3-18 豊臣ギルド、完全消滅
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。ついに、この戦国サーバーの最終章……「大坂の陣」のログを語る時が来た。
徳川が天下の覇権を完全に掌握し、豊臣ギルドという「かつての主家」を完全に消去する、最も冷徹で、かつ避けては通れないミッションだ。
慶長19年(1614年)から20年にかけて起きた、冬と夏の二大キャンペーン。これを語り終えれば、俺の「三河物語」も真のエンディングだ。
慶長19年。大坂城の豊臣秀頼は、天下の富(分銅)を溶かして「竹流し」という金塊を作り、全国から10万人の浪人を雇い入れた。これを聞いた家康公は、「母上(淀殿)を江戸へ送れ(人質パッチ)」と要求したが、秀頼側はこれを拒否。
城内では、穏健派の片桐且元(市正)が「家康公に従うべきだ」と必死に調整を試みたが、大野修理や真田幸村(左馬助)ら武闘派の浪人たちに「裏切り者だ」とパージされ、城を追い出されてしまった。
これにて「宣戦布告」確定。家康公と秀忠公は日本中のギルドを動員し、大坂城を完全ロックダウンした。蜂起した浪人たちが堤防を切り、水を張って防御を固める中、徳川軍は石川忠総(主殿頭)らが深い堀を潜り抜け、敵の砦を次々と落としていった。
家康公は力攻めを止め、築山を作って長距離の大筒を撃ち込み、精神的なデバフを与え続けた。耐えかねた城側は和睦を申し出る。
家康公は「いいよ。ただし、惣構(外堀)を壊すのが条件だ」と提示。和睦が成立した瞬間……
家康公は、日本中の作業員を集めて一日で堀を平らに埋め立てた。さらに「惣構だけじゃなく、二の丸の堀もだw」とばかりに、石垣を崩して内堀まで埋めてしまった。秀頼側が「話が違う!」と抗議しても、家康公は「本丸は壊してないからセーフ」と一蹴。Adminの権限をフル活用した、えげつない「環境改変」だったな。
慶長20年(1615年)正月。家康公は駿河へ帰ったが、わずか一ヶ月後には「秀頼がまた浪人を集めて武装している」というログが届く。浪人たちは「京都を焼き、琵琶湖の橋を落とせ」と過激なプランを立てていた。
これに対し、家康公と秀忠公は再び爆速で進軍。古田織部らの内通工作(裏ハック)を事前に検知して処刑し、迎撃態勢を整えた。
5月6日、道明寺の戦い。後藤又兵衛が奮戦したが、伊達政宗や水野勝成らに押し切られロスト。5月7日、天王寺の決戦。ここで真田幸村(左馬助)が「一発逆転」を狙い、家康公の本陣に三度にわたって突撃を仕掛けてきた。家康公の旗印が倒されるほどの猛攻だったが、秀忠公の旗本がこれを押し返し、幸村もついに力尽きてロストした。
城に火がかかり、大坂の街は一瞬にして焼き尽くされた。秀頼と淀殿、そして側近たちは山里曲輪の蔵へ逃げ込んだ。大野修理が「御乗物(脱出ポッド)を二、三台用意してくれ、降伏するから」と交渉したが、家康公の返答は冷酷だった。
「淀殿だけは乗物で出ろ。他は徒歩で出てこい」
交渉がまとまらぬまま、城兵による鉄砲が撃ち込まれ、秀頼一行は火を放って自害した。
その後、逃げ延びた長宗我部盛親や大野道犬らは捕らえられ、三条河原で処刑された。さらに秀頼のわずか10歳の息子(国松)までもが探し出され、処刑。家康公は「芽を完全に摘む」という非情な決断を下した。
こうして、戦国という名の「デスゲーム」は完全に終了した。生き残った浪人たちは具足を脱ぎ捨て、裸同然で逃げ惑い、捕らえられた者たちは全国へ散っていった。これ以降、日ノ本に大規模な戦争が起きることはなくなった。
俺、大久保彦左衛門は、この泥臭く、残酷で、しかし誇り高い「譜代」の記録を、後の世に伝えるために書き残した。
最後に秀頼の若君まで消したのは……情けねえが、それが戦国を終わらせるための『儀式』だったんだろうな。
