3-19 因果のループ――太閤の裏切り、秀頼の末路
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人にして、最前線のスペシャリスト、大久保彦左衛門だ。
大坂の陣が終わり、豊臣ギルドは完全に解体された。だがな、最後に語らなきゃならない「歴史のバグ」がある。それは「因果」という名のプログラム、そして徳川ギルド内部での「譜代 vs 新参」という、終わりのない確執のログだ。
今回は、俺(彦左衛門)が天王寺の決戦で、無能な旗奉行たちをどう「論破」し、槍を振るったか。その全記録をリプレイしてやろう。
世の中には「因果」という仕様があるらしい。かつての太閤・秀吉は、もともと信長公の草履取りだったのを引き立ててもらった身でありながら、恩を忘れて信長公の息子(三七殿)を自害に追い込み、次男の信雄公を冷遇した。
その因果が、今度は秀吉の息子・秀頼に回ってきたわけだ。秀頼は、家康公を消そうと大坂や伏見で何度も暗殺を企て、さらには浪人を集めて四度、五度と叛乱を繰り返した。家康公は慈悲で四度まで許したが、もはや限界だ。
「これ以上生かしておけば、また謀反するぞ」
結局、秀頼は腹を切ることになった。「主家を裏切った者は、自らも裏切られ滅びる」。これが戦国サーバーの非情な因果応報だ。
さて、身内の話だ。今度の合戦、俺たち「御鑓奉行」に対し、「御旗奉行」たちの動きがあまりに「うろちょろ」して見苦しかった。
旗奉行1:保坂金右衛門(甲斐出身・武勇ログなし)
旗奉行2:生田三太夫(丹波出身・実績不明)
こいつらは、本多正純(上野)といった重臣のお気に入り(出頭人)というだけで、重要なポジションにアサインされた連中だ。俺と相方の若林和泉は、前夜から冷ややかな目で見ていた。
「おい和泉。あの連中、上野に媚びて旗を預かったはいいが、戦場での立ち回り(武者遣い)なんて一ミリも知らねえぞ。明日、見てな。何かあったらパニックになって、旗の回し方すら分からなくなるぜ。依怙贔屓で抜擢した奴らにも恥をかかせてやろうぜ」
案の定、決戦当日の天王寺口。家康公(相国様)が岡山へ移動されたというのに、旗奉行たちは住領まで旗を運んでしまい、完全に迷子になっていた。俺(彦左衛門)が駆け寄って
「旗を阿部野の原まで戻せ! あの大塚に駆け上がって家康公の馬印を探せ!」
とナビゲートしてやったが、こいつらは馬印も見つけられず、挙句の果てにはこう抜かしやがった。
「茶臼山に向かって旗を進める? お前、正気か! あそこは敵(真田幸村)がいるじゃないか!」
俺はガチギレした。
「お前こそ、なんて下手くそな旗の立て方をしてるんだ! 茶臼山が敵だからこそ、遅れずに左へ回り込んで圧をかけるんだろ! 徳川の旗が、敵を恐れてフラフラしたことなんて一度もねえんだよ。黙って俺の言う通りに動かせ!」
だが、こいつらは俺の言葉を聞き入れず、敵を背にするようなマヌケな進路を取りやがった。耳にバグでも詰まってんのか?
ようやく家康公と合流し、いよいよ鉄砲の撃ち合いが始まった時だ。俺は、旗の前に「御鑓」をズラリと突き出させた。すると保坂が慌てて飛んできた。
「おい彦左衛門! 旗の前に槍を出すなんて、俺たちは聞いてないぞ!」
俺は鼻で笑ってやった。
「当たり前だろ。俺たちが預かっている『武器』の使い方を、お前らみたいな素人に教える義理はねえ。戦場で、旗で敵を叩くのか? 槍で敵を叩くのか? んなことも分かんねえからお前らはダメなんだ。俺たちの道具の仕様に口を出すな!」
保坂はぐうの音も出ず、スゴスゴと引き下がったよ。俺は隣の若林和泉にこう言った。
「和泉殿、見ろよ。あいつら鉄砲隊の射程も理解してねえ。もし本当にヤバい状況になったら、旗ごとなぎ倒されるぜ。まあ安心しろ。いざとなったら俺たちが旗を奪ってでも立て直してやる。 お偉方のお気に入り選定が間違っていても、俺たち現場のプロがカバーすれば済む話だ」
どうだ。「因果」によって滅びる豊臣と、内部の「依怙贔屓」にイラつきながらも戦線を支える俺たち三河武士。
「報酬や地位ではなく、戦場での最適解を知る者が、真の武士である」。
家康公の七代先まで仕えてきた俺たち大久保一族のプライドは、こんな新参の「お気に入り」ごときに汚されるもんじゃない。
現場の正解は、現場の人間が一番よく知っているんだ。地行や地位は奴らにくれてやる。だが、戦場での『名誉』だけは、絶対に譲らねえぜ!
