3-20 家康公、孤立無援の「野良立ち」
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。
大坂の陣もいよいよ最終盤。天王寺口での決戦は、まさに「サーバーがハングアップ」したかのような大混乱だった。味方の戦列が崩れ、敵の猛攻にさらされる中、家康公の目の前で起きた「あるまじき不祥事」をログに残しておこう。
今回語るのは、名ばかりの「お気に入りスタッフ」たちがピンチでどう逃げ出したか、そして俺たち「ガチの譜代」がどう踏みとどまったかの実録だ。
慶長20年5月7日。家康公の馬印が天王寺の方にあるのを見て、俺たちは御旗をそちらへ進めた。ところが天王寺の南に差し掛かった途端、味方の戦線が崩壊を起こして、怒涛の勢いで崩れてきやがった。
混乱の中で旗を立てようとしたが、肝心の旗奉行(保坂と生田)の二人は、影も形もありゃしねえ。ふと見れば、家康公は道端の畔に馬を控えさせ、たった一人で立っておられた。周囲にいたはずの騎馬武者たちは、逃げたのか先へ行きすぎたのか、小栗忠左衛門ただ一人を除いて、誰一人として家康公の側に残っていなかった。
これには呆れたぜ。普段、家康公に目をかけられて「自分は特別なプレイヤーだ」とデカい顔をし、諸国の衆からも恐れられていた連中が、いざ一番の危機(高難易度イベント)が来たら、老いも若きも揃って主君の側を離れてやがる。
どれほど華々しい武功を立てようが、主君の側を一寸でも離れるのは、武士として致命的なエラー(第一のひけ)だ。「俺は状況を把握している」なんて蔭では口を叩く奴は多いが、実際にこのカオスの中で家康公の側にいた奴は一人もいなかった。これが、付け焼き刃の「お気に入り(出頭人)」たちの限界だ。
しばらくして、旗奉行の保坂金右衛門が、はるか後ろからノコノコやってきた。
「平助(彦左衛門)、俺たちは先へ行くぞ(敵に突っ込むぜ)!」
俺は冷ややかに返してやった。
「ああ、そりゃいい。先では鑓のぶつかり合いが始まってる。さっさと行って、自分の槍を見せてこい。俺は、俺に預けられた『御道具(鑓)』を守って、ここ(主君の側)に留まるからよ」
俺の皮肉を聞いた金右衛門は、急に顔色を変えた。
「……やっぱり、俺も行くの止めるわ」
「ハッ、正解だ。何も起きなきゃそれでいい。だが、もしもの時は、預かった道具を枕にして討死するのが、俺たち譜代の基本仕様(本義)だからな」
もう一人の生田三太夫に至っては、後で「俺は先へ出て鉄砲を撃っていたんだ」なんて嘘くさいログを流していたが、本当かどうかは怪しいもんだ。たとえ撃っていたとしても、預かった旗を放り出して持ち場を離れるなんて、職場放棄もいいところだぜ。
結局、最初から現場にいたのは俺(彦左衛門)だけで、後から諏訪部惣右衛門、そして若林和泉が合流した。
「なんで家康公は、あんな実績のない上方出身の生田なんかに大事な旗を預けたんだ?」と、みんなで愚痴り合ったよ。
結局、それもこれも「出頭人(お気に入り)の取り入り」のせいだ。実力のない奴に権限を与えるのは、組織にとって最大の脆弱性だってことを、周囲もささやき合っていた。
さて、5月8日。家康公は無事に京都へ帰還された。後を任された秀忠公(大将軍)は、秀頼に腹を切らせ、大坂の残務処理(仕置)を完璧にこなして、数日後に帰京された。
戦国という長い長い「動乱のキャンペーン」は、こうして徳川の勝利で幕を閉じた。俺がこの『三河物語』を書いたのは、何も武勇伝を自慢したいからじゃない。
「誰が本当に家康公を支え、誰が口先だけで逃げ出したか」。
その真実のログを、大久保一族の子供たちに、そして未来のプレイヤーたちに残したかったからだ。そして子供たちも、預かった「道具」と「誇り」を、死んでも離さないガチ勢であってほしい。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然る処に相国の御馬じるしの天王寺の方に御座候と見て、其方へ御旗を押けるに、頓て押付るに、天王寺の南にて味方俄にくづれて来りければ、其時御旗を立けるに、二人の旗ぶぎやう一人もゐず。相国様は道より天王寺の方に頓て道畔に御馬をひかゑさせ給ひて御座被成候。御辺には馬のりとては小栗忠左衛門より外は一人もなくして、ちり〴〵になりけるがにげたる事やらん、又御さきへゆきたる事やらん、御前にはあらず。然共少身の衆は此時に候へば、手前をかせぐとても御先へ出ても似合たれ共、御目をかけられて人となり諸国の衆にもちいられて御影を見、人に怕慄(おぢおのゝ)かれける衆は老若をきらわずして、上様之御あたりを一寸はなるゝ事は何たる武辺をしても第一のひけなるに、ましていわんや何れも有所をしりたる者は一人もなけれども、時のいせいによりて我も存知たり、我も存知たるとは申せども蔭にては有所存知たると申人一人もなし。其時御旗ぶぎやうの衆御旗のあたりには一人もあらずして、はるか後来りて保坂金右衛門が申けるは、大久保平助我等はさきへゆかんと云ければ、彦左衛門申けるは、尤の儀なり。先には鑓がはじまりたると云にさう〳〵ゆきてやりをし給へ、我等は仰被付ける御道具の有所にて可有と申ければ、金右衛門然者我等も参間敷と言ければ尤の儀なり、何事はなけれ共若何事もあらば、仰被付たる御だうぐを枕として、はて給ふを本義と存ずる成と云ければ、其時御旗の所へは参たれ、せう田三太夫は先へ出てむかひより鉄砲をはなしける間、其に寄て先へ出て我等も鉄砲をかけていたるとは云けるが、まことに鉄砲をかけていたるやらん、又はくづれたるやらん人はしらず。たとへば先へ出ててつぱうをかけてある共ゆわれざる事なり。仰被付ける御どうぐのあたりをはなれ申事はきこへ不申。然間はじめより彦左衛門ばかりいたる処へ、頓てすわべ惣右衛門が来たる、おしつゞきて若林和泉が来る。御旗奉行二人はるかおそく来る。然間各々の被申様にも彼衆にましたる御普代の衆も有に、ゆわれざる衆に御旗を仰被付ける物哉。其故上方と御取合の処に、せう田三太夫も上方の者なるに仰被付候儀はさりとはゆわれざると申。甲州関東の儀は上方との御取合なればくるしからざる事なれ共、是と申も出頭衆の気に入たる故なり。きに入而申被付而も御ためには不被可然事成と各さたしたり。さて又相国様は五月八日に御帰京被成けり。大将軍は御跡にとゞまらせ給ひ、秀頼に御腹を切せ給ひて其外御仕置共被成て御帰京なる。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