この「徹底した締めくくり」が家康公が辿り着いた、平和を維持するための究極の最適解だったのかもしれない。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然る間慶長十九年〈甲寅〉之年秀頼諸国のらう人を抱へ、分銅をくづして竹をわりてそれへ鋳流して、竹ながしと名付てらう人共にとりくれて、十万余ふちせられると家康聞召て、其儀ならば秀頼の御ふくろを江戸へ下給へと仰つかはされけれ共、思ひ不寄と御返事有ければ、其儀におひては国をも可進に、大阪をあげて国入をし給へと被仰けれ共、其儀も思ひ不寄とていよ〳〵諸らう人をかゝへてふしんをして、てつぽうをみがき矢の根をみがくと聞召て、其儀ならばべつしんかと被仰ける。秀頼もりの片桐市之正異見の申けるは、なにかと被仰候御時分にあらず、兎角に何と成共家康の御意次第に御したがい被成て、御ふくろ様を江戸へ御越被成て御尤と申上げれば、大野修理、同主馬之助、同道けん、さなだ左馬助、明石掃部、其外のらう人共が寄合て申けるは、菟角に御ふくろさまを江戸へ御越被成候儀はいらざる御事に候。市之正は家康のかたんを申候へば、市之正を御せいばいあれと申に付て、市之正はすいたへ引のけける。さては謀叛におひてうたがひなしとて、東は出羽、奥州、関東八ヶ国、東海道、五畿内、西は中国、四国、九国、北は加賀、越前、能登、越中、越後、日本に残無所大阪へ押寄せける処に、大阪よりは河内摂津国の、堤をきりて水をはゞませ、道をあしくしたりければ、家康、秀忠、御親子様は都を御出馬あつて、諸せいは奈良口をほうりう寺、だうめう寺、平野へ出させ給ひて、相国様は住吉に御陣の取せ給ふ。大将軍様は平野に御陣を取せ給ひて、岡山へ御陣を取よせ給へば、相国様はすみ吉より天王寺へ御陣のよせさせ給ひて、ちやうす山に御陣の取せ給へば、諸ぜいは城を取まく。然所に城よりは、天ま、せんば、野田、福島、かわ田が城迄指出てもつ。然所に蜂須賀阿波守、かわだが城へ押寄てたゝかいけれ共、取事のならざれば、石河主殿頭横矢にかゝりきび敷せり合て、ふかきゑ河を脇立頭立にてとび入〳〵越て、攻かゝりければ、たまらずしてあけてせんばへ引入処に、蜂須賀のり入、次の日せんばをあけける処に、石主殿頭のり入て、せんば橋迄押寄て橋を越んとする処に、敵はこさせじとすれ共、あたりの衆主殿頭処へすける衆一人もなければ、敵は是を見てあたりのてつぼうをあつめて打立けれ共、事ともせずして良久しくたゝかいければ、相国様聞召て、あたりの者共はすけずして主殿をばすてころすか。主殿は何とて目もあかざる処へ押寄けるぞ。さう〳〵引のけよと重々御使ひの立ければ、其儀ならばとて少引のきて小口をかためていたりけるを、天下にかくれなく申ならしたり。相国様も大将軍様も両日の手がらを御感被成けり。さて城を四方より取つめ、高く築山を築て大筒をかけ、又は江口をつききらせ給ひて、天ませんばの河をほし、天地をひゞかせ攻させ給ふ。然る処に越前少将様と井伊掃部と乱入んとてほりへとび入どいをのり、既のりいらんとしたりけれ共、あたりの衆一ゑんにかまひもなく見物したるふぜいなれば、敵は此由を見るよりもあたりの虎口を指置て、おりかさなりてふせぎければ、乱入事もならずして引のきける。ひるゐなき仕合不申及。然る処に城も成間敷と心得てあつかいに成けるは、此儘ゐなりにゆるし給へと申ければ、相国の被仰様には、其儀ならば惣かまいをくづし給へ。其儀においてはいなりに指おかれ給はんと御意なれば、尤とおうけを申てぶぢに成ければ、おそしはやしと乱入て惣かまいのへいやぐらをくづして、一日之内に日本国の衆が寄合て一日の内にほりを真平に埋めて、次の日は二の丸へ入て二の丸のへいやぐらをくづし、石がけをほりそこへくづし入てまつたひらに埋めさせ給へば、秀頼もしよらう人も、もろ共に惣がまいと申つるに、二の丸までか様に被成候う儀共はめいわく仕と申せば、もとより惣がまいと申つる。