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
さて因果と云ものは有物か、太閤のいにしへは松下加兵衛が草履を取給ひし人を、信長の御取立をもつて人となり、今太閤迄へあげ給ひける人の、信長之御恩のわすれ而、御子の三七殿をぬまのうつみにて御腹をきらせ給ひ、尾張内府をば御地行を召上北国におしこめ給ひ而、御扶持宛行いもなくしておき給ふ。さて又太閤の御子秀頼も、相国様打奉らんと大阪にて一度、又伏見にて諸大名に仰而打奉らんと二度め、会津御陣の御跡に諸大名をもよおして伏見の城を攻めころして、相国へむかはせ給ひ而三度め、又去年謀叛の企て、諸浪人をふちして敵に成給ふ事四度め、又当年手を出し而合戦をし給ふ事五度めなり。相国御じひ故四度迄は御ゆるされ被成けれ共、たすけ度は思召けれ共、此うへは是非なき次第、たすけおく物ならば又謀叛を可企、然者腹を切給へとて御腹を切せ給ふ。是を見る時んば因果と云物有物なり。然る所に御旗奉行の衆今度うろ〳〵としたるを内々聞召被成候哉、御旗の衆一人は甲斐国の者ほさか金右衛門とて武辺もなき者なり。一人は丹波の者せうだ三太夫と申者なり。是も武辺の有もなきも御普代家にては人しらず。御鑓奉行の者、一人者武蔵の者、若林和泉と申者なり。一人は三河の者大久保彦左衛門と申者、是は相国御代御七代召つかわさる。其身の先祖つたわり申、御普代のものなり。然ると申処に、御旗奉行の衆御鑓ぶぎやう衆を下目に見て、何事をも御眼力をもつて御旗を我等共に仰被付けるとて物ごと談合をもせず、御鑓ぶぎやう衆はおか敷事申者共哉、出頭人を取むけて有ればこそ彼等に御旗をば仰被付たり。彼等が武辺もしりたり、あすが日にも見よ、彼等が何事もあらば御旗を取まわすすべをばしる間敷き。又依怙をして彼等を取立んとしたる衆本多上野其外の衆の胴骨をもよくしりたり。此衆が武辺定の事をかしき腹すぢなる事なり。只今座敷之上にて何かの事云て依怙したり共、何事もあらば見よ、えこしたる衆迄も恥をかゝせ可申と云ける処に、相国様は岡山の方へあがらせ給へば、御旗をば住吉迄押て行、住吉にて相国様の御座被成候方をしらずして、十方をうしなひて其時御鑓ぶぎやう衆とだんがふ申せ共、御眼りきにて御身逹には御旗を仰被付たり。斯様の時のためにてこそ、御眼力のちがわざるやうに可被成とて一ゑんかまはざれば、重々云寄て彦左衛門云は、然者御旗を阿部野の原へ押上て、あれなる大塚へ両人かけあげて御馬じるしの見えば其方へ押給へといへば、尤とて御旗をあとへ押返てつかへ上て見けれ共、御馬じるしは見えずと云。其儀ならば阿部野の原を押上給へと云ば、天王寺をさして押上げるに、中程にて御旗立ける処へ、彦左衛門がかけよせて、何とて敵ちかき所にて御旗をばふらめき給ふぞ。ちやうす山を左にして押上給へと云ければ、ほさか金右衛門が申は、御身はへたくらしき事をの給ふぞ。ちやうす山なるは敵にはあらずやと言ければ、大久保彦左衛門云けるは、御身こそへたくら敷旗をばたつれ、ちやうす山のを敵にてなきとはたれか云ぞ。ちやうす山のが敵なればこそ、御旗を遅々せずして左へ押上給へと云。相国の御旗が昔よりついに左様にふらめきて敵にへりたる事なし、たゞちやうす山を左になして押上給へと言けれ共返事もなき。良有て天王寺の方へは押ずして東の方へ押ける処へ、又大久保彦左衛門かけ付て、何とて敵を後になして左様に御旗をば押給ふぞ。御旗がまくれて見ぐるしきに、菟角ちやうす山を左にして押上給へと云へ共耳にも不入。然る処にちやうす山の東にてやう〳〵相国様見付申。然る処に早天王寺口にててつぱうのなり取合ける時、御旗を田中に立ける時、御鑓を御旗の前へ出しければ、ほさか金右衛門がかけ出して申は、只今迄御旗のあとに有ける御鑓を、御旗之先へ出し給ふか、我等はしらざると申時、彦左衛門が申は、不㆑及㆑云我等共のあづかり申御鑓を御身達にしらせんならば腹がいたき。其故物前にて御鑓が先へ不出ば何が可出ぞ、それ故物前にては旗にてたゝき合物か、鑓にてたゝき合物か、何とて御身達のしらん哉。我等二人のだうぐをしり度共しらせ間敷と云ければ、物もいわず帰りける。然処に彦左衛門が云けるは、若林和泉殿御らんぜよ。御旗奉行が何をもしらざる。てつぱう衆はみかすみに有り。てつぱう衆へ押付でかなわざる旗を、遥にへだちたると申ければ、左様に申たるかと云ければ、いや〳〵さやうには不申。然者我等が可申と被申候へば、彦左衛門が申。いや〳〵御無用に候、よき事をば御がんりきに我等仰付たりと云べし、あしき事をば其方と我等なんにいたし候はん間御無用と申ければ、和泉甲は、いや〳〵御ために候間可申と被申候へば、彦左衛門重て申は、御ための処は指おき給へ、彼等がていにてはまつことの時は、御旗を立申事は成間敷、其時は御身と我等として立可申ければくるしからず。其儀は御心安可有と申処に敵もはいぐんする。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