たゞし本城をばやぶる間敷と申しつるによりて本城はやぶらず。其段になれば物をもいわせずしてうめさせ給ひて、相国様は御先へ京とへ御帰馬被成けるに、大将軍様御跡に残せ給ひて御しをき共被成、五三日御跡に御帰京被成けり。此故は秀頼重而手を被出候共御心安と御意被成、御親子共に卯の正月、駿河関東へ御帰国被成ける処に、二月は早秀頼手かわりの由つげ来る。然る処に手出しに堺の町をやき而手を出す。大野主馬、さなだ左馬頭、明石掃部其外の者共が申けるは、京とをやき払い、大津をやきてせたの橋をやきおとし、其より宇治橋をやきおとして奈良をやくべしと申処へ、早相国様の御馬が京とへ付、押付而早江戸より夜日についで押つめさせ給へば、大将軍様もつゞいて伏見へ御付給へば、秀頼の思召事もかなわず。然る処に、ふる田織部は京とをやき立申さんと申て秀頼と内通申処に、あらわれて其くみのもの迄あらわれ、東寺にはりつけにかゝる。古田織部は御せいばい成されける。其ほかにも御せいばい人おほし。かるが故に、慶長八年 〈癸卯〉五月五日に京とを御出馬被成而、同六日にどうめう寺ぐちへ後藤又兵衛をはじめとして各々出ける処に、たつ田ぐちより出給ふ衆、越後のかづさ守様、政宗、松平下総守、水野日向守、此衆に出合而、松平下総守、水野日向守、指合而両手の前にて合戦してきり負けて、後藤又兵衛は打れける。其外はいぐんしておひ打にせられ大阪指てにげ入。平野筋へは木村長門が出けるが、井伊掃部と藤道和泉と両人指合而、両手にて合戦して木村長門を打取ければ、大阪指而はいぐんしたる処を、おひ打に打ければ、のこりは大阪へにげ入、しぎ野筋へは榊原遠江がおひ打にしたり。然る間同七日には、御両旗にて押つめさせ給へば、真田左馬之助は天王寺ゑ押出しける処に、大将軍様押寄させ給ひ而御旗本にてきりくづさせ給ひける。大将軍の御手柄広大無変なり。然る所に城に火がかゝりければ、大阪内が町迄一間も不残やけはらいけるはふしぎなり。然る処陣すぎて後に味方くづれこそしたり。然る間秀頼は天主に火かゝりて、千畳敷もやけければ、山里ぐるわへ御ふくろ女房たち引つれ而御入有処に、井伊掃部を仰被付ければ、大野修理罷出て、御のり物を二三でう給候へ、罷可出と被申候由申ければ、御ふくろ斗のり物にて出給へ。其外は馬徒歩にても出給へと被申ければ、何かと言而出かねさせ給へば、其儘てつぱうを打こみければ、かなわじとや思ひ給ひけるや、火をかけてやけしに給ふ。御供には大野修理、真野蔵人、はやみかいの守、是は秀頼の供をして腹を切てやけしする事たぐひなし。野々村伊予守は行方なし。伊藤丹後守は秀頼さい後の場をはづし、さまをくゞりて出けり。大野主馬、千石惣弥は行方なし。長宗我部と大野道けんは、落ちて此方彼方(こゝかしこ)さまよひありく所に、長宗我部をば、やはたにてとらまへ而高手小手に諷て、二条の城の駒寄にしばり付而さらし給ふ。道犬をば大仏にてとらまへ而高手小手にいましめて、堺の町を引而両人ながら三条河原へ引出して、あをやが手にかけてかうべをはねて三条の橋の下にかけさせ給ふ。秀頼の落胤の若君も、十斗に成せ給ふを守がつれまいらせ而、伏見までおちゆかせ給ふをいけどりまいらせて、獄門にて切奉り而、すなわちごくもんにかけさせ給ふ。然間大阪にこもりたる衆は、命ながらへたる衆はこと〴〵く具足をぬぎすて、裸にて女子もにげちる。こと〴〵く女子をば北国、四国、九国、中国、五畿内、関東、出羽、奥州迄ちり〴〵に捕られけり。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




